山で食べる冷たい蕎麦は背徳の味!?
2008年からcakesで連載していたエッセイ『小屋ガール通信』をnoteに移行します。数年前に書いたものなので今読むと稚拙ですが、あえてそのまま掲載します。
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昨年までの10年間、山小屋で働いていた山ガールならぬ小屋ガールの吉玉サキさん。山小屋スタッフの人間模様や働き方、悩み、恋などをつづった1話完結のエッセイです。
今回は山小屋の水事情についてお届けします。小屋によっては非常に貴重な資源である水。お風呂や洗顔はもちろん、料理にだって気を遣います。
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山小屋スタッフのお風呂事情
「山小屋の人ってお風呂どうしてるんですか?」
お客様からよく聞かれる。
と言うのも、北アルプスの多くの山小屋にはお風呂がない。だから、お客様としては「スタッフはどうしてるの?」と疑問に思われるのだろう。たびたび、質問される。
大きな声では言えないが、実は、山小屋にはスタッフ用のお風呂がある。
「客用のお風呂がないのにスタッフだけズルイ!」と思われる方もいるかもしれない。だけど、お客様はその日だけお風呂を我慢すればいい。数日かけて山から山へと歩く人もいるが、一週間以内に山を下りる人がほとんどだ。
しかし、スタッフは1ヶ月に1度程度しか山を下りない。それも暇な時期の話。忙しい最盛期は2ヶ月くらい山を下りずに働き、休暇はあとでまとめて取得する、なんてこともザラにある。
登山道の整備や歩荷(食材などを背負って運ぶこと)で汗まみれになった山男たちが入浴せずに働いている小屋なんて、お客様だって泊まりたくはないだろう。
しかし。
残念なお知らせだが、その汗まみれのムサ苦しい男たちも、一見とても清潔感にあふれる小屋ガールたちも、週に2、3日程度しかお風呂に入っていない。
スタッフの入浴をそのくらいに抑えないと、水をやりくりできないのだ。
※あくまで私がいた小屋の場合です。後述しますが、お客様用のお風呂がある山小屋もあります。
なんで水が貴重なの?
山では水は貴重。 よくそう聞くけれど、じゃあなぜ貴重なのか、答えられる人は意外と少ないと思う。
実は、山小屋に来たばかりの私も、よくわかっていなかった。だって、蛇口から水が出るのだ。なのになんで、お風呂は週に2回なんだ。もっと入れさせてくれよ。そう思っていた。
では、なぜ山では水が貴重なのかというと、端的に言えばダムがないからだ。当たり前といえば当たり前だが、上水道も下水道もない。
北アルプスの多くの小屋は、水場(沢や雪渓)からのポンプアップか天水で水を確保している。天水は雨のこと。ポンプアップと天水の混合の小屋もある。
私がいた小屋は、沢からのポンプアップだった。水場(沢)へ行ってエンジンをかけると、沢水がパイプを通って山小屋のタンクまで吸い上げられる。
タンクの水量がかなり少なくなってくると、男子スタッフが軽油を担いで水場へ行き、給油して再度エンジンをかける。※別の方法を採用している山小屋もあります。
だから、仮に誰かが一晩中水を出しっぱなしにしてしまったら、タンクの水が空になってしまう。そうなると、軽油を担いで水場に行って水を揚げない限り、山小屋で使える水はゼロだ。どの蛇口からも、水は一滴も出ない。手間も軽油代もかかるので、水が貴重なのだ。
しかし、春の小屋開け時はまだ水場が雪に埋まっているため、水が揚がらない。どうするかというと、雪を溶かして水を作る。
スタッフの入浴に与えられる水はひとりバケツ2杯。それで全身を洗わなければいけない。
2年目以降のスタッフはそれを知っているので、あらかじめ汗拭きシートや洗顔シートを大量に持ってくる。洗いやすいようにショートヘアにしてくる人もいるが、私は逆に、ロングヘアをお団子にしたほうがべたつきが目立たないと思っている。
ちなみに私は、山では水での洗顔をしない派だ。 スキンケアは、洗顔シート→拭き取り化粧水→普通の化粧水→乳液。山は空気が乾燥しているので、皮脂を取り過ぎないほうが肌の調子がいい。もしもこれから小屋ガールになる人がいたら、参考にしてみてほしい。
水がある小屋・ない小屋
水場からポンプアップできる山小屋はまだマシで、立地によっては天水(雨)オンリーの小屋もたくさんある。そうなると、水はもっと貴重なものになる。
私は、お客さんとして天水オンリーの小屋に泊まるとき、歯磨きにも持参したミネラルウォーターを使用する。その小屋の人たちが頑張って溜めた水を、なるべく使いたくないからだ。
一方で、実は同じ北アルプスでも、水をジャブジャブ使える山小屋がある。水が豊富な沢に近い小屋や、温泉がある小屋などだ。
北アルプス水量ヒエラルキーにおいて勝ち組の彼らは、まさに「湯水のごとく」水を使う。お客様用のお風呂があったり、スタッフも毎日お風呂に入れたりする。
……というように、水の豊富さは山小屋によって格差がある。
だから、水をくれない山小屋に対して、「よその山小屋はくれたのに」とは言わないであげてほしい。
ない袖は振れない。水がない小屋は、どうしたってないのだ。
蕎麦を水で締める事件
私が新人の頃、系列の山小屋が深刻な水不足に見舞われた。水場のエンジンが壊れて、水を揚げられなくなったのだ。
復旧作業にはかなりの期間を要し、その小屋のスタッフたちは苦労しているようだ。系列の小屋同士は頻繁に連絡を取り合う。私たちも、仲間の水不足を遠くから心配していた。
ところで、水不足に見舞われた小屋の支配人・ジョニーさん(仮名)は、かなり個性的だ。面白い人だけど仕事に関してはとても厳しく、スタッフたちから恐れられていた。
当時の私は、ジョニーさんと面識がなかった。だけど、先輩たちから色々な噂を聞いていたため、すっかりビビッていた。
ジョニーさんの小屋の水不足は、なかなか解決しなかった。
そんなある日のこと。 先輩のこぐまさん(仮名)が
「こんな日は冷たい蕎麦が食べたいですね」 とつぶやいた。
こぐまさんは飄々としていて、つかみどころのない女性だ。私よりずっと年上のベテランだが、新人に対しても敬語を使う。
その日は、私とこぐまさんがスタッフの昼食を作ることになっていた。カンカン照りで、山にはめずらしく暑い日だった。
「たしかに、今日みたいな日は冷たいお蕎麦が食べたくなりますねぇ」と私。
「そうでしょう、そうでしょう。薬味をたっぷり用意して」
こぐまさんは食いしん坊だ。量を食べるわけではないのだが、美味しいものへの執着心が強い。この日は冷たい蕎麦にご執心だった。
こぐまさんは二ヤリとして言った。
「蕎麦、水で締めちゃいましょうか」
茹でた麺を水で締める。それは、温かい蕎麦に比べて水を使う行為だ。幸い、今の我が小屋にはそのくらいの水がある。
しかし、系列の小屋が水不足に喘ぐ今、そんなに水を使ってもいいのだろうか?
そんな私の心配を見透かしたように、こぐまさんは言う。
「もちろん、この件はジョニーさんには秘密です。蕎麦を水で締めたなんてバレたら殺されますからね」
「……やっぱり、蕎麦を水で締めるのは不謹慎なんですか?」
「ええ。ジョニーさんが知ったら、ヘッドランプふたつつけて登山道を走ってきますよ。八墓村みたいに」
……。
こぐまさんは相変わらず真顔で飄々としている。
結局、私たちは蕎麦を水で締めた。みんな、冷たい蕎麦を喜んでくれた。
もちろん、こぐまさんの言うことを真に受けたわけではない。冗談なのはわかっている。だけど、山で食べる冷たい蕎麦には、なんともいえない罪悪感と背徳感があった。
あれから何年も経ち、ジョニーさんもこぐまさんも山小屋を引退した。
今でも、山で水をムダ遣いしている人を見かけると、鬼の形相で登山道を走ってくるジョニーさんの姿が浮かぶ。いや、見たわけではないんだけどね。
イラスト:絵と図 デザイン吉田
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