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うつくしくあることについて

 先日、田沢湖を訪ねた。田沢湖の主辰子姫は、伝説によると、我が身の若さ美しさを永久に保ちたいと観音様に願をかけ、うつくしき龍神となって田沢湖の底で今も住むと言う。

 さてわたしは、その願いにいたく感激したのさ。自分がうつくしいとしても、それを鼻にかけるな、つつましく生きよ、さりとて身汚く存在するな、という世間からのメッセージはものすごいじゃないですか。それをだ。自分は綺麗だ。そのままずっと綺麗でいたい。それを強く願ってそのように生き続ける。やるじゃん、って思ったわけ。やるじゃん、って何目線よ。辰子姫ごめん。

 これはまた別の話だけど、ファッションショーのモデルをすることになった。癌サバイバー枠である。noteには久しぶりの投稿なんだけど、その間わたしは癌という病を得て、いまだ寛解に至らず、でも死んでないからサバイバー、ってことなのだ。そのお稽古や打ち合わせで、「うつくしさ」という言葉に何度も出会うこととなる。

 モデルをしよう、というのは自分でやりたいと言い出したんだけど、それはただ単に変わったことをしてみたいというわたしの行動パターンによるもので、美についてなーんにも考えちゃいなかったんですよ。だから、「うつくしさ」なんて言葉に何度も触れて、若干の困惑を覚えたりしていたわけで。

 美?美ってなによ。自分が?美を?表現?
 
 いやいや、素敵なのはお洋服です。
 
 みたいな。

 しかし、病を得て、しかも生きるか死ぬかという病を得て、生きていたいと思う時、自分のいのちに何が必要か、と思うと、それは誇らしさかもしれぬと思い至ったりすると、やはりそこに美はあるのだろうと思う。

 それは、わかりやすく一般に良きとされるものからははずれているだろう。いや、意外とそうでない部分もあるかもしれない。

 しかし、このような姿でありたい、このように香りたい、このように色づきたいという方向は、間違いなく自分のいのちの発露であり、もともと美はそこから湧き出でたものなのではないかとも思う。

 辰子姫については、無茶しやがって・・・と思う反面、その願望への突っ込んでいく様、清々しくて良いと思ったのだ。わたしはわたしの好きな形で生きる。そしてそれはやはり美しいかどうかが判断の材料となり、何を美しく思うかの感覚を研いでいくことは、この世に肉体を持って生きるからこそ可能であることなのではないかと思ったりしたわけなのだ。

 辰子姫は今も生きているのだそうだよ。湖の底で。

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