昔と今の価値観

かつての人々は政治で解決しえなかったことがあまりに多かった(革新できたことも凄まじかったが)。保守と革新が競い争ったり。

しかしこれからは、医療またはテクノロジーのソリューションにより、今までにはあり得ない度肝を抜く価値観の転換が進む。進んでいる。

少し前まで数年に一回だったシンギュラリティはいま毎日のように起きて、しかも加速している。かつて1000円のビットコインはいま1000万円。

慎重派も居るだろう。それは思想の一種とも言えるが、どちらかと言えば、今までの思想や表現はかなり廃れてきているとも見える。

わたし自身、過去のいろんな思想には前よりも興味が薄れた。むろん比較的にであり、勉強するとは思うが、いつの時代にも背景と限界がある。

いわば、タイパが云々、不要不急や断捨離が云々と、ひとのことに悶えているだけのようなところが思想にはあるから、武器火薬、蒸気機関車、蒸気船、工場、電気電線しかり、強烈な創造建築には及ばなかった。

たしかにわたしもタイパはくだらないとか不要不急や断捨離を人から言われるのは云々と思っているが、実際リアルには無視できない。

コスパ、タイパ、考えてないひとなど居ないと言って良い。当たり前の事を略しただけでもある。だからそれが思想の限界と言える。いわば、よくもわるくも、考えることは、抵抗が本質だからだろう。

これから、もっとあらゆる臓器、歯や肝臓や胆管やすい臓や心臓や歯や聴力や……といったものを作製したり試験管よりもっと人間そのものが人間干渉の度合いの高いところで誕生したりするのだろう。必死の困難を抱えた大勢のひとが笑顔になれる、かもしれない。日本国は人口減少により消滅せずに済むのだろうか。

たとえば、アメリカの約半数未満が肥満により寿命が60歳ぐらいなのだと何かで見かけた。日本人の場合は独身男性が67歳だそうだから、実は肥満でなくても、似通ってきている面があるか。そのずっと前に心身不調があるだろう。人生100年時代はまだ先か。

いろんな思いや感情が交錯して、例えばスマホだけとっても、科学技術に対しては、保守反感も当然ありそうだが、それはいつの時代でもそうなのである。だからどうの前に、とにかくそれでも時代は強烈に望んでいる。間違いなく、突き進まれていくに違いない。

311があって政治が桁違いに変われただろうか。10数年、原子力発電がまったくすべて終了となれただろうか。今は小型も核融合も考えられている。東電の株価は上がっている。

だから再稼働せよとか原発ゼロとかを今ここで言っているのではない。まずはいまの現状をすこしでも知ろうとしたら良いのだと思われる。

わたし自身はもうだいぶ前から、中道中庸を基本的な是としている。何も決めてない訳でもなくすべてに隷従しているのでもない。ひとはそれぞれ。どちらかどちらかと無理強いしないほうが良い。

そういうわけで、オイル代や電気代も上がり続け、人々は原子力について考える頃だろう。光熱費の高騰は、まず流通にも同じことが起きるから、食品の価格にダイレクトに反映されてしまう。田舎のクルマ大変だけでないのである。

※電気代は大変あがる。
関西電力などは40%以上だ。
https://nordot.app/1165940058147782812?c=39550187727945729

インフレというのは、一部だけ賃金あげれば解決なのではない。企業での労働でなく、たくわえた貯蓄を主として生きていく高齢の人々などにとっては、インフレが起きると財産がそのまま減ることを意味するから、死活問題なのである。

日本人は金融リテラシーがほとんどないそうだ。ゆえにおそらく、株や投資で儲けるなどということは、汗水たらさないから引け目を感じるような背徳の悪さを感じるに違いない知識状態なのであろう。

20歳ごろ読んだ記憶によれば、この世のお金は実経済が2割しかなく、8割が虚経済なのだそう。実経済とは農業や建築製造など物理的なものづくり、虚経済とは金融業界やネットなどと言えるだろう。

世界の全体を観ようとするには、8割のほうも観ないと、鳥瞰図としてはまったく分からないのに違いない。

ちなみに法律知識もないから、たとえば気軽に連帯保証人のハンコをついてしまったり、気軽に利子の高すぎる借金をしてしまったりと、大問題にもなる。

つまり、科学技術についても、リスク知らず見ようともせず、安全神話ともなったのである。自転車にもクルマにも電車にも原子力にも医療にもテクノロジーにも、あらゆる科学技術には、リスクが付き物である。

話しを戻すが、昔と今の時間の速度感覚はかなり変わっている。過去の10年と今の10年とでさえも違っている。江戸時代の1年の情報量を我々は数時間で得るという。もし同居したら、相当すれ違いそうだ。

だから絶対に何でも未来が善であると言っているのではない。人間には今日がずっと続くように思う現状維持ブレーキが働いているが、あり得ないことなのだと言いたい。昔は昔だから昔なのだ。今ではない。

むかしの暮らしを学ぶのがわたしは好きで、民俗学を学んでいる。しかし、好きなのとリアルを捉える眼差しを持つことは同居する。わたしの場合、それで自分を保守化させたりしない。諸行は無常である。

おそらく世代交代とともにこういうことは進んでいくであろう。日本がやらなければ他国がやって他国に巨額の富と力が移動してしまうだけだ。

もはや「女性は家事だけでよく学は要らず三歩下がっているべき愚妻で生む機械が云々」などと言われてることが美徳の時代ではまったくないと思う。

資産や不動産がなくとも女子、二男坊、三男坊も苦学して都会に出て富を得て自由を獲得することもできる。財貨を得られる。

むろん自由主義や民主主義があるから、こうして言いたいことも言えて、移動、職業、言論、思想、学問、労働、表現、いろんなことが選べる。これらは、競ったり争ったりという、思想的な自由や福祉への思い、そして苦労の結果でもある。

ゆえに思想は、部分的に見れば廃れてると感じるが、人間の根本を支えていた歴史がある。この文章では、思想の界隈が以前より力をかなり失ったのではないかという問題提起をしているのである。

ゆえにテクノロジーが思想や宗教のようで云々などを論じている場ではなく、大きな思想の歴史的な流れは、あらゆることを包含するのは言うまでもないのである。

自由の思想により、どんどん資本主義化が進んでいき、工場ではオートメーション化がすすみ、人間が不要になって疎外されていくだろう、という話はけっこう前からある。そこでベーシックインカムなどという福祉拡大への考案なのだろう。

とりあえず以上、こういうことを江戸明治などで言っていたら、あぶないやつ扱いだった、自由など。いまではふつうだ。いや、常識とか非常識とか変わってる変わってない、そういことすべがなにかしら共有知識として決まる前に変化していくだろう。それほど世界観は速く変わっていく。違うのである。

ここでは、まず、そういうことを確認しておきたい。すべての天の邪鬼に答えていくことがエッセイではないのである。追加が増えすぎると切れ味が悪くなってしまう。仕方ない、これもエアリプ絞めに会いたくないひとには、時代なのであろう……

一応noteにした。

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