50歳。本当にやりたい仕事を始めるための挑戦日記はじめ
思えば自分のホームページを最初に作ったのは、13年前、2006年の9月のこと。
ということは、起業して13年ということになる。
その時撮影した写真がこれ。
今、50歳だから,13年前っていうと37歳。
今より13キロ以上痩せてるから、一年に1キロ以上太った、ということになる笑
22歳、大学4年生の時、フリーランスでファッション雑誌のエディターを始めた。
23歳から36歳まで13年間、「CanCam」に携わった。
34歳の時、フリーランスのエディターだった私に当時の編集長が、異例の大抜擢でファッションディレクターを任せてくれた。
使命は一つ。
「CanCam」を売ること。
考えに考え、「モテ」を全面に打ち出した。
なぜなら、CanCamを穴が空くほど読んでいた頃、10代後半から20代前半のわたしの
頭の中の99%が「かわいくなりたい、おしゃれになりたい、モテたい」で埋め尽くされていたのに、どこの雑誌でも「モテ」を提案していなかったから。「いける!」と思った。
コンセプトを打ち出し、スタッフを育て、モデルを育て、コーディネートをとことん提案し、就任当時20万部だった部数は80万部までいった。
もちろん、自分だけの力ではないけれどやりきった感はあった。
しかし、ふと立ち止まったとき、思った。
リアルな自分は「人生は自分の足で立って、恋愛も結婚も仕事も人生の選択権は自分にあり、選べる女が一番幸せ」と思っているのにこのヒットにより、その逆の「選ばれ待ちの女子」を増産してしまっていないだろうか?と。
そう思ったら、しんどくなった。
他にも色々思うことがあり、やめた。
今思えば、すごく幼稚な去り方だった。
そのせいで、なかなか波乱万丈なスタートとなった。
半年以上ニートだったけれど「嘆いていても仕方ない。やれることを地道にやろう」とまずホームページを作り、当時はしりだったブログを始めた。
ただの元編集者が名前を出して何やってんだ? 感は自分の中にもあったが「認知してもらえばやりたい仕事ができるはず」と思った。
ホームページを作り、ブログ始めたところで、仕事なんてきやしなかった。
開店休業状態がしばらく続いた。
それでも、自分が興味を持ってること、考えてることなどを発信し続けた。
やがてポツポツ仕事が舞い込むようになった。
一生懸命書いていたらブログが人気になり、今でいうインフルエンサー的な仕事も来るようになった。
トークショーや雑誌の取材にお声がかかるようになった。「とくダネ!」のコメンテーターとして何度か呼ばれたりもした。ウイキペディアもできた。
起業してからの仕事のモチベーションはひとつ。
「選ばれ待ち女子じゃなく、自分の足で立っていられる、選べる女子を増やしたい」
それは、CanCamで「モテブーム」を作ってしまったことのお詫び行脚的な意味も込められていた。誰にも頼まれていないけれど笑
過去に自分自身が、自信を失った時が、一番苦しんだからこそ、とても不自由だったからこそ、自由でいるには「自信」が必要だと思った。
自信とは、読んで字のごとく「自分を信じる力」。私ならできる! という気持ち。
それは、究極のところ、精神論になるのだけれど、ファッションと美容に携わる仕事をずっとやってきて、モデルがどんどん美しくなっていくにつれて輝いていく姿をたくさん見てきたことを思い、「外見」が美しくなることも、また自信に繋がるし、自分がこれまでやってきた仕事を考えてもそこをサポートするのが良いのかもしれない、と思いコスメを開発したり、ファッションブランドをプロデュースしたり、託児所付きトータルビューティショップを作ったりした。
女性のキレイをサポートする「女上げ塾」なるものも開講した。
仕事としてやりたいことはできていたけれど名前が出れば出るほど2チャンネルが盛り上がった。
ブログに誹謗中傷コメントも殺到した。
当時、出版する予定だった女性の生き方本も、書き上げ、表紙の撮影まで終わっていたのにかなり理不尽な理由で発売中止となった。
心が折れた。
「自分の名前ではなく、会社として仕事をとれるようになりたい」そう願った。「自分には少なくとも生き方を語る資格はないのかもしれない」そう思った。
そこから発信は劇的に減った。
その後、全財産2000円のホームレスと2度目のニートを経たものの、再び立ち上げたブランドプロデュースの会社、そして、2年前に立ち上げた「美髪&育毛専門サロン」は軌道に乗り、「個人」ではなく「会社」として仕事がくるようになり、安定した。
自分が望んだことだった。
、、、、はずだった。
しかし、心のどこかで「女性を輝かせる仕事がしたい」「自信を持つ手伝いをする仕事がしたい」という思いはくすぶっていた。
そのことに、つい2ヶ月前気づいてしまった。
悩んだ。
「私ごときに女性の生きかたを語る資格があるのだろうか?」「私ごときが女性を導きたいなんておこがましくないか?」「また、個人として活動し始めたら、叩かれてしまうなあ」
「何も、いま食うに困ってるわけでもないし、好きな仕事もできてるんだからわざわざ茨の道に進む必要なくない?」
などなど。
「始めない」理由はいくらでも思いついた。
しかし、それを超える熱量で「やっぱり、女性を輝かせる仕事がしたい」と強く思った。
では、どうやって?
オンラインサロンをもう一度開講する?塾をやる?
まずは、何かのヒントになるかもしれない、と箕輪厚介さんのオンラインサロンに入った。
ホリエモンと田端さんと迷ったけれど、
「元」編集者としては、今一番ホットな編集者である箕輪さんの頭の中が知りたかった。
実際、入会してみると、そこは想像以上の世界だった。
私が以前運営していた「こちらがサービスを提供する」型のサロンではなく「仕事に巻き込み、スキルを身につけさせる」サロンだった。
そして、そこに集まる人々の熱量と意識の高さに感銘を受けた。
「やりたいことがある。けれど、スキルがないから身につけたい」そんな人々がたくさんいた。
リアルな場で、サロンメンバーとも交流し、生の声を聞けた。
自分がやりたいこと、自分ができること、がどんどん明確になった。
それにはもう一度、自分の名前で仕事ができる人間にならなくては、と思った。
私ごときに女性の生きかたを語る資格がないのかもしれない。けれど、私の話を聞きたいと思ってくれる人だけが聞いてくれればいい。
私ごときが女性を導きたいなんておこがましいかもしれない。けれど、私と一緒に自信をつけたいという人もいるかもしれない。
また、個人として活動し始めたら、叩かれてしまうかもしれない。けれど、叩くのは究極のところ、根っこは嫉妬。嫉妬するよりされる人間になった方がいい。
うまくいかないかもしれない。けれど、何度でも軌道修正してできるようになればいい。
そう思えるようになり「渡辺佳恵」でまた活動する覚悟を決めた。
散々散々、いろいろな人の声を聞き、塾を開講することにした。
塾の名は、0期生と考え「あなたの可能性を広げる、わたし革命塾」にした。
50歳と11ヶ月、渡辺佳恵として再スタートする決意を決めた。
だって人生一度きり、やりたいことがあるなら、やりきりたい。たとえ失敗しても、挑戦しないほうが必ず後悔する、って今までの50年で分かり切ってることだから。
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