メモ エッセイ【 買い物という余暇の断層に 】


 20数年前には何でも通販をしたら届くのに2週間などざらであった。なにかを注文するのに住所氏名の注文書を書いたんだったか何をしたのかの記憶がもう曖昧である。10数年前には海外発送としてモスクワの友達に冊子を贈ったら半年後かそのぐらいに届いたなんてこともあった(その後、郵送事情が改善したのか知らない。
「注文したんだよ。買ったんだ」
「雑誌の通販?ネットの通販?取り寄せ?」「『売ります買います』欄?」
 もうそんな言葉は死語になりそうだ。リモートワークやオンラインなんとかが当たり前になってきたコロナ禍でもあり、同時に「社会の高速化」によって「通信制」が普通のことになってきた。
 なにせ注文書どころじゃない。一度登録すれば次回からはワンクリックしただけで翌日に届くのである。「通信」や「通販」などという概念もじきに消えるだろう。

 とりわけ思い出されるのは「買い物へ行くことが余暇のひとつであった時代」のことである。われら20代前半の時代までは買い物に行くということが一大イベントであった。
「買い物にいくの?」「浪江、富岡」「いわき」「原町」「仙台」まれに「郡山」「東京」。浜通りのひとはたぶん縦のラインで移動するのが一般的であり、横は移動手段が少ない。
 なんらかの苦労や手間をかけたからこその「もの」だったように思われ、今思えば買い物の行為のなかにいろいろな思い出や達成感がセットだった。
 今や「買い物」と言えば日用品ですら通販で、しかもそれが「黙々とするワンクリック」で済む。首都近郊では大手各社によるネットスーパーも始まった。
 さらに言えば、日用品が「サブスク」つまり「購読」と同じように、一度ワンクリックしておけば、あとは自動で定期的に購入でできる時代になった。お金さえあれば、家の棚の奥が、ロボットつき超巨大ガレージになったようなものだ。

 この買い物行為に思い出や達成感はほとんどない。店員さんとの業界談義や価格交渉や雑談もまったくない。街並みへの感じかたも観察もない。非ネットユーザーとの交流の可能性も消えた。リアル(現実)での行為がネットでの行為にどんどん置き換わっていっているため、置き去りにされたヒトやモノが増えている、互いに。

 むかしのひとびとはどんな「探索」でもすべて「本や雑誌、またはくちコミから」という基礎情報がないと調査力は話にならなかった。
 そんな風に「遅い最先端」など、今の若者は知るまい。

 ネットの速度56kbpsは情報処理系の知識あれば知ってるかもしれないが、電子情報とか情報処理なんていう言葉も法律条文など以外では死語になりつつある。
 
 なにせクルマやトラクターがない時代には、「荷車」に荷物のように自分を載せてもらって移動しているひとびとも普通に居たのが、われらのひとつ上の世代、つまり団塊の世代の若いころなのだということをわたしは聞いたことがある。
 荷台和服の人々を実際に牽引して知る人々とスマホだのメタバースだのの人々が同居している現代を再確認したい。それはもう、無知が何をかいわんやである。
 それに、むかしの世代で広い世界を知っているひとたちのくちコミのチカラは江戸時代のオランダぐらいのチカラがあったと思われる。
 団塊の世代のさらに上からすれば、トラクターなどない。「小型耕運機」が最先端になる。そんな未知の道具の免許のとりかたは適当だったようだが、高価で最先端のスピーディーな作業ができた。移動はクルマがないから「汽車の駅」が最高だ(なのに昔の東京都で電車内の汚れぶりをネットで見たときにはいろいろ考えさせられた)。
 遅いスピーディーにも利点はある。農地改良の土地改良の件でいまでこそ一枚の田んぼが非常に大きくなったが、むかしはどの家でも田んぼがものすごく小さくて、ちょっと牛や馬が耕したら、すぐ次の田んぼへ歩いて移動できなければ話にならない。そういう芸当を「動物ならできる」。つぎの小型耕運機ではとても危ないしさらに次世代のトラクターではまったく不可能である。機械が近代化し始めたぐらいでは、土地も同時に近代化しないと難しかったのである。 

 近代化とは産業化だ。農村から次男坊や女子たちが出ていって工場やスーパーに勤められるには、農村が近代化していなければ手が空かなかった。日本の近代化とは、まず農村の近代化が基本的な目標のひとつであった。
 むかしにはむかしの状況とやりかたがある。昔の始まりである「長床犂」「唐鋤」(ちょうしょうすき)(からすき)ですら最先端の職人集団がもつ英知だった。
なにかで、「江戸時代の一年分の情報を今は一日で得る」と読んだのでふと思う。では

 「質のほう」はどう変わったのか。便利になると村が消えるように、なにが日常を本当に幸せにするのかはまだまだ未知数なのかもしれない。人類はいずれ顔つきも変遷していくなどというyoutubeも見て遠くの未来を思った。国民主権の民主主義。Quo vadis, Domine?(主よ、どこへいく)と。3・11が発生する。
 
 だいたい30年前ぼくらはゲームボーイで『サガ2』というゲームを夢中になってプレイしていた。でも同時に、友達の家の庭でテントキャンプしてケイドロしたりロケット花火したり双六したりしながらだった。お互いに顔を見ないでずっと過ごすようなスマホまみれではなかった。泣いたり笑ったり。表情と感情があった。

 ひとが追い求める幸せのイメージに「便利」があるのは言わずもがな。それなのに、体力がついたり、便利になればなるほど、忙しくなり、会話が減り、達成感がなくなり、思い入れや思い出が発生しづらくなり、いまや目的遂行のための激しい競争または「忙し戦争」になってしまったんじゃないか。
 忙しいとは小さく亡くなると書く。わたしたちは合理化に縛り付けられ、時間に食いつぶされたりするのではなく、好き勝手に暮らしていく暇つぶしの達人でありたい。

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