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「魔女の宅急便」「オネアミスの翼」「ヤマタノオロチの逆襲」のこと。

1986年ころですか、私は松竹でアニメの窓口を担当していました。外部の児童映画の女性プロデューサーが私のところへあるアニメ企画を持ち込んできました。「魔女の宅急便」です。
フレーベル館で原作を押さえていました。すでに、ヤマト運輸の協賛金がついていました。
私は、アニメ映画がだいぶ勢いを失ってきて会社で居場所を失いかけていましたので、当時「銀河鉄道の夜」(85年)を制作した日本ヘラルド映画か、「ナウシカ」の徳間書店に持ち込むのがよいとアドバイスしました。彼女はヘラルドへ持ち込みましたが、先方はのりきでなく、こんどは、徳間書店へ高畑勲監督を指名して持ち込みました。結果はダメでした。がっかりして私のところへ報告にきました。それから数カ月たって、製作が決まったといって喜んでやってきました。高畑さんがやらないなら自分がやると、宮崎さんが監督を名乗り出たところ、一気に製作が決まったというものでした。(あくまで私が聞いた話です)
だいぶたってからこの作品は公開(89年配収21億)となるのですが、「トトロ」と「火垂るの墓」の公開(88年配収6億)が東宝系で配収6億くらいでしたか、徳間書店、そのころは「スタジオジブリ」ができていたと思いますが、東宝ではなく、魔女宅は東映系の公開となり、20億以上の配収をあげて、その後の宮崎アニメを国民映画にする画期的な作品となりました。魔女宅は、ヤマト運輸が協賛でついていたのですが、ヤマト運輸の代理店が電通だったので、それまでジブリ映画は博報堂でしたが、魔女宅から代理店が電通となったように思います。私の推測ですが。
その後の宮崎アニメの躍進は、みなさんがよくご存じと思います。
ゲームが台頭する80年代後半からアニメのファンも細分化されるようになって、ヤマト、ガンダムといった国民的アニメが登場しにくくなっていきました。80年代後半から、テレビゲームに子供たちの関心が流れたように思います。私が担当したダーティペアあたりからその動きは顕著になってきました。ドラクエも出始めた時期かと思います。
ドラクエの作者堀井雄二さん、桃太郎電鉄のさくまあきらさんは、アニメ誌や少年ジャンプなどで記事を書いているのを見かけたような気がします。かれらはゲームの台頭を早くからキャッチしていたのですね。
ダーティペアの公開初日は、東宝系は「オネアミスの翼」(87年3月公開。配収3億5000万円)をぶつけてきました。
公開日に、新宿松竹の近くの東宝系劇場へ敵情視察に行ったのですが、あまりにクオリティの高い映画で、びっくりして私はこの作品のファンになりました。バンダイが出資していました。
最初「王立宇宙軍」と言っていたので、かってに子供っぽいアニメと思い込んでいました。
ガイナックスが作ったのですね。当時、バンダイとも付き合いがありましたので、のちにこの作品のプロデューサーに聞いたところ、スタッフが合宿して作ったと言っていました。数年やっていたと思うので製作費も莫大だと思います。のちにホリエモンさんが言っていましたが、子供のころにオネアミスを見て、ロケットの仕事を大人になったらやりたいと思ったそうです。ちなみにガイナックスの人たちとは、80年代中盤に、たしか赤井孝美監督の人形劇特撮映画「ヤマタノオロチの逆襲」(84年ダイコンフィルム)という実写の映画ですが、松竹へ売り込みがあって、試写室で見ました。あのときガイナックスとはまだ名乗っていませんが、主要メンバーは試写室に来ておられたのですね、きっと。
この作品は、松竹で上映されることはありませんでしたが、私は、人形劇なのにとてもかっこよく本格的アクションとなっていたのでいまだに鮮明に記憶に残っています。
実は、数年前の庵野秀明監督の「シンゴジラ」で芋虫のようなゴジラが、たしか第三京浜かを上陸してきたと思いますが、「ヤマタノオロチの逆襲」のヤマタノオロチが町を破壊しながら街道を上陸してくる姿とダブっていて、私は、ガイナックスのみなさんは初心を忘れていないなあ、と感心しました。
ちなみに庵野監督は、84年のナウシカの製作に宮崎監督から呼ばれて、巨神兵が光線を吹きまくるシーンのアニメーションを担当していると思います。シンゴジラが光線を吹きまくるシーンは、巨神兵のこのシーンにダブります。庵野さんも初心を忘れていないなあ。巨神兵とエヴァもよく似ていますね。

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