フェルメール——写真のような非現実——

 2004年、東京都美術館の「ウィーン美術史美術館所蔵、栄光のオランダ・フランドル絵画展」で、目玉のフェルメール一点は会場を進んで最後の最後に現れた。入り口近くの混雑と比べると絵の前に人は少なく、照明は絞ってあり、話し声もあまりない。
 私ははじめてフェルメールの現物の絵の前に立った。「アトリエの中の画家」とタイトルが付されたこの絵で、少女のもつトランペットや頭にした月桂冠などにそれぞれ寓意がこめられ、それはその当時の共通の了解事であって、この絵全体も寓意画と解されるようだが、私がフェルメールに惹かれてきたのはそういうものではない。生涯に40点弱という寡作のフェルメールのほとんどは室内風俗画といわれるもので、牛乳を注いだりレースを編んだり手紙を読んだりという日常的なテーマに私がまず惹かれたのはまちがいない。それらのテーマがその時代の嗜好でもあったことはこの展覧会の多くの絵によって示されているが、フェルメールの絵の魅力はそういったもので説明し尽くせないことも感じてきていた。

 あるとき知人に、ライカのポートレート用というカメラを「高価なものだからね」と言われながら手渡され、恐る恐るファインダーを覗いてみて驚いたことがある。喫茶店のなかだったが、ファインダーに切り取られた一角はもうそれで一枚の「絵」のようだった。カメラを放すと変哲のない店内の姿がある。
 フェルメールの絵は写真のようだとよく言われる。窓から入る光の効果の表現が、あたかも背後の壁に焦点が据えられて、前景のモティーフ群がソフト・フォーカス気味に見えることや、点描で描かれた光の粒子が「絞り」を開放したときの様子に似ていることなどが指摘されようが、何よりもディテールの描写の正確さが際立っていることが挙げられよう。
 しかしレンズを通しただけで現実そのものから跳躍しはじめるというのに、フェルメールの絵がさらに手が込んでいるだろうことはフェルメールにひかれる者は誰も感じとっているはずだが、それを分析的に言い表すことは難しい。
 土方定一はフェルメールに触れて、構図について、こんなふうに書いている。フェルメールの画面の空間(奥行き)の秩序の精確さは、一番奥の壁と前景に置かれたもの(椅子とか楽器とか)が、中心に立っている人間を挟むようにして置かれ、そのときそのときに窓を変えているところから出発している。すべての不要なものを画面から排除して、抽象的といいたいほどに単純化したその構図、静かで素朴で、そしてどこかでかすかな韻律を与えているその構図は、同時代の他の室内画家に見られないものである、と。
 また色彩については、同時代の作家のすべてが、影のところは黒または褐色と見ていた時代に、フェルメールだけがひとり、影の色彩を発見し、それを追求することを歓んだ。たとえば青い上着の影のところは、他の別な青色が塗られ、その別の青色は部屋のなかの光線、反射、また色彩のある物体によって繊やかに決定されてくることになる、と言う。これらが、「フェルメールのすべての室内画が、同時代の作家のようにテーマ(題材)が中心とならないで、見るものに、色彩と構図の造形の喜びに案内する理由である。」
 また小林頼子によると、フェルメールは消失点、遠隔点を軸にした幾何学的な作図を優先させて描いた画家であり、フェルメールの空間は、緻密な計算に裏付けられて構成された「つくりものの空間」である。他の風俗画家が、単純な写実的絵画にとどまっているのに対し、フェルメールの風俗画には「写実を装う絵画」とでも呼ぶべき巧妙さがある、と。
 千葉成夫は、フェルメールが日常という主題を選んだのは、それが時代の流行であり様式だったからで、日常のありふれた光景のなかにこそ人間のいちばんの真実があると考えたからとまで言ったら言い過ぎだろう、と言った上で、しかし同じ日常の光景といってもなるべくさりげない、とるにたりない場面を選んだことには大きな意味がある、それは「物語」や「意味」に流れてしまうことの少ない光景だからである、と言っている。
 フェルメールの目と、絵筆をもった手とが、ありふれた日常の珍しくもない光景こそが奇蹟であり、ものと世界のすばらしさは人々の日常の光景のなかで最大限に発揮されていると感じ取り、そう感じとったように動いたということである。奇蹟とはそれを目にすることが目にとって至福である、ということだ。物語も意味も、人間さえもこのすばらしさを妨げる。人間ももののように、ものとして日常の光景のなかにものたちといっしょに沈み込んでいないと、ものと世界の織り成す奇蹟を妨げ、日常という奇蹟を成立させない。フェルメールにとって絵画とは、日常という奇蹟のなかで、ものという奇蹟、世界という奇蹟が、本来の輝きをみせていること、そのことをどのようにしてか、絵を見る人々の目に伝えることだった、と。
 多くの画家は同じように日常の光景、ありふれたものたちを描いても、目に映じたというレヴェルの域を出ることがないのに、フェルメールはそれに満足せず、もっと踏み込む。ものと世界の手触り、質感まで完璧に描き出す。そのために見る者の目は、絵を見ることから踏み出して、壁や女やパン等に触れることになる。フェルメールの絵を見た直後は、夢から覚めた直後に似ていて、まだ言葉を入りこませずに絵そのものの表面というレヴェルにとどまったまま、その光景をそのまま受け止めている状態にほかならない。ごくありふれた日常の光景が、ありふれてとるにたりないものであるがために、かえって物語や意味を発生させることなく、無名の光景として絵の表面そのものと重なるのである、と千葉成夫は言う。
 小林頼子も、フェルメールは同時代の風俗画家から多くを学び、取り入れているにもかかわらず、図像の紡ぎ出す「意味」という点では彼らとまったく別の行き方をしている、と言う。彼は人間たちの織り成す情景から「持続する行為」を締め出し、登場人物からその場面における明確な役割を奪ってしまう。このため画面は意味の重みから離れ、純粋な造形的な場へと近づいていく。同時代の風俗画家の作品に似ていながら、フェルメールの独自性は、その造形性への志向が近代絵画に通じていることから生じている、と。
 他の画家の饒舌な風俗画にくらべてきわめて寡黙なフェルメールの構図は、作者が色彩、光、形態といった造形的な問題に集中することを可能にし、同時に、見る者を意味へと導くことをしない。出来事の進行から解放された人物たちは、絵の中で誰からも妨げられることなく静かに穏やかにやすらっているように見える。彼らの経験する時間は、彼らが内に抱え込んだ内的な時間であって、決して現実の時を刻むことはない。
 だから、と小林頼子は言う、フェルメールの絵を見ることは、「行為の欠如がもたらす持続」の効果によって視覚化されたそうしたごく特殊な時間を、言語や出来事の介在なしに、ともに体験し、共有し、味わうことに他ならない。フェルメールの描く女性は、現実の一切から切り離された、夢のような時間を手触りのあるものに変えるために選ばれた巫女のような存在であって、彼女達は、現実のどこにもない「時間」を慕ってやってくる訪問者を待ちながら、佇んでいる、と。(千葉は、女は人生や境遇がどうあれいつも女という性、女という存在としてそこにある、女と同じ性ではなかったフェルメールには、そのことが不思議で仕方がなかった、そしてそれが女を描くことに惹かれた理由だった、そこでこの女という見知らぬものをどうやって表現したらいいのかを求め、そこで女を、ふつうより少しだけ遠くへ離してみる、少しだけ客観視の度合いを強めてみる、少しだけ抽象化してみる、となった。言い換えれば、女という存在をほんの少しだけ「もの」の側へ押してみた、と言っている。)
 実際彼女たちは自分の行為に深く沈潜して自己充足的である。彼女たちは見るものに対して無関心で視線を向けない。仮にこちらに視線を向けていてもそれは画家やあらぬところに対してであって、見るものに対してではない。そして少しも媚びを見せない。これはフェルメールが絵を見るものに媚びを見せないということでもある。
 以上のような批評家・研究者によるフェルメールについての評言は、フェルメールの絵を見る私の幸福感を増幅してくれる。

 フェルメールは作品数の少なさとともに、伝記的事実もきわめて少なくその意味で謎めいた画家である。「アトリエのなかの画家」でこちらに背を向けて画架に向かう男がフェルメール自身だとも言われるが(一説では「取り持ち女」の左端の笑う男が作者自身だとも)、プルーストは手紙のなかで「われわれに背を向けているこの芸術家、後世に認められようともしない、そして後世が彼についてどう考えようとも無関心なこの芸術家は私の思想に深く食い入るのです。」と書いている。また小説「失われた時を求めて」では、「デルフトの眺望」の前で昏倒して死んだ文学者ベルゴットに託して、「わずかにフェルメールという名で確認されているにすぎない一人の画家が実に巧妙精緻に黄色い小さな壁を描きあげたように、何度もくりかえしてひとつのものを描くべく義務づけられている」と書いて自らの志を吐露している。

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