世界はひとつなんかじゃない
1. 「家族」の定義
世界はひとつなんかじゃない。
その理由は…
などと綺麗な文章は書かない。
まずはこれを書くに至った「家族」の定義について述べる。
先日会社の帰り道でなんとなしに「家族の定義ってなんだろう?」と思った。
「社会的にあらゆる利害を共に受けるよう強制された人間の構成単位」と考えたころ、家に着いてしまった。これだとまだ「家族」に限らない言い回しなので完成はしていないのだけど、だいたいそんな感じ。
それから11日くらいたった今日、日芸の文化祭にてこんな作品を見つけた。
おお。
いかに「家族」が無機質なものであるかを表したく冒頭の定義に落ち着いたのだが、「社会における人間の構成単位」という点があっていて、妙に安心した。
「家族は大切」「家族は温かい」「家族には愛情を持って〜」的な戯言を耳に押し込められてきたけど、それはあくまで「家族」に対して勝手に『解釈』を付け加えただけであり、「家族」自体はただの構成単位なのだ。
そのあとWebでいくつかの辞書を渡り歩いたあと、ちょっと引っかかったのは、「血縁」とか「夫婦」という言葉が必ず入ってくるところ。
ちなみにわたしは、前職の最終面接で家のことを聞かれ、半泣きで答えながらも内定を得て入社したわけですが、その後「自分のルーツ」を考える研修で大号泣するなど、基本的に「家族」的優しさにかなり耐性がない人間である。この話はいつの日か記す。
さてそのあと、映画『ごっこ』を観た。
これを観ると、やっぱり辞書の「家族」の定義に「血縁」とか「夫婦」が出てくることに違和感を覚えざるを得ない。(まぁ私がこの映画の話をを受け入れられる人間だから、という点はある。)
2. 「世界」のはなし
ところで「世界」について最近確信していることがある。それは「世界はひとつではない」ということ。
同じ事象を見ても、皆それぞれに『解釈』が異なるし、自分でさえ同じものに対していつも同じ感情を抱くわけではない。
(同じ人間にいい気持ちもわるい気持ちも抱くことがある、というのがわかりやすい例)
つまり、ひとつの世界の上に違う視点を持った人たちがいるのではなく、一人一人違う価値観を持っていて、その交差地点を「世界」と呼んで私たちは暮らしているということ。
しかもその交差地点はいくつもある。
仲の良い恋人のことを、「二人だけの世界にいるね」とか表現もするじゃない。
そうやって個人の世界が交わるところで生きているんだよ、私たち。
だから、攻撃とかされない限りは違う考えの人がいてもさほど気にならない。だってその人は違う世界の人なんだもの。
「ほとんど気が合わないけれど、好きな歌だけは同じ」という人がいるとすれば、「好きな歌が同じ人が集まる世界」でだけ一緒に住めば良い話。
3. ソシュールの構造主義=解釈
この話をシェアメイトにしたところ、「構造主義だね、それ」と言われ、言語学者ソシュールを紹介された。
ソシュールは、「シニフィエ・シニフィアン」「物事は恣意的である」「客観的な事実は存在しない」と述べ、構造主義を主張した人。
参考:
特にネガティブでもなんでもない。ただそれが事実だなぁと思うだけ。
「あの時あんなきっかけがあったから、今この道に進んでいるのだ」「こうでないと悔しいからこれをやる」など。つまり、「家族」も「世界」もその他のうやむやも、全て構造として『解釈』できるだけなのである。
世界はひとつなんかじゃない。
という『解釈』。
生きる。 解釈が交わる世界で、手を取り合いましょう。