素朴派の画家たち

 印象主義絵画は写実主義を極限まで追求し、逆に写実主義の破産をもたらした。後期印象派から表現主義、フォーヴィズム、キュビズムと展開する現代美術は、反写実主義という点で共通性をもっているが、いわゆる素朴派の画家が専門画家や詩人、批評家に注目されたのもこのような時代背景による。
 ルソー、セラフィーヌ、ヴィヴァン、ボーシャン、ボンボアといったこれらの画家はしかし反写実主義の主張をもっていたわけではない。これらの画家は美学上の主張とかグループとか運動とかとは無縁であり、彼らが絵を描くに当たって志したのはむしろ写実であった。ところが彼らはその経歴、境遇から専門的な教育を受けておらず、目に見えるものより日常的感覚にもとづく関心度や知恵によって描いたので——建物は一つ一つのレンガの積み上げであるし(ヴィヴァン)、木は一枚一枚の葉をもっている(ルソー)——、遠近法的に見れば決して葉の葉脈や壁のレンガの線など描かれないはずなのにそれらは厳然と存在することになるし、ポテト・フライ売りは子供たちの期待を体現して巨大に描かれ、裸婦や浴女は作者の関心を体現して巨大に描かれる(ボンボワ)。こういった事態は表現主義に通じるものになるし、建物の見えない部分もそれへの日常的関心から描いてしまうというようなことは結果としてキュビスムに通じるものになる。
 これらの画家たちはみな高い学歴をもたず、そのことに相応した職歴ののち人生のかなり遅くなってから画家になった——といってもそれまでの職をやめ絵に専念するようになったというにすぎないが——。ルソーはパリ市の入市税関吏員として勤め、日曜画家として余暇に絵を描いた。退職後、乏しい退職金をもとに塾を開いて生活を支えながら本格的な作画生活に入った。ボーシャンは園芸師であった父の仕事を手伝い、種苗栽培に従事した後、46歳のときそれまでの仕事をやめて絵画に転向した。ボンボワは父親が船頭であったので、幼年時代を運河に浮かぶ曳き船の中で過ごした。のち農場の作男となり、身近なものを描きはじめた。そののち旅回りのサーカス団に入り、闘技士として数年間地方を巡業したが、ここでも身近なものを描き続けた。さらにパリに出て地下鉄工事の工事夫、新聞配達などの職につくが、絵を描く昼の時間を確保するため印刷所の夜勤の仕事に変わる。39歳のとき画家になることを志し、ウーデの助力でパリ郊外のアトリエで制作に専念できるようになった。ヴィヴァンは郵便局の臨時職員として、余暇に絵を描いたが、61歳で退職し、以後は絵に専心した。セラフィーヌは少女時代家畜の見張り番を勤めていたが、のち家政婦となって、偶然にも雇い主のウーデに画才を見出される。のち神経を冒され、精神病院で死去する。
 これらの画家たちは、やはり途中から職を捨てあるいは職の遍歴をやめて画家となったゴーギャンやゴッホとまったく異なって、悲劇性といったものをもっていない。また彼らが特別な主義主張をもっていないということに相応して、その絵に象徴性とか寓意性といったものもない。絵は正面から堂々と迷いなく描かれている。また葉の一枚一枚、石の一つ一つを正確に描くということからもわかるように、彼らの絵には忍耐強さ几帳面さというものが感じられるが、こういったことも長い庶民的職業を勤めながら絵を描きつづけてきたことによって培われたものであろう。ルソー自ら書いた略歴には「両親に財産がないのを理解し、まず最初はその芸術に対する嗜好が求めるのとは別の経歴をたどらざるを得なかった。従って幾度も辛酸をなめた後、……」とあり、「幾度も辛い試みを繰り返したあげくに、彼は周囲の芸術家たちにその存在を知られるに至った。」とある。「周囲の芸術家たち」にはピカソやドローネーやアポリネール、ジャリ、批評家ウーデなどがいる。
 休日に絵を描いたことから彼らの絵の世界はおおむね休日の風景であったし、特に絵に専念してからは毎日が休日になったからどの絵にも休日の安らぎが漂っている。人の行き交う通り、子供の遊ぶ郊外、人々の集う「サクレ・クール」、花を摘む子供や女を描いたボンボワの絵のなんと安らかで美しいことか。
 彼らの絵の与える感動は、日々働く人々が週末の日曜日に期待する楽しさが描かれたところにあると言ってよい。彼らは彼岸の「天国」を求めたのではなく、この世の「天国」を描いたのである。

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