演奏家たち―ピアニストを中心にして―

ピアニストたち抄

ケンプとバックハウス

 私がLPレコードを買い出した頃は、普通の国内盤しか扱わないレコード店では、ベートーヴェンのピアノ曲はソロも協奏曲もケンプかバックハウスしか置いていなかった。私はベートーヴェンの作品を聴きたい、知りたい、集めたいというのだったから、目指す曲目が入っていれば演奏家にはこだわらなかった。しかし次第に好みが出てきて、ケンプが好きになった。
 ピアニストとしてバックハウスのほうがテクニックはもちろん、スケールの大きさ、表現の振幅において上であることは私も認める。ワルトシュタイン・ソナタのような指の動き、音の強弱の差、推進力などが問われる曲ではケンプはとても問題にならない。ハンマークラヴィア・ソナタもバックハウスがいい。ことにこの第三楽章は単なる指のテクニックにとどまらず精神性においてもバックハウスの演奏は他を寄せつけない高さと美しさをもっている。(4番の協奏曲などは両者どちらを取るとも決しがたい。)
 バックハウスはケンプ同様、モノーラルで一度ソナタの全曲録音を果たしたあとステレオでの再録を期したが、ハンマークラヴィア・ソナタ一曲を未収録で残した。一九六九年、八十五歳のバックハウスはリサイタルの途中気分が悪くなって演奏を中断し、休憩後曲目を変更して、演奏終了の数日後に亡くなった。(バックハウスの演奏活動はソロと協奏曲に限られていたようで、私の知る限りレコードに残された室内楽はフルニエとのブラームス・チェロソナタだけである。)
 バックハウスの音はいってみればモノクロ映画の到達点ではないだろうか。その単色の美しさ、構築の巨大さ、表現の禁欲的な厳しさはたとえようもない。しかし私はカラー映画のほうが好きなのだ。カラーで同時に右のような要素を併せもつことはありえよう。しかし、ないものねだりしてもしようがない。ケンプの音は、硬質でありながら温かさと色彩を——リヒテル同様多彩ではないが——もっている。その演奏はやはりドイツ的な精神性をもっているが、バックハウスのような峻厳な高山のような孤絶性ではなく、もっと平地的な家内的な親しみ、和やかさをもつものである。
 ケンプはいわれるほどテクニック・指の運動性で劣っているのだろうか。たとえば32の変奏曲ハ短調はもう年を重ねてからの録音だが、ホロヴィッツ(戦前の録音)で聴いたあとに聴くと、もたもたしてまどろっこしく感じるのは確かだ。しかしホロヴィッツやバックハウスやリヒテルといった超絶技巧をもったピアニストと比較するのは酷なのだ。シューベルトやバッハの演奏には十分なテクニックをもっていたといってよいのではないか。ベートーヴェンについても。ケンプのショパンの演奏を聴いたことがあるが、難しいフレーズをなんなくさらっと弾いていて驚いたことがある。

リヒテル

 リヒテルは「幻のピアニスト」と呼ばれ、当時西欧圏では少し前までその直接の演奏に接することはできず、またレコードも少なかった。私がはじめて買ったのは、ベートーヴェンの「熱情、悲愴、葬送」のソナタ三曲を収めたレコードだった。「熱情」はとてつもなく早い演奏で驚いたが、なにかリヒテルを聴いてベートーヴェンを聴いているのではないような気がして、だめだった。その後7番のソナタを聴いたりしたが、私の好きなピアニストではないと思った。
 がらっと評価が変わったのは、バッハのピアノ協奏曲第1番を聴いてからである。ターリッヒ指揮チェコ・フィルとのモノーラル録音だが、リヒテルはオーケストラのなかに溶け入りオーケストラと一体になってまるで古い大寺院の威容を目の前にしているような演奏で、ただただ心地よく圧倒されつくした。ついでバッハの「平均律クラヴィーア曲集」を聴いて、私のリヒテル評価は決定的になった。
 リヒテルはその表現の全体によって訴えると同時に、音色によっても語りかけるピアニストのように思う。その音色にリヒテルは何かメッセージを込めているように思えてならない。本質的にロマンチックな演奏家だから、ときに全体の造形性に破綻を来すことがあるようだ。前記の「熱情」などそうではないのだろうか。ベートーヴェンのものは—とくに長いものは—そのへんのことが無関係ではないように思える。(何年だったか、一度キャンセルがあった後新宿の厚生年金会館で聴いた演奏会は小品ばかりで、曲目—「楽興の時」から三曲、「幻想小曲集」から三曲、ドビュッシーから二曲—も当日発表というものだった。)
 モーツァルトなども—協奏曲第20番などを除き—とくにいいとは思えない。というより、リヒテルには技術的に難度の高いものをもっと残してもらいたかった。(ケンプもモーツァルトの演奏では、骨っぽさのようなものが逆効果になってケンプのよさが出ていないと思う。)
 リヒテルの平均律を聴くと宇宙大という言葉が自然に浮かんでくる。これに比べるとケンプは問題にならないほどスケールが小さいが、隣の部屋で知り合いの人が私のためにピアノを弾いてくれているといった趣がある。これがケンプの持ち味で、私にとっては貴重なものである。

ポリーニ、エッシェンバッハ、ハスキル、ヘブラー

 ポリーニが来日し、経済的に恵まれない労働者などのための便宜を配慮したというコンサートをNHKテレビで観たことがある。「熱情」など全ベートーヴェン・プログラムだった。その演奏時の顔の表情は、眉をひそめたり、唇を引き締めたりと、まことに感情表現豊かだったが、聴こえてくる音楽からは驚くほど感情が伝わってこない。この落差はなんなのだろう。
 レコードだから顔の表情はわからないが、エッシェンバッハのモーツァルトの演奏にも私は冷やかなもの、孤独から出発して人へ向かうのではなく、孤独でありつづけるものを感じる。そしてエッシェンバッハが戦争孤児だったという事実に思い至ってしまうのだ。しかし、ハスキルだって、カリエスその他病身で生涯にわたって孤独を強いられたのだ。たしかにハスキルには、モーツァルトの大きな要素である官能性は後退している。しかしその音は指から生まれたとは思えないほど、深く、その孤独は人に向かいあるいは何かに向かっていて、冷やかではない。モーツァルトと冷やかさは相いれないのだ。
 ヘブラーは、モーツァルトの演奏以外は不適と目されていたという意味でもモーツァルト弾きであったといえようか。彼女には強い孤独のようなものはなかったようにみえる。しかしその弱音にウェイトを置いた端正な演奏から何ともいえないような寂しさが漂ってくる。これは無心に無媒介的にモーツァルト演奏に精進した賜ではないだろうか。余分なものを加えず、必要なものを省かない、という演奏からモーツァルトの肉声が聞こえてくるとしたら、ヘブラーのピアニストとしての力量は必要にして十分なのではないだろうか。

アンダ、バーンスタイン、ブルーメンタール

 ゲザ・アンダはザルツブルグ・モーツァルテイム管を指揮してモーツァルトのピアノ協奏曲を全曲録音している。たっぷりとした、官能的な、その音は本当にいい。とはいいながら何か十分な満足が得られないような気がしていたが、バーンスタインがピアノを弾いてウィーン・フィルを指揮した第15番の協奏曲を聴いて納得した。これはまたなんとも知性的でかつ生気にあふれた演奏である。バーンスタインの弾き振りは、第25番も、ショスタコーヴィチも、ガーシュインもみんないい。さて、アンダに欠けていたのはこの知的なものなのではないか。バーンスタインの演奏を聴いたあとでは、どうしてもそういわざるを得ない。
 ブルーメンタールという女流ピアニストがいる。ポーランドの生まれらしいが、ブラジルに移って活動するという変わったピアニストである。そのレパートリーがこれまた変わっている。モーツァルトを別とすると、聞いたこともないような作曲家の作品を主として録音している。レコードのジャケットも、顔のわからないシルエットのものや、肖像画—パリで一時藤田嗣治のモデルをしていたという話もある—などしかないのだ。私はベートーヴェンがバイオリン協奏曲を自らピアノ協奏曲に編曲したレコードを探していて、輸入盤でたった一枚見つけたのがブルーメンタールのものだったのである。ワルトハンス指揮、ブルノ・フィル。選択の余地なく買って、最初はその間延びしたピアノ・パートにがっかりした。バイオリンの滑らかな線的演奏に比べると、とぼとぼとしたといってもいいくらいの点的運びである。それは楽器の機能上仕方のないことはわかるが、それにしても…。しかし何度か聴くうち、ピアノの響きの艶のようなものに惹かれるようになった。(このピアノ版はカデンツァがかわっていて、なんとティンパニが入るのである。クレメールはこのカデンツァを踏まえて、バイオリン用のカデンツァをつくり演奏している。)
 そんなことで、その後たまたま見つけた輸入盤のモーツァルト・ピアノ協奏曲21番—ハーガー指揮、ザルツブルグ・モーツァルテイム—も買い、これにも驚いた。この曲はハ長調で、20番ニ短調とともに、モーツァルトが同時に全く正反対の性格の曲をつくる恰好の例としてよく取り上げられる。ところがブルーメンタールの演奏は聴き慣れたのと違ってところどころで短調のような響きがするのである。たしかに長調の曲でも短調的和声の部分はいくらもあるわけで、そこを強調して演奏されれば暗く重々しくといった響きになる。ああ、やはり20番と同時期の作品なんだと思ったのである。

ブレンデル、フランクル、コワセヴィッチ

 ブレンデルは、ヴォックスレーベルに録音した若いころの演奏が好きだ。吉田秀和氏は若いころの演奏を「なにをやってるのかと思った」と言っており、レーベルがメジャーになりトップクラスの演奏家となってからを高く評価している。たしかに考えに考え、練習に練習を重ねた演奏は高いレベルのものだが、明快になり、前面に音が直進してくるようになった演奏より、私は音が後方の静寂の中に消えていくような、内向的な、クリーンに似た硬質で透き通った美しい音の若いころの演奏が好きである。(クリーンとは、モーツァルトとシューベルトの四手用のピアノ曲と二台用の協奏曲を録音している。)
 ただ協奏曲では、ウィーン・フォルクスオパーはともかく、ウィーン・プロムジカとかウィーン室内管とか共演のオーケストラの水準はかなり低いようで、その稚拙な演奏のため、こんなところにこんな楽器のフレーズがあったんだと気づかされるという怪我の功名のようなものはあったものの、ピアニストが可哀そうだ。そういえばヘブラーやハスキルが協演しているウィーン交響楽団でさえ音はパサパサして艶がない。ウィーンは世界の音楽の中心と思っていたけれど、ウィーン・フィルは別格なのだ。ヴォックス・レーベルでもドイツのヴュルテンベルク室内管とかヴュルツブルク管などといった地方小都市のオーケストラは悪くない。しかしドイツのオーケストラの響きでいえば、ライプツィッヒ・ゲバントハウス管やドレスデン国立歌劇場管の、質朴で重厚な安定した低弦の上に高弦がさーっと乗っていく響きが私には何といっても好ましい。(ヴォックス盤にはペーター・フランクルが、モーツァルトの協奏曲を前者のオーケストラと録音しているが、左手が安定したリズムを刻みながら右手が旋律を生き生きと奏していく演奏が私は気に入っている。) 
 オグドンの演奏するベートーヴェンの作品番号のない変奏曲を集めたレコードを聴いて、その平板なメリハリのない演奏に、ブレンデルの演奏—ヴォックスレーベルの、変奏曲を含む小品集—がいかに立体的でいきいきとしているかを再確認したことがある。ベートーヴェンの小品の演奏ではスティーヴン・コワセヴィッチの「バガテル集」も記憶に残っている。タッチの明快で繊細なみずみずしい演奏だった。28・30番のソナタと小品を入れた輸入盤(セラフィム)も同様の印象だったが、その後モーツァルトの室内楽を聴いて、これにはあまり個性が感じられず、遠ざかってしまった。

デムス、スコダ、グルダ

 かつてウィーンの三羽ガラスといわれたスコダ、デムス、グルダのうち、前二者は初学者のための模範演奏のレコードとか研究などに活躍の場を移したようだが、デムスは音が汚いといわざるをえない。グルダは批評家の受けがよいようで—吉田秀和氏など—、ベートーヴェンのソナタ全集を二回録音しているし、ジャズの演奏や作曲もある。アコースティックのピアノとエレクトリック・ピアノを据えてのライブをテレビで観たこともある。ひとが一生かかって達成するものを二十代ぐらいで手にしてしまった才人の自在さとも苦さともいえるような姿だった。たしかにその前へ前へと音楽を進めていく推進力は大変なものだが、残念ながら「時よ、止まれ。おまえは本当に美しい。」といえる瞬間がない。
<追記>
 グルダの日本での演奏会の録画テープを久しぶりに見て、ああ自分の好みが変わったなあと思った。グルダのその映像は、昔見たとき特別な印象はなかったのだが、今回は違ったのである。
 ステージの前面に電子ピアノを客席に向けて置き、その後ろにふつうの向きにコンサートピアノを置いて、グルダはハンドマイクで客席に英語で語りかけながら、楽器を代え、弾いていく。鍔無し帽子にタートルシャツという格好もクラシックのコンサートでは型破りだが、ショパンのノクターンを「みんなも好きだろう。僕も好きだ。」と言って弾き始めたとき、グルダのこのコンサートのコンセプトがよくわかったのである。グルダは自分の才能と努力を挙げて、いまここで自分も聴衆もともに音楽を楽しみたい、そういう場をつくりあげたいと願っているのだ。
 グールドのことが思い合わされた。グールドは周知のようにステージを拒絶して、録音のみに徹したピアニストだが、グールドが自ら編集したり演出・出演したりしたテレビ・ラジオ向けの録音・映像が紹介されるにつれ、レコードの録音と録音時の映像だけでは伝わらなかった面、自閉症的で自己陶酔的なとも見えるのとは違って、グールドもまた自分の才能と努力を挙げて、自分も聴衆もともに音楽を楽しみたいと願っていたことがわかるようになったのである。ただグールドはグルダと違ってステージではそれができないと考えたのだ。
 グルダは実に愛想良く何度もアンコールに応え、最後はピアノの蓋を閉め、片足をひきずってステージの袖に消えて行った。
 映像の途中に挟まれたグルダ自作自演のジャズの方は、まあ、ご愛嬌だと思うが、この後モーツァルトの協奏曲20・21番(アバド指揮、ウィーンフィル)などのレコードを聞き直し、私のグルダへの評価は確実に変わった。

ルドルフ・ゼルキン

 ルドルフ・ゼルキンは上野の文化会館で聴いたことがある。ベートーヴェンの「熱情」などだったが、演奏中なのに誰やら前の方でバタンバタンと大きな音を立てている。マナーのないやつがいるなと思っていたが、何とそれは当のゼルキンが足で床を踏みつける音なのだった。このときのゼルキンの演奏と人柄には好感をもったが、私にはゼルキンのカチッとした音で、表現全体の中に音色の占める部分が少ない演奏はあまり合わないようだ。ベートーヴェンのピアノ協奏曲1・2番(オーマンディ指揮、フィラデルフィア管)などを聴くと、そう感じざるをえない。吉田秀和氏はゼルキンの演奏(モーツァルト、ピアノ協奏曲20番)を評して「清らかといっていいような」(NHK・FM)というが、私はそういうものかと思うにとどまる。(息子のピーター・ゼルキンは、レコードでモーツァルトの10番台の協奏曲と小品集を聴いただけだが、その自閉的ともいえる演奏は聞き手を幸福にしてくれない。)
<追記>
 以前はピアノの音色とか響きといったものに私の好みのウェイトがあった。それが変わってきたのは、たとえばバッハはピアノで聞いてチェンバロでは聞かなかったのが、むしろチェンバロを好むようになったのにも現れている。チェンバロも奏者や楽器によって音色・響きが違うが、それははるかにピアノより少ない。音にこだわりが減る分、旋律線や構造面に耳がいくようになったようだ。
 R・ゼルキンは音が汚いとまでは言わないが、たっぷりとした官能的な音とはほど遠い。しかしこの人ほど老いてまで純粋なものを持ち続けた芸術家もいないのではないだろうか。この紳士にして自然人、いや野蛮人とさえ評したくなる人は、演奏しながら足でバタンバタン床を踏みつけるのも気にしない。昔上野の文化会館でリサイタルを聴いたとき、私はあきれてしまった。しかしひたむきな音楽への自己投入を、遅ればせながら私は確認し、かつて吉田秀和が「清らか」と評したのを納得するようになったのである。八十歳を超えての、モーツァルトの協奏曲(アバド指揮、ロンドン響)などはまったくその評のとおりの演奏である。

アシュケナージ、バレンボイム

 アシュケナージは一度上野で聞いた。ベートーヴェンの16番のソナタとラフマニノフ。体の小さいアシュケナージが椅子の上でお尻をちょこんと滑らして演奏するのがほほえましかった。年をとるにつれて次第にピアノの音色や響きに重点を置かなくなったためか、かつて好きだったアシュケナージのピアノ演奏などが意外に情緒の深さがない平板なものに思えるようになってきた。モーツァルトの弾き振りでは指揮が気になってかピアノにソロの時のようなのびやかさがないし、パールマンやリン・ハレルと組んだベートーヴェンの室内楽などを聴いても、力みのようなものが耳につくように思う。また、彼らの仲間と言ってよいバレンボイムのモーツァルトの弾き振りも、最初はきびきびした華麗で明快な演奏が気にいっていたが、何度も聞いているうちどうも空疎なものを感じるようになってしまった。
<追記>
 バレンボイムの上記のモーツァルトの弾き振りはイギリス室内管とであったが、その後ベルリン・フィルと録音したものを聴いてこれには感心した。特にニ長調のロンドは息を呑むほど美しい。アシュケナージはショパンから出発してモーツァルトやベートーヴェンに至るとてつもないレパートリーを手にしたが、その後指揮の方に重点を移したようだ。

アファナシエフ

 NHK・FMで一度聴いただけだが、アファナシエフのシューベルトのソナタ20・21番のライブ演奏は強く印象に残っている。そのドラマチックともいえる演奏は、深い情緒と思索に裏打ちされているようで、説得的だった。何か劇映画でも観ているようで、こんな受聴体験も珍しい。演奏中弦が一本切れたが支障はなく中断せずに演奏された、という事務的なアナウンスも私には印象的に響いた。その後聴く機会がないが、気になるピアニストである。
<追記>
アファナシエフはその後バッハの平均率などのCDを聴いたが、シューベルト同様ゆったりした演奏で、これは自分の音を自分で聴きながら演奏するからなのだそうだ。アファナシエフのエッセイを読むと、ギレリスやリヒテルについての批評など納得させられる点が多いが、ライナーノートに引用されている彼の詩や小説の断片は難解極まる。

シュタルケル、ギレリス、キース・ジャレット、ニコライエワ

 廉価盤がブームになって各社から競って発売されるようになり、私はよくレコード店へ足を運んだが、エベレスト盤でシュタルケルのバッハの無伴奏組曲4曲とコダーイを入れた2枚が忘れられない。このレコードでは演奏もさることながらP・バルトークによる録音に驚いた。まるで目の前耳のそばで弾かれているような響きで、モノーラル録音ということが信じられないほどである。(ベートーヴェンのチェロソナタ3・4・5番を入れたフォンタナ盤もよかった。)
 録音ということでは、グラモフォンのCDで聴くギレリスの晩年の録音も素晴らしい。工学技術を駆使して、その鉱質のようで柔らかい、切れるようで量感のある、白銀のような抜けるような音は人間の手と人間がつくった鍵盤から生み出されたものとは信じられないほどのものである。
 キース・ジャレットがケルンで行ったソロ・コンサートの即興演奏の音も凄かった。まるで岩を切り刻むかのように鋭く強い、そして美しい音なのだ。森閑とした石切り場で一人鋭利なツルハシを振るう石工の仕事場に立ち会っているかのような臨場感。キース・ジャレットが録音したクラシックの演奏は、ピアノおよびハープシコードによるバッハの「平均率」「フランス組曲」「ゴールドベルク変奏曲」、ショスタコーヴィチの「前奏曲とフーガ」全曲、などどれもいい。MJQのジョン・ルイスのようなジャズ特有のスウィング感を生かした演奏ではなく、むしろそれを極力抑えた、そしてジャズの生命であるいきいきとした躍動感、いままさに生まれつつあるという臨場感を前面に出した素晴らしい演奏である。
 「ゴールドベルク」は八ヶ岳高原音楽堂で収録されたものだが、その演奏はハープシコードがピアノの前身の古楽器だということを忘れさせてしまうほどの迫力のあるものである。私はもともとハープシコードはあまり好まず、バッハのチェンバロ協奏曲などもニコライエワのピアノ演奏を好んで聴いてきたが、このキース・ジャレットの演奏はピアノとハープシコードがそれぞれ別個の個性をもった表現の器なのだということを—楽器が1988年製ということもあろうが—いやおうもなく教えてくれるものである。キースにはへんに哲学ぶったコメントを付した演奏もあって、それらはいただけないが、トリオによるジャズのスタンダード曲の演奏はスウィングの利いた魅力的なものである。
 ニコライエワといえば、バッハ「フーガの技法」の演奏も凄いの一言に尽きる。バッハのチェロやバイオリンのための無伴奏曲を聴いたときもとても一人が演奏しているとは信じられなかったが、四段のスコアに書かれて、四部の弦や二台(したがって四手)の鍵盤楽器で弾かれるのが普通のこの曲—作曲者による楽器の指定がない—を、ニコライエワは一人で演奏しているのだ。その各声部の明瞭な描出は驚くばかりである。
 バッハの失明のため未完に終わったこのフーガは、長い間対位法の範例としてしか考えられなかったらしいが、ニコライエワの演奏では抽象的な秩序の奥から深い情感が沸きあがってくるのを目の当たりにすることができる。(ベートーヴェンもフーガを好みまた得意としたが、「ハンマークラヴィア」の第四楽章などを聴くと、情感が犠牲にされているように私には感じられる。)
<追記>
 キース・ジャレットはその後モーツァルトの9番17番20番のピアノ協奏曲を録音している。(以前日本に来た時は23番を弾き、チック・コリアと二台用コンチエルトを演奏した。)モーツァルトよりバッハの方が合っていると思うけれど、いずれにしてもジャズ・ピアニストの余技の水準を遠く越えている。
 ニコラエワが日本で録音した平均率の第二巻を聴いたが、24曲を5日でというスケジュールだったようで演奏も音響も柔らか味が欠けている。

グールド

 映画『アマデウス』は、錯乱に陥ったサリエリが物語るといった設定になっているが、このサリエリが死への床に就いたモーツァルトを手伝って「レクイエム」の口述筆記をするシーンがある。もちろん歴史的事実に反していて想像あるいは妄想というべきものなのだが、「凡庸」なサリエリが「天才」モーツァルト—そのために毒殺すべき相手—の指示に従って、時折自分の意見も言うのだが否定されそして納得しつつ、音楽という共通の目的のために協働する。私はここでサリエリは至高の時を過ごしたのだと思う。凡庸な人間にも一生のうちに何度かはそういう瞬間がある。神は不公平ではないのだ。
 協働ということで、グールドと協演したバーンスタインが演奏に先立って聴衆に、これからグールドの希望に従った演奏を行うけれども私は賛意していないことを言明しておきたいと述べたエピソードが思い出される。バーンスタインはこのとき指揮を人に任せてもよかったのだろうし、普通そういう場合そうするのだろうが、私はバーンスタインが最後まで付き合ったことに感動する。
 グールドからは多くのことを学んだ。しかし演奏そのものの私の好みはまた別である。グールドが自らの才能を守るために払った努力はそれ自体感動的だが、しかしスタジオの衝立のかげで行われた孤独なグールドの演奏は結局衝立のかげに還ってゆくもののように思われる。

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