母に捧げるバラード その一

 自分が初めて英語を習ったのは確か小学1年生か2年生の頃だった。詳しい経緯は分らないが母が小学館イングリッシュスクールのカセット付き教材とそれと連動する英会話教室の契約をしたのだ。おそらく訪問販売員のセールストークに落とされたのであろう。「タケシ、来週から英会話教室に行っといで」と言われたかどうかは今となっては定かではないが、母は翌日から毎朝私の耳元で英語のカセットを流し始めた。さながら睡眠学習である。

 さて、実際に教室に行ってみると折り畳みの長机に生徒が5,6人座っていた。同じ小学校の生徒と隣の校区の生徒がいた。先生は若い女性。そんな中でハードカバーのテキストに従い週1回60分くらいの授業を続けていた。同じ学校の生徒とは「卒業までに英語ぺらぺらになって、卒業式には英語で話しかけて先生を驚かしてやろう」などといかにも小学生的な夢を語っていた記憶がある。

 当時、周りの友達と言えば皆小学校のそばにあった文房具屋さんが経営するそろばん塾と書道教室に通っていた。体感だがクラスの7~8割はそろばんか書道、あるいはその両方に通っていた。一方で私はなぜかそろばんも書道も、もちろんピアノも習っていなかった。ちなみに父親も母親も茨城出身の中卒だったのでそのあたりも何か関係があるのかもしれない。そしてそんな家庭の子供がいきなり英会話教室に通い始めたのである。そんな外的環境にあって、英会話教室に一緒に通っていた3,4人の「変わり者」たちの間には妙な連帯感があり、さながら秘密結社のように「ここ(=英会話教室)に通っていることは学校では内緒にしておこうな」と言っていた。

 さて、この「秘密結社」は小6まで続いたが、中学生になると同時にこの英会話教室は「英語と数学を教科書ワークで学んでいく学習塾」に変容していった。ちなみに私が育ったのは東京23区で最低の学力と収入を誇る足立区の、それもかなり外れたところにあり近所に「進学塾」は一つしかなく、ちょっと意識が高いご家庭の生徒は西新井や北千住の塾に行っていた(気がする)。ところがこのしょぼくれた元英会話スクールにはなかなかツワモノがそろっており、中学校の学年トップテンの3,4人がそろっており自分もその一人だった。結局彼らの内自分ともう一人は当時学区トップの都立上野高校へ進学することになった。

 時は流れて、高校3年生の夏。中学の時は常にトップレベルだった英語も落ちぶれたとはいえ都立学区トップ高の一つにはなかなか猛者もおり、自分が英語ができるという感覚も実績も得られなかった。そんな中で迎えた高3の夏。周りの皆が三大予備校(=駿台、河合塾、代ゼミ)に通う中でへそ曲がりの自分は高田馬場にあったトフルゼミナールという予備校で夏期講習を取ることにした。当時、東大に行きたかったがそれを公言するほどの学力はなく、とはいえ名の通った大学には行きたいという見栄もあり、当時頭角を現してきた上智や青学なら行けるんじゃないかなどという楽観的な思いもあった。そんな中で「英語に強い」というイメージを打ち出していたトフルセミナールに通うことにした。

 なぜトフルを選んだのかも今となっては記憶が定かではないがパンフレットからしてう異色だったのは間違いない。なにせその時受講した「上智青学立教ゼミ」的な名称の講座内容が「辞書を引きながらひたすら洋書を輪読する」というものだったのだ。自分がなぜそのような講座を駿台や代ゼミの講座群より魅力的に感じたかもわからないがなんとなく大学のアカデミックな雰囲気を感じ取ったのかもしれない。いざ講座が始まると担当講師は20台後半?の若い女性だった。教室には机はなく折り畳みイスに小さいテーブルが付いたやつが車座になっておかれていた。14日間の講座は基本的に毎日予習してきた箇所を生徒皆で順番に和訳して先生がそれにあれこれコメントするだけ。これ、その後大学に入ったときにゼミでやってた英語やフランス語の授業と全く同じ講義スタイル。今自分が同業者になって改めて思うが、よくこんな内容の講座に当時の経営陣は許可出したなあと(笑)

 ところがこの謎の講習会が終わり2学期に模試を受けると驚くべきことが起きた。英語の偏差値がざっくり10上がったのである。自分が「英語力が急激に伸びた」と感じたことが人生で2回あったがそのうちの最初の1回がこの時である。それまで霧の中にいるように霞んで見えた英文が急にさっと見通しが良くなったのである。理由は簡単で単語力が格段にアップしていたのである!講習中ガチのペーパーバックを渡されて、それをひたすら辞書引き学習をしていたら語彙力が大幅にアップしし、それまで1行に必ず2,3個あった未知語が1つあるかないかに減少していたのである。結果英語の偏差値は65くらいになり、変な自信を持った吉田君が出願したのは慶應文学部と慶應法学部政治学科の2つ。そして見事玉砕した。

 こうして浪人生活に突入した吉田君は予備校には通わず「宅浪」することになった。「吉田、予備校どこにしたの?」「宅浪」「え、吉田たくろうじゃん!笑」などと友人たちとのんきな会話をしていた。なぜ宅浪を選んだのかと言えば我が家が都心に出るのに不便な立地にあったからである。最寄り駅までバスで20,30分かかる陸の孤島、足立区鹿浜に住んでいたからである。お茶の水の駿台までは軽く1時間かかる。通学にかかる時間が無駄に思えたのである。とはいえただ参考書や問題集を読んでるだけなのも寂しいので旺文社のラジオ講座も聴いていた。確かその年に初めて伊藤和夫が「ラ講」に登場した。英文解釈教室も並行して学習していたが、ラジオ講座で聞く伊藤先生の声は正直「眠くなるようなぼそぼそした語り口」でぶっちゃけ「本読んでればよくないか?」と思わないでもなかったが、宅浪の寂しさもありずっと聴いていた。そして英文解釈教室を終えたときに2回目に「英語力が伸びた」というか「英語が読めるようになった」と感じた。

 宅浪した吉田君は順調に成績が伸び、調子に乗って志望を私大文系から国立文系に変えてしまった。今の自分が彼を指導していたらおそらく止めていた「悪手」である。最終的に出願したのは東大文三、慶應文、慶應法政治、早稲田一文、上智文史学科。結果合格校は上智大学文史学科のみ。2浪して再度東大を目指すかちょっと迷ったが、上智に行くことにした。中学で野球、高校で柔道を割と本気でやっていた自分にとって2年間ほとんど体を動かさない生活は考えられなかったし、怠惰な自分が二浪してさらに学力を伸ばせる自信もなかったので。長くなってきたのでいったん筆を置きます。続きは後編にて。


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