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始発列車

早朝の清潔な空気を震わせ、中央線が吉祥寺駅のホームに滑り込んできた。

私はドアを入ってすぐの席に座り、銀色の手すりに凭れる。東京行き始発の人影はまばらだ。まだ4時台だというのに、すでに通勤中らしきスーツ姿の人たちがいる。

目を閉じると、まぶたを隔てた向こうに光を感じた。すぐに手持ち無沙汰になって携帯電話を取り出し、べろべろに酔った状態で友達に送ったメールを読み返す。よし、特別おかしなことは送ってない。でも、恥ずかしい。書いた記憶はあるのに、まるで自分の言葉じゃないみたいだ。

数時間前を思い出す。

いつもの店、いつもの顔ぶれ。酔いと眠気で視界がぼやけた夜更け、どういう話の流れだったか、私はこれから書きたい小説のことを話した。

「幸せの定義は人それぞれってよく聞くし、私もそう思うけど、でも心底それを実感できてる人がどれだけいる? 実感できてないのに、むりやり自分に言い聞かせるの惨めじゃない。頭で納得しようとするんじゃなくて、『あぁ、これが幸せか!』って、心でわかっちゃう瞬間あるでしょ。あの、あったかい光にブワーっと包まれる感覚を書きたいの」

誰からも茶化されないのをいいことに、得意になって喋りまくった。そういうときの私は、とても私らしい。

その「私らしさ」を、酔いの最中にいるときは面白いと感じていた。人とは違う、個性的ななにかだと。酔いが醒めつつある今は、ひたすらに恥ずかしくて疎ましい。なぜあんなにも、暑苦しいだけで凡庸なことを言ってしまうのだろう。私らしさなんてもの、シャワーで洗い流せたらいいのに。

一駅ごとに、窓の外があかるくなる。朝の電車は、ただしくあかるい。


私は二十歳で、学校では文芸を学んでいる。作家になりたくて、小説を書いては新人賞に応募しているが、一次選考を通過したことはまだない。

今日も、吉祥寺のハモニカ横丁にある店で朝まで飲んだ。曜日によってマスターが替わる、常連客しか来ない、10人入ればいっぱいの小さな店。カウンターは日曜大工で作ったようなシロモノで、ベニヤが貼られた壁は落書きだらけだ。

私がここで飲んだくれるようになったのは半年前から。一学年下にYという女の子が入ってきて仲良くなり、もともと常連だった彼女に連れてこられた。

初めてここで飲んだときは興奮した。その日のマスターは同い年の美大生で、常連客は、音楽や演劇、美術をやっている人が多かった。女も男もみんな、照れず、茶化さずに自分が美しいと思うものの話をする。美や愛がおおっぴらに語られることに、私は大層驚いた。

バンドをやっていると言う、無骨そうなお兄さんがこんな話をしていた。

「昔のギリシャにエピクロスって哲学者がいてさ、その人は快楽主義者なんだけど、けっこう自分を律してたんだって。欲深くなると、欲が満たされないときに不快じゃん。だから心を平静に保つために、不要な欲を持たないようにしてたんだって。真の快楽を追求したら無欲になるって、なんか面白いよね」

いいな。こんな話だけを、ずっと聞いていたい。

狭いからだろうか、店には独特の熱がたちこめていた。煙草から細く立ち上った煙が、天井から吊るされた裸電球にからまる。スピーカーからはボ・ガンボスが小さく流れていた。

私はその店に通うようになった。最初はYと一緒に来ていたが、だんだんと飲み仲間が増え、そのうち一人でも行った。行けば、誰かしらがいる。いつしかその店だけじゃなく、ハモニカ横丁のほかの店も開拓するようになった。

ハモニカで飲むときは、始発で帰ると決めていた。家が遠いからだ。朝までいくつかの店をはしごし、ときにはテーブルにつっぷして寝て、ときには煙草を買いに行く途中で誰かと舌を絡めて、始発で帰る。当然、午前の授業はサボりがちになった。下手すれば、始発で帰って夕方まで寝て、またハモニカに行った。

そんな怠惰な生活を送る自分をかっこいいと思っていたのは、せいぜい最初の一ヶ月だ。あとはただ、抜け出したくても抜け出せなかった。水が低いところに流れるように、私はラクで楽しい場所に流されてしまう。学生生活に不満はなく、逃げたい現実もないのに。なんにも、ないのに。

「次は、御茶ノ水、御茶ノ水」

車内アナウンスにハッとして、携帯から顔を上げる。

ふと頬を掻くと、爪の間に肌色の汚れがつまった。昨日の朝塗ったファンデーションだ。皮脂と混ざり、ドロドロになっている。「面の皮が厚い」という慣用句が浮かび、おかしくなる。私、面の皮を厚くしなきゃ外にも出られないのに、いったい何をしてるんだろうね?

急にぽっかりと、むなしくなる。笑えない。



朝はただしい。

別に、夜がただしくないとは思わない。夜は好きだ。けれど、朝が善であり正義であることに、反論できる人はそういないのではないか。

ハモニカ横丁から吉祥寺駅へ向かうとき、私はいつも早足になる。だって、朝はあまりにもただしくあかるい。夜が覆い隠してくれる「私らしさ」を、ハモニカが包んでくれるだらしなさを、朝は浮き彫りにする。それがたまらなく後ろめたいから、私はいつだって逃げるような足取りになる。

けれど、そうやって駆け込んだ先の始発には、これから出勤するらしいスーツ姿の人たちがいる。私の一日は終わるのに、これから一日を始める人たちがいるのだ!

この人たちみんな、起きて、着替えて、靴を履いて、玄関のドアを開けてここまで来たんだ。

心臓が凍りつく。今すぐ布団をかぶって、この立派な人たちを私の視界から消したい。

そう思う朝を、もう何度迎えただろう。


東京駅で下車し、東海道線に乗り換える。

端の席に座っていると、ふらふらとした足取りのサラリーマンが乗車してきて、私のすぐ隣にドシンと座った。こんなに空いているのに、わざわざ私の隣に。

アルコールの混じった口臭が鼻先をかすめる。うわ、と思う。甘ったるい香水でわからないけれど、私もきっと、酒くさいし煙草くさい。早く帰って歯磨きがしたい。

横目で見ると、男はすでに目を閉じて眠っていた。三十代だろうか。地味で冴えない、そこまでおじさんじゃないおじさんだ。

車両を見回す。たぶん、朝帰り中なのは私と横の男だけ。あとの人たちはみんな、新しい一日を始めるところだろう。だからと言って、こんなおじさんに仲間意識は芽生えない。

体の右側に、体温と重さを感じた。男が、私の肩に凭れかかって眠っているのだ。シャンプーしてから時間が経った、脂っぽい頭皮の匂い。

どうしようもなく、どうしようもなくイライラした。

あんたなんて、同じクラスだったら絶対に私と口もきけないくせに。あんたなんてどうせ絶対に私服ださいし、流行のJ-POPしか聴いたことないし、ハモニカみたいな場所も知らないくせに。

立ち上がって席を移動すればいいだけだが、それじゃ足りない。もっとはっきりと、この怒りを知らしめてやりたい。この男を、痛めつけてやりたい。苛烈な感情が湧き上がる。

そのときだった。

眠りこけている男の頭がガクンと揺れ、その拍子に、彼の眼鏡が私の膝に落ちた。

あたりを確認すると、誰も見ていない。私はその眼鏡を、自分のバッグにさっと隠した。

「次は、横浜です。この電車には優先席があります。優先席を必要とされるお客様がいらっしゃいましたら……」

電車は横浜駅のホームに滑り込み、私は何食わぬ顔で立ち上がった。私という枕を失った男が、ハッと目を覚ます気配。

私は彼を見ないようにして、開いたドアから降りた。

バッグから男の眼鏡を取り出し、わざとホームの床に落とした。靴のかかとで踏んでみる。レンズは割れない。フレームは歪んだのだろうか? よく、わからない。

なんだ。ぜんぜん、すっきりしないな。

イライラしたまま相鉄線乗り場へ向かう。これから家に帰って、シャワー浴びて一眠りして。あ、今日は夕方からバイトだ。学校はどうしよう、単位ヤバい授業あったっけ。夜はまた、ハモニカに行こう。

たぶんまた、同じ朝を繰り返す。何度も何度も、自分の意思とは関係なく。

この街で、私はいったい何をしてるんだろうね?


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