嫉妬とポリアモリー

 ポリアモリーの話をした。Facebookにその話題がシェアされていて、コメント欄で大変に盛り上がったのだ。ポリアモリーという概念については数年前から知っていた。自分は「モノガミー/ポリガミー」といった対概念のように捉えていた。(以下、ポリアモリーとポリガミーは同じ概念を指すものとする)

 ポリアモリーというのは簡単に言うと「複数愛」。わたしがAさんと恋愛関係だとする。ところがわたしはBさんとも恋愛関係で、Cさんともそうだ。そしてAさんもBさんもCさんもそれぞれその関係を知っていて納得している。そして、AさんにもBさんにも、あるいはCさんにも、わたしが知っている恋愛関係があって、その相手それぞれもAさんあるいはBさんの他の恋愛関係を知っていて納得している。嫉妬も束縛もない関係のあり方のことだという。逆にモノガミーは、恋愛や婚姻で一対一の排他的関係志向の人。日本を始め多くの国で夫婦が家族の最小ユニットとして扱われているだけに、これが当たり前、と思う人も少なくないだろう。

 さて。話題の一部は「自分はポリアモリーじゃないんだろうか」という気づきというか叫びであった。ふむ。自分もいい男には目がない。もしかして自分もポリアモリーなのだろうか。・・と考え始めて3秒で答えは出た。違う。自分は壮絶なヤキモチ焼きである。自分の男に他の人との関係性があったらどうだ。ヤダヤダヤダ。無理。嫉妬である。束縛はせずともそこに嫉妬はとぐろを巻いて横たわる。無理無理無理ィ。

 と思いながらさらに考えた。嫉妬って、どういうこと?自分に向けられる愛情がよそに向けられて、自分の鼻先から取り上げられてしまうことが怖い。自分の持っているはずのものが侵されるのが怖い。なら束縛は?わたしはパートナーの行動は気にしない。別に常日頃べったり一緒にいてくれずとも良い。よそで楽しく過ごしてくれてもわたしの何かが取り上げられるわけではない。失われるわけではない。あれ。嫉妬と束縛。これ、実際の行動と感情の違いこそあれ、似てない?似てることない?何かが欠けることが怖い。自分のものが自分のものでなくなるのが怖い。そうなったらその関係性そのものは信じられない、みたいな?

 では。ここからはタラレバの世界であるが、自分が相手の行動全般によって、関係性において何も失うものはないと信じていたとしたら?それを可能にするのはたくましい自己尊重の心と、とてつもない相手への信頼の思いだと思うのだが、どうだろう。そこにポリアモリーは存在するんじゃないか、と。

 そこほどの魂の深み、相手の愛情の広がる世界をも自分の豊かさに寄与する何か、そして自分の愛情世界も自分との関係を選択する相手にとって豊かなものであると信じきれる純粋さのようなもの・・・がポリアモリーの生きる世界だとしたら、それはもう桃源郷だね、と思うのだけど、幾つかの文章を読んでみるとなかなかそうもいかず、嫉妬を完全には拭い去れない人もいるらしい。

 嫉妬、考えてみればそれは個が生き残るために、より生存の確率を高めるために、人よりも有利に人よりも多く、と望み/手にし/作り出し/時には奪ってきた人類の歴史の中で生まれてきた感情で、それがなかったら我々人間は随分脆弱になるだろうよと思う。なくなることなんてないのではないのかな、なくなっちゃったらかえって問題じゃないかなどとわたしは思う。しかしその嫉妬心のおかげでしなくてもいい胸のモヤモヤを抱えてきたのも我々だ。オセローの話を持ち出すまでもなく、どうかすれば人も殺める原因にもなる。

 だから、そんな嫉妬という感情を無くしてしまった、手放してしまったわけではなく、ただ単に知らず知らずに自分の中で制御しきることに至った個体たちがポリアモリーだとしたらそれはなんかレイヤーが違うところに生きている人のようだ。なんだか地球幼年期の終わりみたいな話だよね。

 さて。そんなことを考えながら、イスラムの一夫多妻制なんか考えてみたら、あれは民族存続の必然から出てきた制度だとのことだけど、維持するための心得みたいなのをかじってみるとちょっとポリっぽいよね。同時にわたしはSMの文脈に存在する、サディストの男性が多数のマゾヒストの女性との関係を持つやり方、いわゆる多頭ってやつも思い出していて、やはりこれ両方とも男女の非対称性を下敷きにした「都合のいい関係」なので、やっぱ分けて考えなきゃなんないよね、と思った。そこに無自覚でいるとポリアモリーという名の下に愛情の搾取が起きてしまうよね、とも思っていた。


追記:性感染症のことなんかも考えたんだけど、ポリアモリーが主流になったら、はしかや水疱瘡などの一般の感染症を予防するように、もっと研究も進んでもっと社会のリソースが割かれていくのかしらん。


 


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