日本詩歌史粗描

 唐木順三によれば、『万葉集』では「見る」という動詞の使用頻度が高いが、『古今集』になると「見る」にかわって「思ふ」が頻繁に出てくるようになる(唐木『日本人の心の歴史』)。加藤周一は『日本文学史序説』の中で、『万葉集』で「恋ふ」「思ふ」のような動詞が用いられるときは必ず特定の対象を「恋ひ」「思ふ」のであって、抽象的な心理「恋」を語ったのではなかった、『古今集』の恋の歌では「もの思ふ」という語を多用するが、他動詞「思ふ」に対象をぼかす目的語「もの」が付け加えられ、「もの思ふ」は自動詞的に作用している、と指摘している。
 『万葉集』の歌人たちは、主として人事とかかわる限りで身辺の自然的環境を歌った。『古今集』では人事を離れても、四季の花鳥風月をそれ自身のために歌うようになった。しかもその花鳥風月というものは、身辺の自然的環境とは無縁な、「物」というより「物の名」と言うべきものになった。『古今集』では、優雅を主とする詞の選択、音調から来る縁語や掛詞といった技巧、理の勝った構想、言い回しの屈折妙味といった類の工夫が前面に出てくるようになる。こうして『古今集』以来、歌は工夫して作るものになった。『新古今集』はその頂点と言ってよいが、頂点の頂点たる藤原定家の代表歌と言えるものは、危うい完璧さの歌と言ってよい。技巧を尽くし、もはやこれ以上如何ともなしがたいというようなものであり、定家自身晩年の二十年は作歌から離れている。
 定家が創出した新しい手法である句切れ、体言止めの多用は、句の一首全体からの相対的な独立の促進をとおして、上の句から下の句へと流れ込む情感の盛り上がりつまりは和歌的詠嘆を断ち切るものとなり、この方法こそ中世の典型的な詩であった連歌的方法の完成を準備したものとして評価されなければならない。
 連歌の盛行と裏腹に短歌は低調になっていき、それゆえますます宗匠制度による秘儀伝授的なやり方が固守されることになったが、それはすでに定家によって基礎づけられたものであった。すなわち歌壇において規範とされた定家の「詠歌大概」等の歌学書では、歌の言葉は三代集(「古今」「後撰」「拾遺」)でのそれを出てはならぬ、それ以後の作者の言葉を使ってはならぬ、というような主張がなされた。『玉葉』『風雅』の二集をわずかな例外として、「古今的なもの」が日本の抒情詩の歴史を長く支配することになったのである。
 万葉的なものが復権するとすれば、転換期のような若々しく活気に満ちた時代や階級の中からか、時代や階級が停滞し頭打ちになったときは何らかの理由によってそこを脱出する人間によってだろう。後者の場合、多くの場合社会に適合しえない何らかの欠陥によってやむなくであったとしても、詩人として成熟するためには、そのマイナスを自覚的に選び取ったものとしてのプラスに転化するということが必要だったはずである。
 『古今集』のもつ権威が長く日本の抒情詩を拘束して、「万葉の伝統」が多少とも蘇りをみせた中世期の西行や実朝、近世期の芭蕉や蕪村、良寛などわずかの例外を別として、明治に至るまで、それから自由でありえなかったと言っていい。


 西行が生きたのは、貴族階級の没落と武士階級の興隆という古代から中世への過渡期の動乱の中であった。出家以前の西行は鳥羽院北面の武士だったとされている。すなわち没落しつつある貴族階級の下に使われながら、興隆しつつある武士階級の一員としてであった。
 西行は定家と並んで『新古今』第一の歌人であるが、定家流の手の込んだ技法に走らず、当人の感情と経験を直接に伝える歌が多い。各地を行脚し山岳に住居を据えるという生活を送って、自然をテーマにして多くの歌を詠んだが、自分の眼で見た自然を歌ったと言うり自然に託した自省の歌の色合いが濃い。西行の詩意識は、興隆する武士階級の生活意識を反映しながら、貴族階級の詩意識を離れることはなかったといえる。

 実朝は、『万葉集』に学んで、自分自身の感動や、印象を、そのつかんだ方法で歌うことによって、「万葉の伝統」を生かした。実朝は貴族文化にあこがれ、歌も定家について学んだが、鎌倉三代将軍として武家たちの現実にかかわっていかなければならなかった以上、生活そのものが新興階級の活気と現実主義とに結びついており、歌に貴族文化の枠を超える面があるのは当然と言えよう。
 ただし実朝の歌は、斎藤茂吉が「古今・新古今を通過した万葉調ともいふべく」と言っているように、素朴とだけは言い切れなくなっていて、知的、分析的、反省的な要素が著しくなっている。実朝の万葉的な歌は、定家本『金槐和歌集』によって知られるように、21歳までに作られたもので、それ以後六年ほどのごく少数の歌からは、万葉的な傾向を放棄して、古今・新古今的傾向の追随者になったと考えざるをえない。

 徳川時代は最も支配体制の整った時代、いわゆる幕藩体制がすみずみまで行き届いた時代であった。反するものは容赦なく罰せられる、まさに警察国家であった。芭蕉や良寛はこの拘束社会を脱出した。他方蕪村は文人として社会の中に生きた。

 芭蕉は1644年伊賀上野に生まれた。若年時、伊賀付士大将藤堂家の嗣子に出仕し、武家社会の末端につながることができたが、主人の病死を機に藤堂家から退身する。その後はふたたび武士社会への復帰を求めず、また町人社会に生きる道も選ばなかった。芭蕉は経済的余裕も保証もないまま、秩序外的な俳諧集団に接近していった。身分的な秩序の厳しい封建社会において、枠からはみだした世界に進んだということになる。29歳の時江戸に下り、まず市井の俳諧宗匠というかたちで職業的俳諧師への道を選ぶ。しかし結局市井宗匠的な職業俳人から、専門俳人への道を選ぶのである。草庵生活さらには旅という芭蕉の生き方は、市井の隠者として生きる道ではなく、秩序的拘束から自由であろうとする別な道を選ぼうとしたものと言える。

 中世連歌は、一つの短歌を、上の句と下の句を別の人が作って取り合わせる遊戯から生まれ、その下句にさらに別の上句を加え、それに第二の下句を付け足すという風にして、数人が上句と下句を交互につくりながら長く続けるものである。この連歌は宮廷貴族の文化が大衆化したもので、連歌師たちは一方では伝統的な貴族趣味の連歌を業としながら、他方では俗語を駆使し、日常身辺に題材を探り、滑稽な効果を求めて、全く別種の連歌(いわゆる俳諧連歌)をもつくった。
 近世に入って新興の文学としての俳諧にとって「ことば」を和歌・連歌の雅語的なものから解放するということは、最初の大きな課題であった。貞門俳諧は俗語や漢語をとりいれ、多分に言語遊戯的な要素があったとはいえ、詩とことばの関係を変革していくための地ならしをした。しかし貞門俳諧は自己規制をすることで俳諧の可能性を制限してしまった。宗因の談林俳諧は軽口、放埒、荒唐の俳諧であった。それは主観的なひとりよがりの放埒、なれあいの放埒へと転落していく危険をも同時に孕んでいた。芭蕉の俳諧にとって、談林の役割は無視できないものだが、芭蕉の場合、談林の自由放埒とは異なって、ある価値的なものへの志向があった。すなわち「風雅」である。
 芭蕉は基角撰『虚栗』への跋文で、李白・杜甫の詩精神、寒山の禅味、西行の侘びと風雅、白楽天の恋情を、虚実自在の境において俳諧化するという「新風」への抱負を語っている。「乾坤の変は風雅のたね也」(土芳『三冊子』)とは、動的な「乾坤」から自立した自己完結的な秩序すなわち「風雅」を求めること、未完結の動(現実)を自己完結的な静(詩)に転化することを意味している。芭蕉は、すでに詩語として抽象化され類型化されている、いわゆる雅語によってではなく、経験的・日常的な俗語を生かすことにこそ俳諧の俳諧たる所以があると言う。中世の雅語では、俗語との葛藤をへて詩語に転化されるといった関係はない。芭蕉が求めるのは、俗語によって経験的な自然と交感しながら、その俗語のもつ相対的、意味的な限界を超えて、不変にして静的な非現実の秩序を創造するということである。
 中世連歌の美学の無常観では、「無常」は「秩序」であり、無秩序な動として伝統的な美の自律をおびやかすものではなかった。近世は万物が、中世的な観念から解放されて、より即物的に見え始めた時代である。露骨に滑稽感を表現することはしないが、滑稽精神のもつ知的な要素を抒情詩の新しい発想として生かす。そうすることで即物的、経験的な自然(俗)をふまえながら、同時に、その俗の含んでいる散文化に対応しうる方法を確立しようとするのである。
 芭蕉にとって抒情主体は常に外的自然の美に感応しうるよう、感覚が外的自然によって触発されるのを待機する姿勢を保っていなければならない。このような抒情主体にまで自己を形成するためには、不断の精進、自己鍛錬が必要であるのは言うまでもない。この精進鍛錬は現世的な欲望や執着などによって煩わされることがあっては不可能なはずであるから、そこから超脱しなければならないだろう。芭蕉は、現世的な執着の世界の意義をすべて否定し、ひたすらそのような抒情主体の形成に向けて努力した。
 芭蕉は伝統の権威から離れ、自分の眼で見たところを句にするというのが信条であった。自然詩において、古今的新古今な自然把握が詩人を束縛していた。芭蕉はこれらの束縛を破棄し去って、すべて自己の直接の感動に発する自然把握を正面から押し出した。芭蕉が自分の眼で確かめるというのは、単に観察するというのではない。「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」(『三冊子』)の「習ふ」は、松や竹を対象として見たり写生したりすることではない。物からの語りかけに耳を傾けよ、物に応ぜよ、というのである。
 「発句」において、乾坤の変から自立した時、動的な交感の持続は断たれる。動的な交感を回復するためには、ふたたび乾坤の変の前に立たなければならない。このような往復運動の持続を可能にする詩形式が、芭蕉の「連句」であった。連句は一種の集団芸術だとも言えるが、個の文学を主張した近代において、その意味は正当に評価されなかった。蕉風連句では連続と飛躍の関係が極限まで行っている。蕉風連句は、自己完結的なイメージを結ぼうとする求心力とそれを拒否して俗の動きに呼応しようとする遠心力の葛藤を通じて作り出されていく。だから「つきはなしてつくべし」ということになり、象徴的になる。俳諧は都市的・町人的なものに支えられて発展したが、それはまた俳諧の自由の、都市的・町人的な馴れ合いをも意味した。象徴的な付合—はなれてつく付合—は、それを超えた場を成り立たせるためにも、なくてはならないものであったのである。

 与謝蕪村は1716年摂津国毛馬村に生まれ、二十歳頃江戸に行き、俳諧修行に励んだ。蕪村は日本文人画の世界を確立した画家でもあり、俗の世界を離れた画の境地をめざしたが、俳諧においても「俗語を用いて俗を離るゝ」ことを望み、これを「離俗ノ法」と称していた。芭蕉没後の俳壇は低俗化し次第に低調になっていったが、蕪村は俳諧を建てなおそうとするいわゆる天明俳諧復興運動の中心になった。
 萩原朔太郎は蕪村を高く評価し、圧制的徳川時代には、人々は青空の彼岸に夢をもつような、自由の感情と青春とをなくしてしまった、しかるに蕪村の俳句だけは、この時代の異例であって、そうした青春性を多分にもっていた、と言っている(「郷愁の詩人与謝蕪村」)。「彼の詩境(は)、浪漫的の青春性に富んで居り、…どこか奈良朝時代の万葉集、明治以来の新しい洋風の抒情詩と一脈共通するところがある」「万葉集の和歌が、古来日本人の詩歌の中でも最も「若い」情操の表現であったやうに、蕪村の俳句がまた、近世の日本に於ける最も若い、一つの例外的なポエジイだった。」
 他方唐木順三は、「彼の風流は、芭蕉のものに比べてはどうしても風流の為めの風流であるかのやうな何物かである。…風流が蕪村にあっては直接自然の子ではなくなって…」という佐藤春夫の文章を引用し、同意している。吉本隆明は、蕪村は興隆していく町人ブルジョワジイの秩序破壊的な、写実的な、感性という一面と、封建支配に頭打ちされ屈曲した心理主義的な衰弱の一面とがある、として、西行や芭蕉が、その詩の方法を貫くために、自らを社会から疎外するような生活意識を確立することが必要であったのに対して、蕪村は町人階級の中にあって、そこにある程度の安定した生活意識をつくりあげながら、その離俗論を方法化し、蕉風にかえれというスローガンをかかげえたのだ、と言っている(「蕪村詩のイデオロギー」)。

 良寛は1758年越後出雲崎の名主の長男として生まれたが、そのような者としては自他共に認める無能であったらしい。十八歳のとき隣村の禅寺に駆け込み、身を託した。その寺を訪れた備中の国仙和尚に随行して当地に行き、三十四歳まで修行。和尚の死を機に当寺を去って、遍歴の旅に出る。父の死の後、ふたたび故郷に戻り、国上山の「五合庵」に寓する。後、里へ下り、乙子神社境内の草庵に住す。74歳、篤志の人の屋敷内の庵にて死去。またそこで四十歳年下の貞心尼と知り合う。
 近世の短歌は他の時代の短歌や、同じ近世でも俳句の芸術的な水準に比して、いちじるしく低いと言わざるをえないが、良寛はこの例外である。良寛は近世という時代を、芭蕉などとともに、しかも芭蕉と異なった方向で強力に超脱した。彼は短歌だけでなく、多種のジャンルを駆使してまことに自由であり、さらに書道にもすぐれていた。
 正岡子規、伊藤左千夫、斎藤茂吉、といったアララギ派の中心人物たちは、良寛の創作態度における感情の自由な表現、想像に頼らずに見たままを平明率直に歌う歌いぶり、固定した短歌伝統に束縛されることなく恣に抒情する態度に賛嘆した。アララギの立場は万葉調を標榜していたから、そうした人々が良寛の歌のうちに万葉調を認め、自分たちの先達の万葉調歌人として強く押し出そうということになったわけである。
 時代と環境の制約で、良寛の歌の教養の中心は古今集であった。しかしひとたび万葉集に接するに及んで、驚喜し、私抄本まで作っている。万葉集を手にしてのめりこむように熱中していくにつれ、漢詩における「ただ聞く」という態度から「共に歌う」ところへおのずから出ていった。このような晩年の境地に至るまでの良寛の苦渋のほど、屈折のほどは漢詩の中に多く示されている。
 良寛は、自作の漢詩の中で、詩とは心の中のもののおのずからの流露に外ならない、胸奥の露呈のないところに詩はない、と言っている。また良寛はある人に「万葉集をよむべし」「古今集はまだよいが、古今以後は読むにたえない」と言ったという。古今集以下の工夫をこらし、何々を何々になぞらえるといった風雅めいた技巧をこらしている歌にくらべて、万葉の歌は率直におのが心情を述べている、「心中の物」を写している、というのである。
 良寛の歌は、国上山での庵住まいまでの隠者の生活を歌ったものから、山を去り村のはずれの神社境内の草庵に移る前後からのものへと、変化がある。後者では隠者の噛みしめるような孤独の味わいは影をひそめ、かつて歌の背後にほのめいていた人恋しさが堰を切ったように溢れ出ている。人々と融けあい、とくに無邪気な子どもたちの世界に自在に融け込んでいる。しかし彼は人々の中に生活人として入ってきたのではなく、人々のすぐ横で、人々を暖かく見守るような人物として入ってきたのである。
 良寛の歌に見られる愛情に満ちた心というものは、平安朝以来の貴族的な短歌には決して見いだされないものである。万葉集以後、短歌の世界は庶民の心情の世界から隔絶したままで続いてきた。良寛はその創作態度においてのみならず、もっと内容的な意味で万葉的なものに近いものをもっていた。
 良寛はその晩年においてはすぐれて聴覚的、音楽的であった、と唐木順三は言う。良寛の詩のうち最も高いもの、美しいものは、音楽的というより、むしろ律動的、宇宙のリズムともいうべき律動を言句にしたものといってよいと思う、とも言っている。良寛は眼の人ではなく、耳の人だった、その書や歌がリズミカルなのもそこから来ている、音や声や調べや響きに敏感なのもそこから来ている、彼にとっては春夏秋冬のうつりかわりも、飛花も落葉もリズミカルである、そのリズムの交響の中に彼は居る、と。
 芭蕉は乾坤を変においてとらえ、その変を一点でとめて、それを言いとめ、書きとめようとする。他方、良寛においては、乾坤そのものが変であり、その変を変のままに見、聞いている。それを強いて「見とめ」「聞きとめ」ようとはしない、と唐木は言う。

 芭蕉以後、さまざまな「歳時記」が出て今日に及んでいる。便覧に頼るところでは「松のことは松に習へ、竹のことは竹に習へ」ということは薄れるしかないだろう。しかし明治に入って二十年代後半から三十年代にかけて、自然に対して閉ざされていた目を日本人は再び開いた。
 正岡子規の俳句革新は、芭蕉を神格化することによって、俳句の権威を自他に納得させつつ続いてきた宗匠制度による退廃しきった状態へ向けられた。それは俳句評価の基準を他の文学における評価の基準から全く独立に扱ってきた俳句の世界を根本的に修正するものであり、俳壇の伝統的権威に対する挑戦を通じて実現されるしかないものだった。子規は対象に対する自分の印象、感覚、観察、感動によって句をつくるべきことを主張して、実景、実感の写生ということを押し出した。また従来の俳論書などに拘束されずに自分の感受性と判断によって、直接古典に触れることを主張し、そのような立場から従来低く見られていた蕪村への高い評価を行った。芭蕉に対してより以上に蕪村に親近を示したことは、子規の写生の主張が風物や感興の表現を中心としていた事情と照応する。子規の写生は、芭蕉においてのような生命感の燃焼とはかなり性質が違う。
 子規はさらに短歌革新に進み出た。子規は『古今集』に対して激しい批判を浴びせた。『古今集』は「無趣味」な歌、「嘘の趣向」「仰山」の歌が多く、また理屈が勝っていて、つまらないと言う。つまり頭で考えた歌だから駄目だと言うのである。子規の主張は、要するに『古今集』の「思ふ」から『万葉集』の「見る」へ返れ、ということである。彼は当時支配的だった旧短歌の停滞と遊戯性、装飾性を批判しつつ、実朝の歌などのような「直率偽りなき」抒情によって短歌に新しい生命を吹き込むことを要求した。鉄幹の短歌改革にあき足らずみずから短歌改革に進み出たのは、国民の知的部分のうちの地味な生活者たちにありのままの内容で短歌的自己表現に道を拓くことを求めたからであるが、このことが子規の短歌革新の性格を規定している。子規のやや平面的な写生説は、島木赤彦、斎藤茂吉によって次第に深められ、質を変えていった。
 茂吉の写生とは「実相に観入して自然自己一元の生を写す」ことであり、「歌ごころの衝迫にしたがって……表す」ことである。茂吉にとっての写生の対象は作者の外にあるばかりでなく、内にもあるはずだから、どういう種類の歌も含まれてくるだろう。排除されるのは、作者の「歌ごころの衝迫」なく、技巧の勝った歌ということに尽きるわけだ。茂吉自身「予の説は予の内心から出た一家の見で、そして予の作物と離れないものである。そこで作物次第によっては、写生の意味の細かい所などは、どんどん変って来る。それでよい」と言っている。
 子規の写生説は素朴であるが、その素朴な客観的現実尊重は、狭い短歌・俳句の世界を越えて文学全般に及んでいた彼の批評精神と手を携えたものであった。茂吉では短歌だけが問題になり、題材の面での拡大を伴いつつ、短歌的世界への参入沈潜が最大の関心事になってきた。このとき「観入」する「実相」の内容実質、「歌ごころ」そのものの内容実質は問題にならない。茂吉によって短歌の世界は純粋化され、他方で子規の現実的批判的精神は著しく希薄化されたと言える。

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