価値論史におけるスラッファの位置

 リカードの関心が分配論にあったことはよく知られている。リカードは『経済学および課税の原理』(以下『原理』と略記)の序言で「分配を左右する法則を決定することが、経済学における重要問題である。」と言っている。生産物の利潤、賃金、地代への分配が資本蓄積に影響を及ぼし、それが資本制社会の動向を定めるからである。従って分配率を決めるもの――賃金財の価格など――と並んで、分配率の変化によって価格が変動したとき分配の大きさを測定するもの――尺度――が重要になってくるのである。
 アダム・スミスは商品の価値は賃金、利潤、地代を合計することによって決定されるという価値=価格構成説を提唱するに至ったから、賃金の騰落はただちに商品の価値=生産価格に影響することになり、賃金の上昇は一様に諸商品すべての価格の騰貴を伴うであろうと論じた。
 これに対して投下労働価値説に立つリカードは『原理』初版において賃金の上昇は利潤の低下をひき起こすだけ(利潤―賃金の相反関係)だから、諸価格を上げることはないと論じた。ただしこの場合、固定資本を使用する若干の商品は(利潤率の低下の影響で)下がるかもしれない、とも論じていたのである。
 その限りでは資本導入による修正要因――相対価値の変化――は『原理』初版でも論じられていたのであるが、そこでは貨幣産業に固定資本がないと仮定されて賃金上昇の影響は絶対価値――不変の標準で測定された価値――には及ばないと考えられていたのである。
 ところが『原理』第三版で、測定する側の貨幣にも固定資本が導入されると、賃金上昇の影響は測定する側と測定される側との関係にも及ぶことになって、貨幣は尺度として不適である、ということに気づくのである。そして尺度財より少い固定資本を使用した商品の価格は騰貴し、より多く使用した商品の価格は下落する、と論じスミス批判に修正を加えるのである。
 尺度財に価値の変化があっても、それが各商品に一律に影響を及ぼせば、各商品間の相対価値には影響を及ぼさない。しかし尺度財の資本の有機的構成が各商品のそれと異なっていれば、尺度財の価値変化(投下労働量の変化による価値自体の変化や分配率の変化に基づく)は各商品に不均等の影響を与え、諸商品の相対価格および価格水準を変えてしまうのである。
 従って最も理想に近い価値尺度は、資本の有機的構成と回転期間が中位的な商品ということに帰する。この種の商品では、労賃が騰落して一般的利潤率が変動してもその影響をこうむらない。結局リカードは金=貨幣を諸商品の資本構成の平均に近いものとみなして、価値尺度として採用するのであるが、リカードは死の直前まで理想の価値尺度を求め悩み続けるのである。


 スラッファは、リカードの『原理』に先立つ『穀物の低価格が資本の利潤におよぼす影響についての試論』『利潤論』と1814年および15年初期の手紙とに注目し、次のように論じる。〔文献1〕
 その段階でのリカードの基本原理は、「他のあらゆる産業の利潤を調整するものは農業者の利潤である」というものであった。この農業利潤が他のあらゆる産業の利潤を決定するという利潤率決定理論の根拠は、現存する資料からは確定的でないが、スラッファの解釈によれば「穀物比率論」と呼ばれるものである。
 いま単一財たとえば小麦だけの経済を想定してみよう。ここでは資本(投入)も生産物(産出)も剰余(利潤)も小麦であるから、利潤率は利潤を資本で割った率として物的(小麦)タームとして示される。またここでは交換を考えなくてよいから価格は存在しない。次に複数財の経済を考える。ただし小麦をこの経済社会の基礎財と考え、他はすべて奢侈財とする。基礎財は一つ、奢侈財はいくつあってもよいが、たとえば絹織物で代表させる。基礎財は奢侈財の生産に使われるが、奢侈財は基礎財の生産に使われないとする。さて小麦の生産にあたって、資本は種まき用の小麦プラス前払い賃金としての小麦であり、利潤は収穫としての小麦から資本としての小麦を引いたもの、したがって利潤率は利潤(小麦)を資本(小麦)で割ったものとして物的タームとして、他の産業部門を考えずに導かれる。絹織物の価格は、小麦産業の利潤率と同じものとして、小麦を尺度財としてすなわち小麦の価格を1として決定される。
 リカードの穀物モデルは「異質的な諸商品の集合体を一つの共通な標準に還元する方法を採ることなしに、いかにして利潤率が決定されるか」を理解することを可能にした。ここでは、穀物部門で他部門との交換比率(価格)を考えることなしに利潤率が決定され、その利潤率に適合すべく他の生産物の価格――穀物で測った――が決定される。
 しかしもし小麦の生産に他の産業の生産物が入ってくるということになれば、他の商品との交換比率=価格が決まらなければ利潤率が決らなくなってくる。しかし利潤率が決まらなければ、価格が決まらないという循環論法になる。こうしてリカードは現実の経済=多数財の世界を考えるにあたって物的タームではなく価値タームで考えるところに進んだ、というのがスラッファの解釈である。
 こうして、すべての経済諸量は労働量に換算して測定することができ、投入と産出の両者に現われるのは穀物ではなく労働ということになった。その結果として、一特定生産部門という小世界を通じなくても全体としての経済社会における利潤率の決定を証明することが可能となった。賃金財に用いられる商品を生産するのに雇用された労働(投入=賃金財に体化している労働量)をl、雇用された総労働(産出=粗生産物に体化している労働量)をL、利潤率をrとすると、
 利潤率=利潤/資本で、利潤は粗生産物-賃金財、資本を前貸し賃金財と考えると
 r=(L-l)/l
で表わせ、価格と関係なく決定される。諸商品は労働費用――賃金率×労働量――と利潤率による利潤を合わせた価格に調整される。
 しかしリカードは価値をめぐる上記の難問に向き合わされることになる。


 リカードを悩ませた賃金変化による相対価格変動のメカニズムを、次のような単純例で見てみよう。(数字例は、ミーク〔文献2〕による)
 産業  費消された生産手段の価値 賃金    生産物価格    〔表1〕
 A      800  +   200    =1000
 B      600  +   400    =1000
 C      200  +   800    =1000

 産業  費消された生産手段の価値 賃金 利潤 生産物価格    〔表2〕
 A      800  +   100+200=1100
 B      600  +   200+150= 950
 C      200  +   400+  50= 650
 三つの産業A、B、Cがある。労働と生産手段(ストック)の割合は各産業でそれぞれ異なっており、費消された生産手段の価値(フロー)に対する賃金支払額の比率も異なっている。
 まず賃金が純生産物を吸収し尽し、利潤がゼロの状態から出発しよう。資本主義以前の状態である。最終生産物の価格は、どの場合も1000である。〔表1〕
 次に資本家階級が登場し、従って利潤が発生し、労働者とともに純生産物を分けあう場合に進もう。賃金が半分だけ減少し、その結果、利潤は費消された生産手段の価値に対して25%の平均率を与える水準にまで上昇するとする。このとき各商品の価格は、充用生産手段の価値(最初の水準のままと仮定する)プラス賃金(半分切下げ)プラス利潤(費消された生産手段の価値に対して25%)から成り、それぞれ1100、950、650となる。〔表2〕
 すなわち三つの商品の価格は最初の状態から変化しなければならない。もし変化しないならば、A産業は100の賃金を支払った後、残りは100しかないことになって、利潤200を払い切ることができない。100の「欠損」が生じることになる。B産業は200の賃金を支払った後、利潤150を支払ってなお50の「剰余」がある。同様にC産業は350の「剰余」。全産業共通の賃金率で賃金を支払い、均一の利潤率での利潤を受け取るためには、各商品の相対価格が変化しなければならないのである。
 このように賃金が変化した場合、三つの商品の相対価格が変化するのはもっぱら労働と生産手段との割合が三つの産業で異なっているからである。これらの割合が各産業で同一であるならば、相対価格は以前の水準から変化しない。〔註〕
〔註 たとえば次のようなケース。
A 400+800=1200     A 400+400+100=900
B 300+600= 900   → B 300+300+  75=675
C 200+400= 600     C 200+200+  50=450
 費消された生産手段の価値に対する賃金比率はすべて1:2。三つの商品の価格の比は1200:900:600=4:3:2となっている。いま賃金が半分だけ減少し、その結果、利潤率がゼロから25%に上昇したとすれば、表のように各商品の価格の比は900:675:450=4:3:2と変化しない。〕
 では上の例から、賃金が下落したとき価格がどうなるかについての単純な一般的原則を引き出すことができるだろうか。A産業のように生産手段に対する労働の割合が比較的低いものの価格は上昇し、その逆は逆、と言えるだろうか。
 投入から産出へという一方向の流れだけを考えるのであればそう言える。ところがある産業の生産物が他産業の生産手段となって再び生産過程に入っていくという循環的な流れを考えるとき、この生産手段が生産されたときの生産手段と労働の割合も考えなければならず、さらにその生産手段が生産されたときの割合も考えなければならず……以下同様となり、生産手段の価値一定という仮定をはずさなければならなくなって、価格の上下は一義的に言えなくなる。
 ここで生産手段の最初の価格に基づいて賃金引下げによって浮く額が、一般率での利潤の支払いに必要な額をちょうど与えるような割合で労働と生産手段とを充用する産業が存在するとしよう。すなわち「欠損」も「剰余」もない「分水嶺」にある産業である。そしてこの産業が充用する生産手段それ自身も同じ割合で結合された労働と生産手段とによって生産され……以下同様とする。
 このような産業の生産条件には、賃金が上昇したり下落したりしたときに、その生産物の価値を他のどんな商品に対しても上昇させたり下落させたりするものが全く存在しない。また、このような商品の価値は、それ自身の生産手段の価値との割合においても決して変化しないであろう。なぜなら仮定によって、そうした生産手段の生産の場合にも同じ割合が適用され、以下ずっと同様だからである。〔註〕
〔註〕
 数字例で見てみよう。
   生産手段  賃金   利潤  生産物
   800 +200     =1000
(1)800 +100 +100=1000
(2)800 +  50 +150=1000
 この産業は生産物価値不変1000のまま、(1)賃金200から100へ低下しようが、(2)50に低下しようが、純生産物(利潤プラス賃金)の価値とそれの生産手段との比率が同一のまま(200/800)である。(1)では浮いた額100を平均利潤率12.5%(100/800×100)を満たすように利潤を支払い、(2)では浮いた額150を18.5%(150/800×100)を満たすように利潤を支払う。
 純生産物と生産手段とのこの同一の比率は、賃金ゼロ(すなわち利潤200)のとき経済全体にわたって支配的となる平均利潤率(200/800×100=25%――スラッファの極大利潤率――)に等しくなる。〕
 このような産業こそ、リカードの不変の価値尺度たるべき商品が生産される条件を満たすものである。しかし、現実の経済においてそれを探すのは不可能である。スラッファは「近似的にさえ……発見できそうにはおもわれない」と言う。しかしスラッファは、諸産業の混合体でも役に立つ、と考える。賃金のどのような変化に直面しても純生産物と生産手段との比率が不変のままであるような一種の合成産業を現実の経済から抽出できればよい、と。


 スラッファの解法は価値タームから物的タームに戻ることであった〔文献3〕。
 スラッファはすべての商品の生産に入る商品を「基礎商品」、それ以外の商品を「非基礎商品」と定義する。これはそれぞれリカード穀物モデルの基礎財=小麦と奢侈財に対応しているが、リカードでは穀物は唯一の基礎商品であるが、スラッファは基礎商品を一つではなく多数財とし、各財が相互に他財の生産に入り込む体系を構成した上で、多数財でありながらあたかも単一財の世界であるかのように工夫を施した。「基礎商品」のみから構成された「基礎体系」において、このような操作を経て再構成されたものが「標準体系」であり、そこで産出される合成商品が「標準商品」である。
 奢侈財はこの世界の産出物を使用するが、この世界の生産には入っていかない。この世界で決った利潤率が奢侈財を含んだ経済全体(現実体系)に均一となり、多数基礎財の合成による単一財のごとき「標準商品」を価値尺度としてすべての価格が決ってくる。スラッファはリカードの不変の価値尺度のもつ理論的含意を徹底的に追求し、「標準商品」を析出した。スラッファの標準商品も、リカード穀物モデルの小麦同様、利潤率の変化が引き起こす諸価格の変化とは無関係な価値尺度なのである。この商品を尺度とすると、賃金率や利潤率――分配率――が変化したとき相対価格が変化して集計量としての国民所得の価値額が変化しても、利潤と賃金の相反関係を確定することができる。
 スラッファの工夫を、生産条件が次のような二商品経済で見てみよう。
産業      投入側              産出側
小麦  375クオーターの小麦+6トンの鉄→750クオーターの小麦
鉄   300クオーターの小麦+24トンの鉄→40トンの鉄
    675         30
 この経済の剰余は鉄10トン(40マイナス30)と小麦75クオーター(750マイナス675)から成っている。いま小麦産業の2/3と鉄産業の1/2を切り離し、この二つが一緒になって一種の合成産業を構成するものとして扱うことにしよう。この合成産業の生産条件は次のとおりである。
375×2/3クオーターの小麦+6×2/3トンの鉄→750×2/3クオーターの小麦
300×1/2クオーターの小麦+24×1/2トンの鉄→40×1/2トンの鉄
  400             16
 剰余は4トン(20マイナス16)の鉄プラス100クオーター(500マイナス400)の小麦から成り、生産手段は16トンの鉄プラス400クオーターの小麦から成っている。従って純生産物の生産手段に対する比率は
純生産物= 4トンの鉄+100クオーターの小麦
生産手段  16トンの鉄+400クオーターの小麦
 この比率の分子と分母は、同じ割合で結合された同じ二商品の数量――ともに鉄:小麦=1:25――から成っている。これは価格という共通の尺度に還元する必要なしに、二組のあいだの比率について、物的比率として語り得ることを意味する。二つの商品の価格がどのようなものであろうと、この比率は同じままである。すなわちたとえ賃金が変化しそれに続いて価格が変化したとしても、この合成産業の純生産物の価値とその生産手段の価値との比率は必ず不変にとどまるであろう。
 これは二商品経済でありながら、事実上小麦と鉄との一定割合でつくられた合成商品という単一商品経済を取り扱うのと同じことである。
 この結果が得られたのは、乗数として選んだ分数――ここでは2/3と1/2――が、この体系において二商品の生産される割合(産出側――鉄20:小麦500)とその二商品が総生産手段に入り込む割合(投入側――鉄16:小麦400)とが同じであるように、巧妙に選ばれていたからである。〔註〕純生産物と生産手段との比率の分子と分母が、同じ割合で組み合わされた同じ二商品の数量から構成されることになり、従ってこの比率が価格変化とは無関係に必ず不変にとどまるのは、選ばれた乗数としての分数がこの特別な体系をわれわれに与えるようなものであったからにすぎない。
〔註 乗数の導出は以下のようである。
小麦、鉄の二産業のこの例で、小麦部門への乗数をa、鉄部門への乗数をbとする。これらは標準体系が次のような性質を有するように、現実体系を変換させなければならない。すなわち粗生産物中の商品n(ここではn=1、2)の量が(1+R)――Rは純生産物の生産手段に対する比率――と集計された生産手段の中の商品nの量の積に等しいことであ
る。ここの例では
a×750=(1+R)(a×375+b×300)
b×40=(1+R)(a×6+b×24)
この二つの方程式は三つの未知数a、b、Rを含んでいる。標準体系が現実体系と同一の労働量を用いるという制約によって、変換された労働投入量が合計して1となる式を加えると、a、b、Rの値が決定される。〕
 標準体系では、標準商品によって標準商品が作り出されていることになる。この標準商品の価格は、各商品による物的構成比率が変わらないのだから分配関係が変化しても影響を受けない。
 標準体系においては、各商品の「生産された数量が使い果たされた数量を超過する剰余」の「使い果たされた数量」に対する比率、すなわち剰余率が各商品について同じである。これはまた標準体系の生産手段に対する純生産物の比率である。これを標準比率――Rで表す――と呼ぶ。これは物的剰余率であって、各商品の価格がどうあれ、どのように変動しようと、一定である。
 賃金が変化するとき、標準体系(標準産業)の利潤率がどうなるかを見てみよう。賃金を標準純生産物で表し、標準純生産物のうち賃金に振り当てられる割合をwとすれば、rとwの間には次のような線型の関係式があてはまる。
 r=R(1-w)
 なぜなら、
 利潤率=利潤/生産手段=(標準純生産物-賃金)/生産手段
=標準純生産物/生産手段×(1-賃金/標準純生産物)
 この式の意味するものは、標準体系の利潤率rはwの値に反比例しRの値に正比例するということである。このw-r関係はrを横軸、wを縦軸とした図(図1)で表せば直線となり、wは標準純生産物(標準体系での剰余)がすべて賃金となる最大値1から、標準純生産物がすべて利潤となる0へ――rは0から最大値Rへ――変化する。ここで与えられる物的剰余率Rは、極大利潤率を表している。賃金がゼロなら、剰余はすべて利潤となるわけで、そのとき利潤は極大になる。標準商品以外のものが賃金の尺度として用いられれば、利潤率の変化が価格を変えてしまい、w-r関係は直線にならない。(逆に言えば、現実体系において上記の線型の関係式が成り立つことを条件とすれば、このとき現実体系は標準商品を価値尺度としていることになるのである。)
 スラッファは賃金と利潤とのあいだのこの関係は標準体系に限られるわけではなく、現実の体系にまで拡張しうると主張する。
 というのは、現実の体系は「標準体系」と同じ基本方程式から成っており、ただその割合が違うだけだからである。Rは現実体系と標準体系で共通している。標準体系は現実体系を拡大縮小したものだからその総剰余の総生産手段に対する比は――それぞれの量ではない――もとの現実体系のものと等しい。賃金、利潤率、諸価格も標準商品で表される限り同一である。こうして経済全体にわたる利潤率は、R――標準体系における純生産物と生産手段との比率であり、賃金ゼロのときの経済全体の平均利潤率たる極大利潤率に等しい――とw――標準体系の純生産物のうち賃金になるものの割合――がわかればただちに決定される。
 上の式と現実体系の連立諸式を連立させれば、賃金の分け前が標準商品の割合として外生的に決められると、諸価格から独立して合成商品の物的数量間の比率として、利潤率rが決まる。こうして決まったrを所与として、現実体系の諸式に基づいて、諸価格が決まる。
 スラッファのこの標準体系が初期リカードの穀物単一財世界に照応するものであるのは明らかだろう。リカードの穀物比率論では、利潤率は穀物量の比率として物的タームで――価格を考慮することなく――決まった。他の部門――奢侈財――の価格は、その利潤率と同一利潤率となるように決まる。スラッファでは体系全体の利潤率は、基礎財のみから成る標準体系で決まり、その他の非基礎財部門は利潤率の決定には何の役割も果たさず、標準体系で決まった利潤率に調整されてその価格が決まるのである。
 『原理』において、投下労働量に換算して経済諸量を測定する方向に進んだリカードは、分配と価格、価値尺度のあいだのめんどうな問題に悩まされることとなったが、リカードが求めようとして果たせなかった不変の価値尺度を、スラッファは穀物モデルの再解釈を通して合成商品として構築するのである。その産業は投入物と産出物が同質であるという、複数財でありながら単一財世界がもつ性質――価格を考慮することなく物的比率として利潤率が導ける――を有している。


 マルクス価値論の難点とされる「価値と価格の乖離」あるいは「価値の価格への転形」問題〔註〕は、リカードの「不変の価値尺度」の探求の違った表現である。すべての産業の資本構成が均一でないかぎり、均一利潤率のもとで価値と価格は一致しないし(マルクス)、また資本構成が均一でないとき、分配率の変化は相対価格および価格水準を変化させ、利潤―賃金の分配の大きさの変化を確定することができなくなる(リカード)。
 〔註 マルクスは、価値をそのまま産出物に移すだけの資本財(過去の労働)と自らの価値以上の価値(剰余価値)を産出物に加える労働(生きた労働)を区別し、差額としての剰余=利潤を「搾取」とした。利潤獲得を目的として生産が行われる成熟した資本主義社会では、競争の結果社会全体に均一の利潤率が成立する。すると同じ大きさの資本には同じ利潤額が発生することになる。マルクスに従えば、投下される資本の大きさが同じなら、生きた労働(可変資本)の割合が大きな生産者はその割合が小さな生産者より獲得すべき利潤(剰余価値)が大きいはずなのに、同じ利潤額しか受け取れないことになる。すなわち市場で長期的に成立する「生産価格」はマルクスが規定する「価値」から乖離することになる。この価値が市場で成立すると想定された生産価格と一致しない事実は「価値と価格の乖離」として論難されることになった。〕
 『資本論』第三巻において、マルクスはまず諸商品のどれ一つとして他のどの商品の生産にも入りこまないという仮定を置き、計算例を示している。このとき生産価格は価値とは相違しているが、しかし利潤全体は、定義によって剰余価値全体に等しいのであるから、生産価格の総額は価値の総額に等しいことになる、すなわち価格の価値からの乖離は全体としては相殺されるということになる、というのがマルクスの論旨である。
 次に、もしこの当該商品がどれも他のどの商品の生産にも入りこまないという仮定が省かれ、従って投入物の価値も産出物の価値も同様に生産価格に転化されなければならない場合に、剰余価値のプールの再分配を基礎にして行われる転化は総価値に等しい総価格をもたらすであろうか。しかしこの点についての議論をマルクスは途中で打ち切ってしまっている。いわゆる転化(転形)問題が発生するのがここである。
 1940年代終わり頃から50年代にかけてのいわゆる転形問題論争は、リカードの悩んだ問題が一蹴されるにすぎないものでなかったことを印象づけることになった。ドイツの統計経済学者ボルトキェヴィチの論文『「資本論」第三巻におけるマルクスの基本的理論構造の修正について』がスウィージーによって取り上げられ、これを契機にひき起こされた論争は、一般にマルクスの二つの総計一致命題――総生産価格=総価値および総利潤=総剰余価値――が同時に成り立たないことを明らかにしたのである。しかしこの論争で、もっと重要なことは賃金財の生産条件だけから均一利潤率が導かれるということが明らかになったことであり、このことがスラッファの標準体系を導出するにあたって与えた影響は大きいはずである。スラッファの標準体系は直接間接に賃金財生産に与る体系のことであるからである。
 さて、価値が価格に転化される場合、価格の価値に対する比率は、ある与えられた商品が投入物として考察される場合も、それが産出物として考察される場合も同じでなければならない。そして転化の後には、利潤率は、当該資本の各々の場合において等しくならなければならない。価格の価値に対するこうした比率と、利潤率とは、主要な未知数とみなされる。
 この論争でいわば基本モデルとして用いられることになったボルトキェヴィチ=スウィージーでは、(1)生産手段生産部門、(2)賃金財=労働者の消費財生産部門、(3)奢侈財=資本家の消費財生産部門、の三つの部門から成る表式を使用する。そして、各部門の価格の価値からの偏倚率三つと利潤率を未知数として、単純再生産の諸条件を価値および価格タームで表す。ここで貨幣商品金が奢侈財部門で生産されるものとして、金を含めすべての奢侈財の単位価格を1に等しいとする。すなわち価値・価格双方の体系が貨幣表現でなされるものとすると、第三部門の偏倚率が未知数から外れて、方程式体系を解くことができる。
 ここで解かれた数値を用いて再生産表式を作ると、単純再生産の均衡は保たれるが、総価格は総価値と一般に一致しない。問題は、価格への転形が行われる前の社会全体の資本の有機的構成と産金業――尺度財生産部門――におけるそれとの関係にかかっている。
 もしも産金業における資本の有機的構成が相対的に高ければ、金の価格はその価値より高い。これは、価格計算において利潤は総資本に比例しているのに、価値計算においてはそれが可変資本にだけ比例するという事実からくる。従って他のすべての商品が金で表されるとすれば、それらの商品の総価格は総価値よりも小でなければならない。逆の場合は逆である。産金業における資本の有機的構成が、社会的に平均的な資本の有機的構成に正確に等しいという特殊な場合だけ、総価格と総価値とは一致することになる。
 しかしスウィージーはこの不一致は単に計算単位の問題で重要ではないとする。スウィージーが注目するのはむしろ次のことである。利潤率を表す式を導いたとき、そこに第3部門を構成する要因が一つも含まれないということ、これである。このことは、利潤率は実質賃金をなすものに直接(第2部門)間接(第1部門)に参与する産業においてみられる生産諸条件にのみ依存する、ということを意味する。これはリカードの利潤論に通じている。〔文献4〕
 ドッブもまたボルトキェヴィチが、利潤率は、それぞれ資本財および賃金財を生産している部門での生産条件(とくに、剰余価値率を所与とすれば、資本構成)にもっぱら依存する、すなわち資本家の消費用の奢侈品を生産する第三部門の状況は利潤率には関係をもたないことを示した点を挙げ、ボルトキェヴィチのスラッファおよびリカードとの近縁性を指摘している。〔文献5、6〕
 また、転形の過程において価格水準がどのように影響されるかは、金(貨幣商品)の生産条件をどのように前提するかにかかっているが、ドッブは、スウィージー同様、前提の違いは形式的なもので、価格と労働価値を結びつける「ニュメレール」をうち立てる方法としてのみ意味をもつ、としている。
 ボルトキェヴィチは転形問題をドミトリエフの方程式体系を援用して処理したが、この、前世紀の変わり目に生き、長くほとんど無名であったロシアの経済学者についても、ドッブは注目を示し、スラッファとの近縁性を指摘している。〔文献6〕
 ウィンターニッツは、再生産表式の均衡条件を仮定するかわりに、各部門の産出物の価値と価格の乖離率と投入側のそれを等しいと仮定して方程式体系を導く。次に価格水準を決定するために、ボルトキェヴィチ=スウィージーが金価格を1と置くことで価値表式と価格表式を貨幣で連結したのに対し、両表式を労働時間で連結して、価格総額=価値総額と置いている。すると総利潤は普通には総剰余価値から背離していることがわかるのである。〔文献7〕
 転形問題論争は、産出された商品が再び投入される循環を考えれば、マルクスの解法は不十分であることを最終的に明らかにした。ドッブは、転形問題は「適切なニュメレール(尺度財)の選択の問題にすぎない」〔文献5〕として、スラッファの解法を支持している〔文献7〕。
 スラッファは言う。「リカードは、同一量の労働によって生産される二つの商品がなぜ同一の交換価値をもたないか、という問題それ自体のために、関心をもったのではない。彼がこの問題にかかわったのは、たんに、そのことのために相対価値が賃金の変動によって影響をうける程度だけについてであった。……リカード体系の中心にある価値の不変的尺度の研究は、もっぱら後者から発生している……」〔文献3〕と。リカードにとっての「不変の価値尺度」の「不変」とは、賃金の騰落があっても(すなわち分配率の変化があっても)それ自体の価値において不変である、という意味である――そうスラッファは解釈する。
 リカードは、賃金単位――労働単位当たりの貨幣賃金――で商品の価値の大きさを測る、すなわち何単位の労働を支配しうるかで商品の価値を測る支配労働説と価値構成説とに強く反対した。しかしスラッファは不変の価値尺度たる標準商品の単位はそれによって購買される労働量に置き換えうる、すなわち支配労働量で表現してもよい、と述べている。このことは、価値「原因」としての投下労働説を採らなくても、不変の価値「尺度」によって利潤率と賃金率の相反関係が確定されれば、リカードの問題は解決されたことになるということを意味していよう〔文献3〕。支配労働説では分配率の変化が価格に与える影響を考慮しなくてすむから、リカード・マルクス問題は発生しない。
 市場において貨幣の尺度機能が近似的に働いていることは経験的事実であるが、スラッファでは市場価格は考察の対象外にある。またスラッファの生産価格論においては剰余が「生きた労働」から発生するのか、「対象化された労働」から発生するのかは問題とされていない。マルクスの時代には絶対的剰余価値が問題であったが、現代資本主義では相対的剰余価値の生産が前面に出る。「対象化された労働」すなわち不変資本が剰余価値の生産に関与すると考えておかしくない。マルクスの搾取説は後退することになるが、人間がまったく労働しなくなるおとぎの国ならともかく価値を作り出すのは永遠に人間労働なのである。
 すべての商品が商品によって生産されるスラッファの標準体系でも、すべての商品は労働によって生み出されることになっている。パシネッティの命名に倣えば、限界革命後の新古典派主流派の「純粋交換モデルまたは純粋選好モデル」とは対立する「純粋生産モデルまたは純粋労働モデル」なのであり〔文献8〕、イギリス古典派、マルクスと陣営を共にするのである。


 マルクスでは経済全体の平均利潤率は、「社会的平均」を代表する生産諸条件を有する産業を想定すれば、そこでの剰余価値と生産手段との比率によって決定される、と言うことができる。
 賃金後払いとしたスラッファ最終モデルと比較対応させるため、剰余価値を生産手段のみに関連させて利潤率を導くとすると
 利潤率=利潤/生産手段=純生産物/生産手段×(1-賃金/純生産物)
であるが、社会全体の平均利潤率=代表産業の利潤率であるとすると
 利潤率=代表産業の純生産物に対象化された労働/その生産手段に対象化された労働
   ×(1-代表産業の純生産物のうち賃金となる部分の割合)
と表わすことができる。
 こうした関係とスラッファのr=R(1-w)で表わされているそれとの間の近似性は非常に著しいものがある、とミークは言う〔文献2〕。なぜなら、スラッファのRは、「標準産業」の純生産物と生産手段との比率で表わされているけれども、それは事実上「標準産業」の純生産物に対象化された労働とその生産手段に対象化された労働の比率に等しいからである。
 スラッファは、マルクスが平均利潤率と「資本の平均的な有機的構成を有する産業」の生産諸条件との間に仮定していたのと全く同じ関係を、平均利潤率と「標準産業」の生産諸条件との間に仮定しているのである。両者は、賃金が与えられれば、平均利潤率は経済全体にわたって支配的な生産諸条件の一種の「平均」を表す生産諸条件を有する産業における純生産物(直接労働)と生産手段(間接労働)との比率によって左右されることを示している。
 しかしマルクスは、賃金の変化が「平均」産業における充用生産手段の価格に及ぼすはずの影響を捨象してしまっていた。マルクスは価値から生産価格への転形問題を処理するに当たり、産出側を価格タームで表示し直したものの、投入側は依然として価値タームのままに残したのである。
 スラッファは、生産価格に転形された産出物は再び投入物として循環することを前面に出し、生産手段として再投入された産出物を生産した工程の生産条件を同様のものとし、以下どこまでも同様であると仮定することによって、マルクスの暫定的処理を乗り超えようとしている。マルクスの「資本の平均的な有機的構成」を有する産業のかわりに「標準産業」をもってくるなら、賃金の変化が生産手段に及ぼす影響を捨象することなしに同一の結論に達し得ることをそれは示している。
 またマルクスの生産価格論では、産出側の諸商品は最終生産物とみなされ、それら諸部門を関係づける中間生産物=投入物の相互補填の問題は捨象されている。そこでの生産条件は、資本の有機的構成のみにしぼられている。他方スラッファでは、部門間での生産手段の相互補填の関係が明確に組み入れられている。商品Aの生産に商品B……が投入され、Bの生産にA……が投入されるという、諸商品の投入と産出の連関が示され、こうした投入と産出の網目を通じて、どの商品の価格もその生産の中だけでは決まらず、他の商品の生産との関係において決まることになるのである。(スラッファは、「生産費」ではなく「価値」または「価格」というタームを使用する理由として、生産における相互依存の関係を挙げている。)
 総計一致の命題がスラッファの「標準体系」においては完全に妥当することが、パシネッティによって論証されている〔文献9〕。マルクスの生産価格が価値の再調整されたものであるのに対して、スラッファやパシネッティの生産価格は物的尺度財によって評価されたものにとどまり、価値と対比すること自体に異議が出されるかもしれない。ともあれ、スラッファの標準体系が厳しい条件に規定されていることを考えたとき、各部門の資本の有機的構成が均一の場合、あるいはサムエルソンのように要素価格フロンティアが直線になる場合(後出)を仮定しなければ、現実には総計一致はあり得ないことになるとは言えるだろう。


 スラッファの『商品による商品の生産』は「経済理論批判」の副題をもっているが、この「経済理論」とは新古典派の限界分析を指している。
 価値を市場において長期的に成立する自然価格(生産価格)として論じたイギリス古典派はまたマクロ分析中心でもあった。リカードは資本蓄積に伴う利潤―賃金の巨視的分配に関心をもち、したがって分配係数(利潤率・賃金率)の変化によって巨視的分配量・比率が確定できなくなることは、困った事態なのであって、彼の「不変の価値尺度」探求はそこから来ていた。
 新古典派の選択理論・限界分析は本質的に実物的で、ミクロ・短期の性格をもっている。そして長期化・マクロ化については、新古典派は集計の問題を形式的に処理することで済ましていたと言える。労働を記号Lに置き換え、資本を記号Kに置き換えると、あとは形式的な数学的処理に進む。
 ケンブリッジ資本論争と言われるものは、ジョーン・ロビンソンが論文「資本理論と生産関数」〔文献10〕において、新古典派理論の集計的生産関数に現われる「資本」という変数のもつ曖昧な性格に不満を表明したことに端を発する。
 両陣営――イギリス・ケンブリッジとアメリカ・ケンブリッジ――の資本観には次のような基本的な対照が存在している。
 (1)古典派経済学は資本を〈前貸された貨幣〉として考えるが、他方新古典派経済学は〈機械や原料等の実物表示〉として考えるのが普通である。イギリスケンブリッジ側――スラッファの影響の下にあるケインズ派――は前者の継承の上に、後者を継承するアメリカケンブリッジ側――ロビンソンの命名によれば新・新古典派――と対立していると言ってよいだろう。資本を資本財としてとらえれば、生産過程で生産を担う一要素と限定して考えることができる。これに対しロビンソンは資本制経済では資本は私有された資産であり、資本財としての把握は資本を全体として把握するものとならない、と考えるのである。
 (2)資本を資本財として考える立場から新古典派はその生産への貢献度(限界生産力)によって利子(利潤)が支払われると考える。労働や資本といった生産要素への報酬すなわち分配は、こうして限界理論に基づく価格理論の一部となる。これに対して古典派の伝統は分配を階級的分配としてとらえ、論理的に価格に先行するものと考える。すなわち賃金や利子が歴史的、政治的、社会的理由に基づいて決まり、その分配率に規定されて価格が決まる。分配は価格に先行する。これがスラッファを含め、ロビンソンらイギリスケンブリッジ派に受け継がれているのである。
 (3)資本財として資本を考え、限界生産力説によって利子(利潤)決定を導く新古典派にあっては、資本の大きさ=量があらかじめ決まっていなければならない。資本の量、他の生産要素の量、要素間の代替関係――生産関数――がわかれば、資本という要素の価格=利子率および利子分配分が決定される。
 (4)新古典派では生産手段の可塑性が前提されている。すなわち生産手段は特定の用途に固定されることなく、そのときどきの条件に応じて、一つの用途から他の用途に自由に、費用も時間もかけずに転用できる。したがって新古典派では投資という概念はほとんど無視されている。投資は固定的な生産要素の蓄積を意味するが、可塑性の前提の下では、経済主体は、将来生産要素が必要となったときに市場を通じて調達すればよいので、事前に蓄積しておく必要はないからだ。
 さて前述のように新古典派は労働をLに置き換え、資本をKに置き換えると、あとは形式的な数学的処理に進む。労働については、標準労働を措定して、複雑労働や強化労働をその何単位というかたちで評価することができる。しかし資本は何をもって一単位とするのであろうか。異質な多数財から成る資本をどうやって集計するのか。これがロビンソンの批判である。
 スワンは一つですべての目的を達成する財――組み立て細工の材料――のモデルを提示した。ここでは資本はそれ自身の単位で測定することができる〔文献11〕。またこの財は可塑性をもっているので何にでも姿を変えることができ、この世界では期待が裏切られることがなくなり、完全予見が常に成り立つ。ロビンソンは後に、新古典派との論争が「不確実性のない」前ケインズ的世界すなわち「時間」のない世界に戻ってしまうというより大事な問題を、「資本の可測性」にかんする論争にすりかえてしまったと、回顧している〔文献12〕。
 さてロビンソンの引き続く執拗な批判に対して、新古典派は結局資本は価値で定義する以外にないことを認めることになるのである〔文献13〕。ロビンソンは「労働時間=標準労働」を単位として、懐妊期間と耐久期間にわたる利子の作用を考慮したものを資本の価値と言っている。この資本の価値(貨幣表示)を賃金単位で除すれば何単位の「労働時間=標準労働」を支配できるかがわかる。すなわち支配労働説を採っているわけである。
 こうして資本を価値で評価・集計することになると、新古典派流の「行儀のよい生産関数」は導かれないとロビンソンは主張する。価値として資本を考えたとき、ロビンソンは新古典派の命題に反する「奇妙な事例」につき当たるという経験を得ていた。これは分配係数(利潤率・賃金率)の変化が、懐妊期間と耐久期間が一定であっても、資本の価値を変えてしまうからである。当時新古典派の人たちによって主張されていた命題は、利潤率の低下(上昇)が資本労働比率の上昇(低下)をもたらすということであったが、ロビンソンはこの主張に反する事態が起こりうることを示したのである〔文献14〕。
 ロビンソンの事例は、所与の(一つの)生産方法のもとで生じる資本価値評価変更の事例であるが、スラッファが『商品』で論じた分配率の変化による生産方法選択の再転換(二重転換)の可能性をめぐっていわゆるケンブリッジ資本論争はそのクライマックスを迎えることになる。
 「再転換」あるいは「二重転換」と言われるものは、二つ以上の生産方法があるとき、一つの同じ生産方法が、二つ以上の互いに離れた利潤率のところで収益性がすべての生産方法中最大となり、利潤率の中間のところでは別の生産方法が収益性最大になることに示される。二重転換が起こる理由は、商品生産の費用と価格は労働投入とそれ以前の労働投入(機械、原料)からなっているが、資本の構成が均等でない場合、利潤率の変化の価格に及ぼす影響はこれらの労働投入の配分の仕方によって複雑になるからである。
 横軸に利子率r、縦軸に一人当たり消費財産出量qと賃金wをとった図2〔註〕で、横軸を右から左に移動する、すなわち利子率が次第に低くなっていくとしよう。r2より大きい利子率のところでは、生産方法bの方が収益性が高い。r2のところでは、二つの生産方法a、bの収益性は等しい。そしてr2 とr1の間では、生産方法aの収益性の方が高い。r1のところで二つの生産方法の収益性は再び等しく、r1より小さい値のところでは生産方法bの収益性の方が高い。すなわち、ここで「元に戻る」あるいは「再転換する」のである。
 二重転換が起こる理由は、スラッファの「日付のある労働への還元」によって明らかになる。
 あるひとつの商品の費用と価格は、時間的に過去に遡って伸びている生産諸段階の垂直的系列を合計したものであり、その生産諸段階のそれぞれは、労働投入プラスいくつか前の段階の生産物である商品の投入(機械、原料、部品)から成っている。そしてそのそれぞれは、その垂直的系列のなかでの日付のついた労働投入をもっているわけである。利潤率(利子率)の価格に及ぼす影響は、これらの労働項が時間的にどのように配分されているかの仕方にかかっている。
 いま、その労働投入のすべて(または殆んど)がある中間的な日付で投入されている商品(たとえばブドー酒)と、もうひとつ非常に遠い日付の労働を若干含むが、その大部分はきわめて最近の日付の労働から成っている商品(たとえば古いカシの木で作ったタンス)があるとする。
 この場合、後者の商品の方は利子と賃金が中間的な水準にある場合には価格上の有利さをもつが、前者の方は、利子率が非常に高水準の場合(それに伴って賃金は低い)と、また利子率が非常に低い場合(それに伴って賃金は高い)とで、ともに価格的有利さをもち選択される、ということがあり得る。
 こうなる理由は、非常に遠い日付と中間的な日付の投入との比較的費用に対して及ぼす利子率変化の複合的作用が、異なったものでありうるためである。〔文献3、6〕
 サムエルソンはジェリー状の資本を仮定しなくても、無数の異質資本の要素価格フロンティアの包括線を考えることによってロビンソンらの批判に反論できると考えた。ある生産方法を構成する各活動について、労働に対する物的資本投入率をみな等しいと仮定すれば、相対価格が利潤率から独立となり、従って資本の価値もrから独立となって、w―r関係は直線となる。〔文献13〕
 直線で表される複数の生産方法が互いに交わるとき、これらの交点においては同等の収益性を示す。rが小さくなるにつれて他の方法に取って代られるが、ひとたび消え去った方法は二度と現われることはない(二重転換の否定)。w―r関係が各々直線であれば、二つの直線が二度交わることはないからである。(図3)〔註〕
 バドゥリはサムエルソンの論文における仮定が、マルクスの『資本論』一・二巻における仮定――各生産方法ごとに、すべての生産過程が等しい資本の有機的構成をもつ――に近いことを示した。〔文献15〕
 二重転換が発生しないためには、スラッファの「標準商品」を尺度とするか、諸産業の資本構成を均等とするしかない。その場合はw-r(賃金率―利潤率)曲線が直線になる。サムエルソン・モデルの要素価格フロンティア(スラッファのw-r曲線)が直線になるのは、産業全体の資本の有機的構成が均一と前提されていたことによる――その場合はリカード・マルクス的難問は発生しない――と判明し、サムエルソン自ら敗北宣言を出すに至ったのは、マルクス否定者として自認するサムエルソンにとって皮肉と言えよう〔文献16、17、18〕。
〔註〕
  図2・3において、生産方法に関するw―r関係が原点に対して直線となるのを(1)中立的価格ウィクセル効果、原点に対して凹となるのを(2)負のウィクセル効果、凸になるのを(3)正のウィクセル効果と呼ぶ。一人当たり消費財単位の資本価値をkとするとk=(q-w)/rであるから、kの大きさは線上の各点の座標のtan.で表せ、利子率が低くなるにつれて(1)では変化せず、(2)では小さく、(3)では大きくなる。
 この「価格ウィクセル効果」は、生産方法が変わらないときのw―rの変化による資本価値の変化に関しているが、他方「実質ウィクセル効果」は、生産方法が複数あるとき、w―rの変化によって生じる転換点に近いところにおける資本価値の差を表すもので、これによって生産方法(技術)転換が生じる理由が示されうる。(図2は直線と凹曲線の組み合わせの例)
 正の実質ウィクセル効果というのは、利潤率が転換点の水準よりも少し低くなったときに、一人当り産出量が大きく、従って転換点における一人当り資本の価値が大きい方の生産方法への転換が生じる効果である。(負の実質ウィクセル効果は逆)
 図2で、生産方法bが利子率r1では生産方法aと等しい収益性をもつが、利子率がr1より低いと、生産方法aよりも高い収益性をもつ。なぜなら、そこでは生産方法bに対応する資本の価値kbは、生産方法aに対応する資本の価値kaを超えることになる(kb=(qb-w1)/r1>ka=(qa-W1)/r1である)から。〕


 スラッファのn個の財による生産価格体系は、方程式と未知数の数が一致したところで解が得られるという点で、形式的にn個の財によるワルラスの連立方程式体系と似ている。 スラッファはマーシャルの部分均衡論の矛盾を批判したが、産業全体にわたる利潤率を前提とする体系はマーシャルよりも一般均衡論のワルラスに近縁していると言える。
 しかしワルラスの均衡価格は市場における交換の短期の市場価格で、資本の移動を考慮した古典派の長期生産価格とは別ものである。古典派経済学は、再生産すなわち経済およびその前提たる所有関係の循環の条件の確立の上に展開された長期理論であった。スラッファにおいても、価格はこの再生産の進行を支える条件の一つとしてある。しかしワルラスでは価格がすべてに優先していて、「経済主体」は価格をバロメーターとして「合理的」に行動して市場均衡をつくりあげると考えられている。
 他方スラッファやマルクスでは「主体」は選好をもった個人としてではなく、経済過程における特定の機能を果たすだけのものとして捉えられている。主観的選択=極大原理のような個人の行動についての仮定とは無関係に経済社会の客観的な存続条件を考える点ではスラッファはリカードやマルクスの側にいる。
 新古典派とスラッファの大きな違いとして、ドッブが強調するのは分配の決定にある(文献7)。新古典派では、所得の分配は生産要素――労働、資本、土地――の価格――賃金、利子、地代――として、生産要素の市場で、生産物の市場における価格決定と同時に決定される。すなわち、財も生産要素も同じ価格決定の図式の中にあり、所得の分配は価格決定の仕組みの中で、内生的に決定される。(生産要素の一つ、労働の需要を見てみよう。新古典派理論では、労働量を何単位雇ったとき利潤が極大になるかは利潤を労働量で微分した値をゼロとおいて求められるが、この結果は賃金が労働の限界生産物の純価値に等しいときの労働量が利潤極大であることになる。労働の単位価格が労働の限界生産力によって決まれば、これに労働者数を掛ければ賃金総額が出る。すなわち分配決定は価格決定から導出されるわけである。)
 これに対して、スラッファの分配論は、外生的である。利潤率あるいは賃金――分配変数――のいずれか一つが生産体系の外部で決まり、諸商品の価格が決まる。分配は価格に先立つ。価格は市場の奥にある体系の生産方法によって決定されるのである。分配が価格に依存しながら市場の交換過程で同時に決まるとする新古典派に対して、分配が市場の価格決定過程の外部または基底にある諸要因―政治、社会、歴史、制度―によって決まるとみなし、このように先決的に決まる分配に依存して価格が決まるというリカード的伝統をスラッファは採用している。
 こうして決定されたスラッファ体系の諸価格は、新古典派のように資源の最適配分や個々人の最大満足の指標を表すようなものとは違って、体系全体の再生産を可能ならしめ、従って体系の存続を可能ならしめるものなのである。

参考文献

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マインウェアリング(1987)『価値と分配の理論』笠松学ほか訳、日本経済評論社
松本有一(1989)『スラッファ体系研究序説』ミネルヴァ書房
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〔文献4〕 スウィージー編(1969)『論争・マルクス経済学』玉野井芳郎訳、法政大学出版局

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