テーブル

そこには

やっぱり、ひとりでは「食事」は美味しくない。
かといって、気を使いながらの食事も美味しくないけども。
もともと、食にあまり興味がある方ではない僕は、毎日、卵ご飯や、マヨネーズご飯だけでもいけてしまう。それでも、心を許した相手との食事が美味しいのは、はっきりわかる。
同じ卵ご飯やマヨネーズご飯だって、“食卓を囲んで”食べれば格段に美味しい。

「なくしたからわかる」って大事。

誰かと一緒にご飯を食べる。
そこには、家族や一緒に暮らす人が居る。居るからこそ存在する「ごくごく当たり前」が溢れている。それこそ一緒に食べる、食べない、で言えば、「一緒に食べない」という選択肢があるのは“そこに居るから”であって、居なければ選択肢がそもそもない。とはいえ、選択肢を持っている人達にも、それぞれの理由や事情があって、選択肢があるから良いことだとも一概には言えないけれど、それが「なくなる」のを実感出来るかと言えば、そうじゃなくて、それは全く別の問題だというのも今なら十分わかる。

どれだけ傍若無人な態度をとっていたとしても、最悪な喧嘩や怒鳴り合いであったとしても、家族がなくなるとは実際微塵も思えていないはず。僕はそうだった。相手を「自分の家族」という特別な存在だと思っていたから、相手もきっとそうに違いない、と決め込んでいた。
そんなものは、長年積み重ねさせた「苦しさ」の前では、何の意味もない、あっさりと、たやすく崩れ去る。人はちゃんと「最後は自分を守る」ように出来ている。自分よりも相手を守るには、関係性による、その時々の条件が必要だ。僕は、その条件から外れてしまった。
説明しようがない寂しさはあるけど、仕方ない。それだけの辛さを与えてしまったんだから。

あっ、誤解しないで。”僕は寂しいんだ”とか“自虐的”なんて、そんな類のことを書きたいわけじゃないので。

ちょっと長くなってしまった前置き。
昨日、十年来の付き合い”大切な友人家族”の誕生日を急遽お祝いしてきたんです。けれど急に時間が出来たうえでの、それこそ“突然”の来訪。
それなのに、僕の分のご飯まで用意してくれた友人家族。
用意してくれたご飯を、それこそ“食卓”を囲みながら一緒に食べさせてもらった時間。そこにあったのは、ほっこりするような会話、耳心地の良い笑い声と、笑顔。

僕は今、とても良い状態に居るんだと思える時がある。
「なくしたからわかる」そういう一面があるのは大切。
とてつもない孤独を抱える時があって、でも、その反面、そこには、”忘れてしまう当たり前”が、かけがえのない奇跡だと認識出来る作用が生まれてくる。なくしてもいいと思うのは、それが当たり前に存在しているから。見えなくなってしまう幸せを、ちゃんと見える心の眼をもらっている。
これ以上なくしたくないものばかり。一緒にご飯を食べて美味しいと思える人達が居てくれる。とんでもなく嬉しく有難いことだ。



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