意志さまざま  

—中野重治、太宰治、椎名麟三、尾形亀之助—


 堀田善衛は中野重治と中国、東ドイツに旅行したときのことを、こんなふうに書いている。
「中野さんはやはり、その部屋に入るや否や、…窓をあけ放った。時は五月半であったが、中欧の夜明けの空気は、冷たい。ヒヤッと来た。空気が入れかわったところで、細目に、外気が入って来るほどのことにして、中野さんは安心して眠った。私は眠りにくかった。はじめてのドイツ民主共和国に到着早々に、ほとんど喧嘩腰での交渉などしたことが、嫌だった。/しかし、中野重治と、空気と、窓と、というふうに考えることは、なぜか楽しかった。…私も安心して眠った。」(新潮日本文学20「中野重治集」月報)
後年、堀田善衛は「窓について」というエッセイの中で再び、中野重治と東ドイツへ旅行したときのことを書いている。
「中野氏は、とにかくホテルに着きさえすれば、まず第一に部屋のありとあらゆる窓という窓をあけ放って空気を入れ換える。…そうして中野氏は私の諒解をえた上で、部屋に暖房が入っているにもかかわらず、夜の眠りにつくについて、窓を細めにあけたままで眠るのである。/これもまた健康的である。けれども、夜半にいたって私は閉口した。ドイツの五月の夜は、やはり、あるいは可成りに寒いのである。その細目にあけ放たれた窓からの隙間風がまともに私の顔に吹きつけてくる。/けれども私は、毛布を顔まで引きあげて我慢をすることにした。/中野氏は私のもっとも敬愛する先輩であり、なんといってもそれは健康によろしいであろう。/つねに新鮮な空気を……!」
すでに中野重治は亡く、「ヨーロッパさまざま」と副題された連載エッセイの一篇、ヨーロッパと日本の「窓」の役割の違いについて述べた文章であるが、文学全集の月報への寄稿という性格の前掲の文章とはニュアンスの違いというものが感じられないだろうか——堀田善衛は「私の諒解をえた上で」としか書いていないけれども。私などはこういうところにも中野重治特有のもの—一面での重箱の隅をほじくり返すような執拗さ(伊藤整)と、他面での徹底した無関心—を感じるのだが。

小説『むらぎも』は、主人公片口安吉の気持ちの動きで突然時間が溯ったり、そこからさらに溯ったりして、小説を素朴に楽しもうという読者にはあまりとっつきやすい作品とはいえないだろう。ここにも小説技法以上の作者の体質的なものがあると思うが、それはともかく、作中に興味深い場面がある。安吉が作家葛飾伸太郎を自宅に訪ねる場面だ。興味深いと言ったのは、前者が作者中野重治自身を、後者が芥川龍之介をモデルにしていると考えられるからである。
自殺直前の芥川=葛飾の姿の描写はまことに興味を誘うものがある。葛飾は安吉に「僕らとしちゃ、(君に文学を)やっぱりやってってもらいたいナ」と話し出し、短い詩の原稿を見せ、意見を求める。「レーニンとか共産主義とか勲章とかいうものが題材になっていた」この原稿は、芥川の『或る阿呆の一生』に書かれているものや全集に収められた詩稿の内容と遠くないものだろう。そこには、民衆を誰よりも愛した人は、また民衆を誰よりも軽蔑した人だ、とある。「仕方なく…いい加減な返事をした」安吉に、葛飾はレーニンについて書かれた本を話に出したりするが、安吉は「帰っていいし、そろそろ帰るべきだろうとも」思う。
葛飾は自ら古い、と言い、安吉らの思想・感覚の新しさを言う。そして激励するかのように安吉の才能を言うが、その「卑しさ」に安吉は内面でこだわり、口に出さないまま批判する。——ここには絵に描いたような時代思潮の交替劇(プチ・ブルジョア意識からプロレタリア意識へ)があり、葛飾の言葉に安吉が反応し、反応した自分にさらに反応し……という対象把握の執拗さがあるけれども、私には芥川の伝えたかったことを中野重治は素通りしたように思えてならない。

小説『村の家』の主人公勉次は「転向」出獄して、村の家で老いた父母と暮らしている。その勉次に、父は母を去らせた上で、話し出す。
話はこのところの苦労の話から、やがて勉次の転向そのものへの「永くあちこち小役人生活をして、地位も金も出来なかった代わりには二人の息子を大学に入れた…正直もので通っている」父親の意見に進んでいく。「すべて遊びじゃがいして。遊戯じゃ。…お父つぁんは、そういう文筆なんぞは捨てるべきじゃと思うんじゃ。…今まで書いたものを生かしたけれや筆ア捨ててしまえ。…」
勉次は「いま筆を捨てたら本当に最後だと」思い、他方で「ある罠のようなものを感じ」る。「彼はそれを感じることを恥じた。…しかし彼は、何か感じた場合、それをそのものとして解かずに他のもので押し流すことは決してしまいと思った。」勉次は「やはり書いて行きたいと思います。」と答えるのである。「勉次は自分の答えは正しいと思った。しかしそれはそれなりの正しさで、正しくなるかならぬかはそれから先のことだと感じた。」
ここに「ある罠のようなもの」とあるのは、一方で自分をこの世の中で最も思ってくれる人は親であり、他方その親を通してこの世の中は規範を強制してくるという認識を指しているといえようか。そしてその規範の堅固さを前にどれほど自分がヤワであったかは弁明のしようがない。この父親と息子勉次の対話を通じて「日本封建制の実体の双面を何ほどか浮びあがらせている」こと、「勉次があらためて認識しなければならなかった封建的優性との対決に、立ちあがってゆくことが、暗示せられている」ことをもって吉本隆明は「転向小説の白眉」(『転向論』)と評している。
しかし私が驚嘆するのは、そのこと以上に勉次を描く作者の完璧さである。父との対話を通じ、見てきたように、勉次はぎりぎりのところでふんばるのだが、「自分は肚からの恥知らずかも知れない」と思い、「自分が気質的に、他人に説明してもわからぬような破廉恥漢なのだろうかという、漠然とした、うつけた淋しさ」を感じるのだ。そして「勉次はこの老父をいかにむごたらしく、私利私欲のために、…妻をも妹をも父母をも蹴落すような私利私欲のために駆り立てたかを気づいていた。静かな愛想づかしが自分の中に流れてきた。」
ここの「気質的に、…破廉恥漢」とか「…蹴落すような私利私欲」といった評言は読者にはわかりにくいが、主人公を徹底した自己批判に至らせる作者の執拗さは、勉次およびモデルと考えられる作者への批判をあらかじめ封じてしまうほどのものだと言えるのではないだろうか。
「ある日彼は細い手でお菜を摘まみ上げ、…『失わなかったぞ、失わなかったぞ!』と咽喉声でいってお菜をむしゃむしゃと喰った。…一時間ほど前に浮かんだ、それまで物理的に不可能に思われていた『転向しようか?しよう…?』という考えがいま消えたのだった。…おれもヘラスの鶯として死ねる——彼はうれし泪が出てきた。」——獄中の病室における勉次を描いた箇所だが、ここもわかりにくい部分を含んでいる。要するに内面では「転向」しなかった、しかし対外的には「転向」としての事実は残るのでありそのことで多くの人に迷惑をかけてしまった、その責任の問題があるのだ、ということになっていくのだろう。

堀田善衛は、後年、「この十年」と題して、亡くなった人々についての寸言といってよい短い文章をつらねた中に中野重治も登場させている。
「あるときに用事で世田谷の中野邸へ行った。/「短い原稿を一つ書いてしまうから待っていてくれますか?」/と私に言って、書斎へではなくて、台所へ立って行き、そこで包丁を研ぎはじめた。出刃を研ぎ、肥後守を研ぎ、小刀を研ぎ……。/中野氏は、原稿を書きはじめる前に、家じゅうの刃物を研ぐのである。/砥石にむかってゴシゴシ研いでいるその後姿には、一種の凄みがあった。/私は背筋が寒くなった。」(全文)
この文章を読むとき、『中野重治詩集』のなかの「豪傑」という詩が念頭に浮かんでくる。「心を鍛えるために自分の心臓をふいごにした/そして種族の重いひき臼をしずかにまわした」豪傑。——太宰治はこの詩について、居酒屋で一度だけ会ったことのある花田清輝に「なんのことやら、さっぱり、わからない、といったような意味のこと」を「多少の反感をこめながら」ボソボソとつぶやいたそうである。


太宰治の戦時下の作品『竹青』は、作者によれば、中国を舞台にした「創作」である。
郷試に応じ、見事失敗した貧書生が、帰途洞庭湖畔で空飛ぶカラスの大群を見、「仕合わせだなあ」と言ってうとうとしていると、起こされ、カラスの仲間に入ることを許された上に、竹青という名の女房まで与えられる。まことに夢のような生活が続くが、やがて事故に遭い重傷を負ったところで目が覚め、家へ帰る。
醜い年上の女房に軽蔑されながらの元の生活に戻って三年目、家を出、試験を受けてまた失敗。帰途、竹青に再会、さらに夢のような生活が始まるが、貧書生思わず「ああ、いい景色だ。くにの女房にも、いちど見せたいなあ。」
これを聞くや、竹青—実は神の命で貧書生を試した神女は、人間界のことを忘却しカラスの生活に酔い痴れたときの刑罰は「恐ろしすぎて口に出して言う事さえ出来ないほどのものです。お帰りなさい。」と言いわたす。そして続けて言う。
「人間は一生、人間の愛憎の中で苦しまなければならぬものです。のがれる事は出来ません。…学問も結構ですが、やたらに脱俗を衒うのは卑怯です。もっと、むきになって、この俗世間を愛惜し、愁殺し、一生そこに没頭してみて下さい。神は、そのような人間の姿を一ばん愛しています。」
神の試練を受け、人間的弱さ人間的凡俗さ故に逆に極罪を免れるというのは、芥川龍之介の『杜子春』に通うものがある。

『津軽』はやはり戦時下、故郷津軽地方を旅し、書かれたものだが、ここには自身の出身階級への後ろめたさはなく、むしろ在郷における生家の啓蒙的、実力者的役割に率直に共感を示している。この啓蒙性というものも太宰の文学の特徴を示すものと私は思っているが(啓蒙は上からなされるものとは限らない)、それを太宰はこの旅行で再確認したかのようだ。
 太宰は育ての母と呼ぶたけに会って、自分との近似性を見出したことを声高に訴えている。このたけと会うことは「出発する当初から」決めていたことなのにもかかわらず、作品の中では直前まで触れられない。再会場面は、「私」の言動は抑制がきき、たけのそれも素朴そのもの、さりげなく描かれていてまことに感動的だ。

『人間失格』の主人公大庭葉蔵は少年時代、田舎の「薄暗い部屋」で「十人くらいの家族全部……ただ黙々としてめしを食っている有様」を回想し、「これも一種の儀式のようなもの」で、「人間はめしを食べなければ死ぬから、そのために働いて、めしを食べなければならぬ、という言葉ほど自分にとって難解で晦渋で、そうして脅迫めいた響きを感じさせる言葉は、無かったのです。」と告白している。
 作者太宰治は、そういう外部の世界との距離感におののき、それに自分を合わせていかなければならないことに本能的に恐怖を抱き、そうしないで生きていきたいと願ったのだ。
 戦後の太宰治にたくましい肉体が与えられたとして、三島由紀夫が好むような作家に生まれ変わったとはとても考えられないが、三島が捨象し太宰がよしとするふつうのひとの生と、しかしそこから絶えず遠ざかる精神という宿命的ドラマに向き合いつづける健康があってほしかった。


 小説『運河』の主人公塚口洗吉は、共産党活動により検挙され、拷問を受け、死の恐怖を感じた瞬間、何もかもどうでもいいものだったように思ってしまう。「留置場へ返された彼は、うす暗い監房のかたい壁に凭れながら、思わない自分を見出した落ちぶれたいやな感情を味わっていた。それは裏切者の自分だった。そして情ないことには、それがほんとうの自分であるような気がしていたのである。」
転向保釈され、東京へ出るが、続く特高の監視のため職を失い、せっぱつまった彼は工場作業婦の正子に接近する。間借りすることになった運河の近くの小さく貧弱な正子の家には、驚くほどの数の家族が同居していて、「何かが無秩序であった。そしてその日暮しであることもたしかだった。だがそこには、じめじめした陰気なものは何も感じられなかったのである。」
「自分を支える何物もないこと」を強く感じていく洗吉は、義務づけられていた特高へ挨拶に行き、侮辱され、「自分が裏切者であるならば、ほんとうの裏切者になるべきだという感じ」になる。特高が正子の家にも訪ねてくるようになってさらにせっぱつまった洗吉は、未亡人の正子に打算の愛を告げるのだ。
ことあるごとに自分を「卑劣な裏切者」と思う洗吉は、一方で正子たちに優越意識をもつ。夫として暮らすこととなった洗吉は、やがて正子の〈愛の神聖に対する信仰〉や家族の〈無知の健康さ〉に反逆するため、裏切を考える。
特高が訪ねてきたことを正子に告げたあと、「階下では楽しげな笑い声が聞こえていた。しかしやがて彼等は、ガヤガヤ風呂へ出かけて行ってしまったのである。洗吉は、やはり何事もなかったのだと思った。するとおかしなことには、世の中の誰からも理解されなかったようなさびしさが、その彼へ押し寄せて来たのだった。…『とにかくこんな世の中なんか、焼きはらってしまおう!』」やがて洗吉は「ほんとうの裏切り」を決行するのである。
 人生の早い時期に人に愛されたい、認められたいという機会を与えられず、教育の機会にも恵まれなかった人間の不幸意識が、あるいは「革命」に、あるいは「発明」に、いっきょに世界が変わる幸福を夢みるのは自然だろう。しかし暴力的にそこに楔を打たれたとき、「大衆への愛」という虚構が外発的に崩され、認められたいという欲求が上昇志向にそのルートを見い出したものにすぎなかったことに気づかされ、自分が本当に求めていたものはまた別のものであったと思い至る。
洗吉の言う「ほんとうの裏切り」とは、不幸意識に激しく訪れるパトスであり、倒錯したものだが、論理としては、本当に求めていたものに自分を受け入れてもらうためには遠回りしていた自分の醜さを清算しなければ、ということなのだろう。
 作者椎名麟三が脱出しようとした世界は、太宰や中野が距離感をもった世界と同じだが、違っているのはそこにその一員として生きてきたことである。

椎名麟三は私鉄労働者として働いていたとき労働運動に参加し、検挙され、転向した。この作者自身の経験は『自由の彼方で』や『運河』などの作品で批判的に検討されたが、それを党活動には入らず実直に働くことに喜びを見いだしている一人の人間の目から描いたのが小説『美しい女』である。

「私は、関西の一私鉄に働いている名もない労働者である。」—この労働者は勤務賞罰表で会社から三つも賞をもらい、仲間から反感を買ったりするのだが、「私は、監督から認められようと思ったことは一度もなく、ただ満二十歳になったら運転手になりたいと思い、また運転手になりたいと思っている自分を、いささかの悲哀をもってだが、喜んでいる人間だった」のである。
「いささかの悲哀」は「私」が「一度も本当の自分であったことはな」いことによる。「車掌として勤務していても、何か自分ではないことをしているという気がするのだ」が、奇妙なことに「そのような意識が私にやって来たとき、一度は神妙にがっかりするのだが、すぐにがっかりしている自分がひどく面白く感じられてくる」のだった。「だから私は、思いをつくし意をつくして至極真面目に勤務した。そうする方が面白かったからだ。」—このような自分をつづけることができるのは、勤務が終わって下宿への帰りに飲む焼酎のおかげであり、そしてその焼酎を飲んでいるとき、彼の心に浮かんでくるのが「美しい女」への思いなのだった。
「このようなおかしな自分から救い出してくれる…どんな顔をしどんな姿をしているのか、さっぱりわからない…まるで眩しい光と力そのもののような」美しい女。「私のほんとうに欲しているものは、運転手ではなく、あの美しい女であった」故に、「いささかの悲哀」という「保留」をもって運転手になりたいと思っている自分を喜んでいるわけなのだった。
この「おかしな私」は会社から御用組合の役員にさせられてしまったり、逆に「赤」じゃないかと噂されたり、仲間から共産党の労働組合へ誘われたりする。しかしアジビラの文言に見られるような極端さや悪魔めいたことを嫌う彼は誘いを断り、仲間やオルグの若い男に軽蔑されるが、彼はこう言い切るのである。
「恐らく彼等にとって私たちの生活は、情けないほどくだらないものであるにちがいない。だがこのようなくだらない生活に十分に生きられない者に、この世のことをとやかくいう資格はなかった、と思うのだ。…(私たちは)社会や歴史の表面にうかぶこともなく消えて行く人間であるにちがいない。だからこそ私は、(私たちのような人間が)はなはだ漠然とではあるが、心の底で求めているのではないかと思われるものを示したいのだ。」
ところがこの「私」は共産党活動に関わったものと誤解され検挙される。肝心の党員たち—『運河』や『自由の彼方で』の主人公たち—は事前に逃げていて、無関係な人間ばかりがつかまるのだ。
このような「私」が結婚した女は、よく働き、出札係として最初の一月に男たちを凌ぐ成績をあげた女だった。しかし結婚してみると、彼女がよく働く理由は、そして「私」にも要求するものは「出世」なのだ。「仕事をしているときのあの生き生きとした生命を彼女に与えていたのは、仕事そのものでなくて、会社であり、一つの組織なのであって、その組織が時代によって支えられていたからであった。」「私」はそのような妻に対して闘いはじめる。
 「それに反して私に生命を与えていたのは、はなはだ素朴で申し訳ないのであるが、直接的に仕事そのものだったのである。と云って、私は仕事から全的な喜びを与えられていたというのではない。その喜びには、喜びは喜びだが、ほんとうの喜びでないというちゃんとした限界があり、その限界がその喜びにおかしな悲哀のかげを投げていたとしても、その悲哀をさえ喜ぶことが出来たのである。いうまでもなくそれはあの私のほんとうに美しい女のせいなのだ。」


 外部の世界との距離感を問題にするというより、外部の世界の営為そのもの——働かなければ食えない、この社会で生きていけない——を虚妄であると観念してしまったのが尾形亀之助である。しかも尾形亀之助はそれを実践した。
 「(最も少額の費用で生活して、それ以上に労役せぬこと——。……このことは、正しくないと君の言ふ現在の社会は、君が余分に費ひやした労力がそのまゝ君達から彼等と呼ばれる者のためになることにもあてはまる筈だ。……そのためには過飲過食を思想的にも避けることだ。そして、だんだんには一日二食以下ですませ得れば、この方法のため働く人のないための人不足などからの賃金高は一週二三日の労役で一週間の出費に十分にさへなるだろう。世の中の景気だつて、むだをする人が多いからの景気、さうでないからの不景気などは笑つてやるがいゝのだ。君がむだのある出費をするために景気がよい方がいゝなどと思ふことは、その足もとから彼等に利用されることだけでしかないではないか。働かなければ食へないなどとそんなことばかり言つてゐる石頭があつたら、その男の前で「それはこのことか」と餓死をしてしまつてみせることもよいではないか。……第三者の需要に左右されるやうなことから手を離すがいゝ、勿論、賃金の増加などで何時ものやうにだまされて「円満解決」などのやうなことはせぬことだ。貯金などのある人は皆全部返してもらつて、あるうちは寝食ひときめこむことだ。金利などといふことにひつかゝらぬことだ。……くどくどとなつたが、私の考へこんでゐたのは餓死に就てなのだ。餓死自殺を少しでも早くすることではなく出来得ることなのだ。」(詩「無形国へ」)
尾形亀之助は、実際、「餓死自殺」を口にしていたらしく、最後は自分に即するということの延長線上に「喘息と長年の無頼な生活からくる全身衰弱のため、だれにもみとられず」(思潮社文庫・年譜)息をひきとった。

社会の掟の無意味さが透けて見えてくる地点は、同時に、一日中部屋の中にいて、「——だが、今日も何時ものやうに俺がゐてもゐなくても、何のかはりもない、自分にも自分が不用な日であった」と自分で自分を突き放す地点でもある。
「やぶけてゐる障子に囲まれた部屋の中に一日机に寄りかゝつたまゝ」、火鉢や、湯沸かし、座布団、畳の焼け焦げなどの事物に囲まれ「此頃は何一つまとまつたことも考へず、空腹でもないのに飯を食べ、今朝などは親父をなぐつた夢を見て床を出た。……夕暮近くには、……火鉢に炭をついでは吹いてゐるのであつた。」(詩「ひよつとこ面」)
「親父をなぐつた夢」とあるのは、「お前はもう三十一になるのだ」(詩「詩人の骨」)と手紙で父親に言われたことを受けていて、「ひよつとこ面」を含む詩集『障子のある家』には「自分が三十一にもなる」ということが何度も繰り返し出てくる。
「三十一にもなる」とは、この社会に生きていれば三十一歳らしい何かになっていなければならないことを意味しており、亀之助がそうなっていないことについて父親の手紙がくるのであって、しかし「幾度考へこんでみても、自分が三十一になるといふことは困つたことにはこれといつて私にとつては意味がなさそうなことだ。他の人から私が三十一だと思つてゐてもらうほかはないのだ」(「詩人の骨」)と突っ放すのである。
詩集『障子のある家』の後記は、子供たちと両親へのメッセージになっていて、前者には「お互いの距離がずいぶん遠い。とても手などを握り合っては事実歩けはしないのだ。お前達と私とは話さへ通じないわけのものでなければならないのに、親が子の犠牲になるとか子が親のそれになるとかは何時から始つたことなのか、これは明らかに錯誤だ。」とあり、後者には「さよなら。なんとなくお気の毒です。親であるあなたも、その子である私にも、生んだり生まれたりしたことに就てたいして自信がないのです。……私はやがて自分の満足する位置にゐて仕事が出来るやうにと考へ決して出来ないことではないと信じてゐました。そのことを私は偉くなると言葉であなたに言つて来たのですが、私はそれらのことを三四年前から考へないやうになり最近は完全に捨てゝしまひました。」とある。後者は、詩「さびしい人生興奮」の「親父の手前、(詩集を)少しは売りたい」につながるようなことがらを指しているのだろうか。
詩集『障子のある家』のタイトルに添えて「あるいは(つまづく石でもあれば私はそこでころびたい)」とあり、「まとめたのは、作品として読んでもらうためにではな」く、「私の二人の子がもし君の父はと問はれて、それに答へなければならないことしか知らない場合、それは如何にも気の毒なことであるから、その時の参考に。」と「自序」にある。
 尾形亀之助のような生き方はとてもできないが、こういうことを考えかつ実践した人がいたということは大きな慰めである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?