ケインズの学説における貨幣の位置

1
 ケインズが批判した「古典派」経済学は「貨幣ヴェール観」に基づいていた。そこでは貨幣は交換の媒介物の役割しかもっていない。販売で得られた貨幣は購買のためのものでしかないから、作ったものはすべて売れるというセー法則が成り立ち、生産者間の競争は可能な極大水準まで生産の拡大が促され完全雇用が常に成り立つことになる。また貨幣ヴェール観によって貨幣は実物世界になんら影響を及ぼさず、物価水準を定めるものでしかないという「貨幣数量説」が成り立つ。
 ケインズは貨幣数量説の不十分さを認識しており、『貨幣論』(Keynes、1930)においては投資と貯蓄のギャップが物価水準に与える影響が考慮されていた。しかし『一般理論』(Keynes、1936)に至ってケインズは、投資と貯蓄は所得(産出量)水準を決定するものととらえそのメカニズムを解明することになる。貨幣数量の変化は利子率への影響を通じて投資量したがって有効需要量に変化をもたらし、有効需要量の変化は一方における産出量(雇用量)の変化と他方における物価水準の変化をもたらすということになった。

2
 ケインズの『一般理論』は国民所得循環の把握の上にその理論が築かれ、ケインズはその所得循環の諸概念の定義を同書第六章で行っている。しかし生産面、支出面、分配面、の三面が等価であるとするケインズの接近方法は実物と貨幣の対応という重要な問題が前面に出ないうらみがある。実物としての消費財と貨幣支出としての消費が同じ記号Cで表されているし、貯蓄が存在するということも、実物的な意味では、産出高のうち消費されずに生産者の手元に在庫品として残っているということであるが、他方、貨幣的な意味では消費支出されなかった残余としての資金があるということなのである。
 分配所得というのは、その収入面を考えると生産に参加した報酬であり、その支出面を考えると消費および消費されなかった残りの貯蓄である。この分配所得とは、貨幣である。次に生産所得とは、その投入面を考えると労働や資本であり、産出面は最終生産物である。この生産所得とは実物である。
 そこで三面説の支出面を分配面の支出側に置き(三面説の分配面は分配面の収入側に)、三面説の生産面を投入側産出側の二つに分ければ、四面となる。これは簿記の借方貸方の表式を借りれば図1のように表せ、勘定体系として展開できる(山田、1959)。
 分配および生産それぞれの借方と貸方は等しい。次に分配の借方と生産の貸方、分配の貸方と生産の借方は取引を通じて等しくなる。前者は、勘定内の収支関係を表しており、後者は勘定間の取引関係を表している。こうして四面の等価が確認されよう。
 大事なことは、このような勘定体系によって実物と貨幣の対応が前面に出てくることである。収入とは生産から分配へ貨幣が流入することであり、支出とは分配から生産へ貨幣が流出することであり、純生産とは分配から生産へ物(生産要素)が流入することであり、最終生産物とは生産から分配に物(財)が流出することである。
 貨幣たる消費支出が実物たる財を吸収した残りは、貨幣たる貯蓄が吸収すべき財=投資であるが、貯蓄がこの残りを吸収しきれず売れ残りが生じても、それは在庫投資すなわち投資である。こうして貯蓄は投資に定義上(あるいは勘定体系上)等しい。
 さてこの定義上の貯蓄=投資は、どのような投資活動が行われたのかとは無関係に、いつでも成り立っている事後的な恒等関係であって、〈貯蓄→投資〉という関係も〈投資→貯蓄〉という因果関係も含んでいない。しかしケインズの貯蓄=投資論にはこの定義上のものすなわち恒等関係から進んで、所得決定論としてのものすなわち均等・均衡関係があり、クラインはこの後者を論じるに当たって、意図されない在庫を意図された在庫――本来の投資――と別建てにして説明している(Klein、1947)。
 貯蓄が投資を超過する場合とは、消費支出が吸収しきれなかった財に向かうべき貨幣としての貯蓄からの投資資金が不足して、意図された在庫以上に在庫が増加し、すなわち意図されなかった在庫が発生し、売れ残りが生じることである。このとき事業者は生産を減少し、雇用および所得が減少する。逆に投資が貯蓄を超過する場合には、意図された在庫品が減少し、在庫品不足が生じる。このとき事業者は生産を増加し、雇用と所得が増加することになる。このように在庫(投資)増減によって所得が変動し、結果として投資に等しい貯蓄が生み出されるのである。
 古典派経済学では貯蓄資金は利子率を媒介にしてすべて投資資金へと向かい、この投資資金は投資財購入へと向かった。実物と貨幣は過不足なく対応したわけであり、〈貯蓄→(利子率)→投資〉である。貯蓄増減は一方で同額の投資増減を、他方で同額の消費減増をもたらし、有効需要に変化がないから所得も変動しないのである。
 これに対してケインズは、利子率を決定する要因は別にあり(流動性選好説)、貯蓄は――債券購入と貨幣保持との選択を通じて――自動的に投資に廻らないと考えた。ケインズは投資は貯蓄の額とは独立に動いて――投資は資本の限界効率と利子率を見比べながら企業者によって決定される――所得を動かし、結果として投資と等しい貯蓄を生み出す、と説いた。すなわち〈(利子率)→投資→(所得)→貯蓄〉である。

3
 ケインズは『一般理論』において、人々が利子収入を生まない貨幣を保有しようとするのは、貨幣がいつでも即座に無費用・無危険で購買力として使用できるという意味の百パーセントの流動性をもっているからだとし、現金残高需要を流動性選好と名づけた。そして利子率は、投機的動機に基づく現金残高需要による貨幣の需要供給によって決まるとした。
 『一般理論』でのケインズは投資=実物資産の増加と考えている。単純化のため、投資資金はすべて社債の発行によって調達されるとすれば、投資は貯蓄主体側から見れば新規債券需要であり、投資主体側から見れば新規債券供給であって、既発債券の売り買いは貨幣―債券の乗換えでそれ自体は投資ではない。
 ケインズは、貯蓄すること(第一の時間選択)によって利子が発生するのではなく、貯蓄をどのような形態で行うか、という資産選択(第二の時間選択)に基づくとしたが、貨幣の形態でもつか債券の形態でもつかの資産選択によって決まる利子率では、貯蓄資金がすべて投資資金=新規債券購入→投資財購入には向かわないことになる。フローの調整がストックの介在によって著しく阻害されることになった、というのがケインズの現実認識である。
 ケインズにおける投機的動機は、もっぱら証券形態による資産保有との関連で考えられている。財産の一部を証券形態で保有する人々は、証券価格の値上がりを予想するとき、すなわち強気になる場合には、証券相場の騰貴すなわち利回りの低下によって得られる資本利得の期待で、貯蓄預金を引き出し証券に換えようとする。逆に証券市場における証券価格の下落を予想するとき、すなわち弱気になる場合には、証券相場の下落すなわち利回りの上昇によって蒙る資本損失の期待で、手持ち証券を売却し貯蓄預金に換えようとする。ケインズは投機的動機により保有される現金残高――不活動貨幣――の需要を、所得水準とは関係なしに、利子率が高くなる(証券価格が安くなる)と減少し(証券買いに向うため)、利子率が低くなる(証券価格が高くなる)と増加する(証券売りへ向うため)という意味で利子率の減少関数と規定した。
 利子率上昇(債券価格下落)が進むにつれて、弱気から強気に転換する人々が増えてくるから、財産所有者全体として、不活動貨幣の放出による債券の需要が、不活動貨幣保蔵のための既発債券供給を上回るようになってくる。これを債券の投機的超過需要と呼ぶことにしよう。債券の投機的超過需要がプラスの値をとっているとき、市場が強気になっているという。この超過需要は利子率が高まるにつれて増大するであろう。逆に、利子率が低下し、債券相場が騰貴するにつれて強気から弱気に転換する人々が増えてくるから、やがては弱気筋の既発債券の売り(不活動貨幣の保蔵需要)が強気筋の債券の買い(不活動貨幣放出)を圧倒するようになり、債券の投機的超過供給=マイナスの超過需要が発生して、その値は利子率の低下につれて増大するだろう。このとき市場で弱気が支配しているという。市場で強気から弱気に転換する境目で、強気・弱気がバランスする状態になるような均衡利子率が存在するわけである。
 この均衡利子率より高い利子率では財産所有者集団内部での売買を越える債券需要があり、したがってそれは新規発行債券をこの集団の外部から新たに買い入れることでしか満たされない。均衡利子率より低い利子率なら、この集団内部での売買を越える既発債券の売りがあることを意味するのである。
 債券の投機的超過需要がプラスの場合は、経常的な貯蓄資金(フローのS)による新規発行債券(フローのI)需要に、財産所有者が保蔵していた不活動貨幣(ストック)による追加需要が付け加わることを意味するし、マイナスの場合は、経常的な貯蓄資金の一部が新規債券需要から吸い上げられて(それだけフローのIに向かわなくなる)、財産所有者の売却する既発債券(ストック)の購入に振り向けられ、その貯蓄資金たる貨幣は既発債券を売却した財産所有者によって保蔵されて不活動化することを意味している。
 セー法則否定による不完全雇用均衡の可能性論証における流動性選好説の役割は、投資・貯蓄というフローのアンバランスを契機として発動されようとする利子率伸縮性に、ストックとしての投機的流動性選好の作用が阻止的に働き、その結果、投資の変化と貯蓄の変化とに開きを生ぜしめ、所得水準の変動を引き起こさざるをえないというところに見出される、と言ってよい。
 ここでは貨幣は純粋に価値貯蔵手段として需要されるのであり、流通手段として所得の流れを賄うのではなく、財産ストックの一部として保有されるのである。――ここに財産ストックの形態選好が、所得の流れと関係する結節点として、経済理論のうちにはじめて本格的に組み込まれることになった。ケインズの流動性選好説は、他の条件一定ならば、貨幣の供給残高の変化が所得水準を変動させるという重要な結論をもたらした。貨幣はもはやヴェールではないということになったのである。

4
 ケインズに批判された古典派側からの反批判は、論争の過程で貸付資金説として整備された。この名称は、論争の過程でケインズの流動性選好説に対する批判的立場を明確にするために生まれたもので、ケインズ以前にも単純な貯蓄・投資による利子率決定説ではなくて、貨幣需給をも考慮に入れた利子学説があったのだと主張するものである。
 この説に従えば、貸付資金市場には、需要の側に投資資金需要(フロー)と現金残高追加需要(ストックの考慮)とが現れ、供給の側には貯蓄資金の供給(フロー)と貨幣の追加供給(ストックの考慮)とが現れる。利子率はこの供給と需要との関係で決定されるのであり、したがってその決定には「古典派」の言う節約と生産力――生産要因――が依然作用することになる。
 ヒックス、ハンセンらによるIS曲線とLM曲線という道具立て(Hicks,1937 、Hansen、1953)による展開は、従来の貸付資金説にない所得の変動を導入し、貨幣需給をも重視する、というかたちで貸付資金説と流動性選好説を接合する試みであった。ケインズ体系では利子率は消費性向、資本の限界効率とともに独立変数として扱われ、利子率はもっぱら貨幣の需給によって決定され、資本の限界効率は利子率とは独立に、この利子率と相対して投資を決定する。すなわち利子は投資という実物世界から独立した純粋に貨幣的現象であり、それが投資を通して雇用・生産という実物世界に影響を与えるのであり、その逆(実物界→利子)は認めない。ヒックス、ハンセン等のケインズ理論の拡充は、投資拡大によって所得が動けば貨幣量が動き利子率を動かすという意味で、実物界の利子率への作用を復活させたものと言えよう。

 さて古典派あるいは古い貸付資金説では所得が変動する理由がないのであったが、そこで言われている貯蓄・投資は生産過程に入る前の、資金市場で需要供給として相対するところのものであった。ある時点において一定額の所得があり、一定額の貯蓄がある。投資はその貯蓄をもたらした投資ではなく、今存在する貯蓄を求めつつある投資なのである。すなわち古典派の言う投資とは生産活動に入る以前のものであり、生産活動の結果存在するであろう貯蓄ではなく現存する貯蓄に対して資金を求める行為である。
 現存する貯蓄と、それを求める資金需要としての現在の投資、この両者が相対する時点が利子率の成立する場なのである。その時々の貯蓄と投資によって決定され、その時々の状況を反映した利子率が古典派のそれであって、一定期間という時間を介在した理論上の貯蓄投資の均等関係と連動するものではない。
 ケインズの投資は、実物資産の増加すなわち生産活動の意味のそれであり、投資と貯蓄の関係も生産活動を含む一定期間を介在したものであるが、他方その利子論は貨幣の需給という体系の外で決まった利子率が投資という生産面に影響を及ぼしていくというものである。貯蓄・投資は所得変動を通して一致せられるが、利子率はそれ以前に決まっているのである。
 すなわち古い貸付資金説もケインズ説も、所得変動以前に利子率決定を求めておりIS・LM分析とは相容れない。
 IS・LM分析は、所得と利子率がISおよびLM両曲線において同時に決定されることを明快に示すもので、ケインズ解釈の言わば標準とされるものだが、パシネッティは、ケインズ体系は「完全に相互依存的な」連立方程式体系ではなく、「因果順序がはっきりしている型」の連立方程式体系として解釈されるべきだとして、IS・LM分析を前者のものとして批判している(Pasinetti、1974)
 さて『一般理論』の利子論の主体は財産所有者という個人であるが、ケインズ利子論の妥当性は社債発行による直接金融の比重が大きく――株式も含めれば、いっそう――国債等既発債券のストックが大きな、公社債市場の発達した資本主義を前提としている。しかし銀行等の間接金融の比重の大きな資本主義では、借入が中心となり社債も銀行による消化が大きいし、企業貯蓄も、各種預金も、銀行に集められ、それを源として銀行は貸出業務を行うのである。企業としての銀行が流動性を手放す危険を前面に出して営業を行っているとは言えないだろう。銀行資本と産業資本との間の取引によって決定する利子率が支配的一般的なものとして金融市場に存在するとき、個人の投機的動機に基づく流動性選好が一般的利子率の決定に参与する度合いは小さいと言わざるをえない。
 利子率は貨幣形態での貸付資本の価格なのであり、金融機関はこの商品に価格すなわち利子率を付して売り出すゆえに、買い手たる機能資本家には利子率は与えられたものとして現れるのである。すなわちケインズも述べるごとく利子率は投資にとっては与えられたものとして現れるわけである。
 マルクスは利子率決定についてはケインズ同様貨幣的現象であるとする。しかしマルクスでは利子は社会的総資本の平均利潤の一部分であり、すなわち利子の源泉は利潤――剰余労働――であり生産過程にあるとしている。最高限は平均利潤そのもの、最低限は無限にゼロに近いもの、利子率はこの限界内で貸付可能な資本に対する借り手と貸し手の需要・供給の関係によって決まりそれ以外に利子率を決定する内的法則というものはないとしている。すなわち利子の原因を実物界に求めているのである。
 他方やはり利子の原因を実物界に求めるオーストリー学派は、生産過程に生じる剰余たる利子の源泉を、マルクスと異なって資本財の物的生産力や時間的な心理的価値の差に求めている。この学派では貨幣利子の存在を認めて、それの根拠を知るための手段として実物利子を説いたと言ってよい。

 ケインズは不完全雇用状態にある限り、貨幣量Mの増大は物価Pと同時に生産量O従って取引量Tの増大をもたらすから(すなわちT一定ではなく)、Mの増大はPの同率同方向の変化とはならない、と貨幣数量説を否定した。しかし完全雇用に到達すれば、貨幣量Mの増加はすべて物価Pの増加となり貨幣数量説が復活すると言い、完全雇用状態の前提のもとで貨幣数量説の正当性を認めた。ケインズ自身自説を「一般化された貨幣数量説」と言っている。しかし完全雇用といえども輸入の増加や、生産性向上を目的とする投資は生産物を増加させるから、貨幣が供給されても物価を騰貴させるとは言えない(新庄、1983)。
 貨幣数量説を継承する今日のいわゆるマネタリストは、Mすなわちマネーサプライの増加率に重要性を与えて、政策担当者の自由裁量に委ねるのではなく、適切にMの増加率を コントロールすればインフレやデフレになる可能性は低いと考える。そしてあとの調整はすべて市場の自動調節機能に任せるべきだとするのである。市場経済に生じる諸欠陥は、完全雇用をめざすケインズ的財政金融政策に帰するとするもので、反ケインズ革命と言われるゆえんである。

5
 貨幣がきわめて重要な役割を演じるケインズの『一般理論』において、貨幣そのものの分析と言えるものは、資産としての面から、自己利子率の低下制限性という点で他の財との異同を論を論じた箇所以外にはない(keynes、chap.17、1936)。貨幣の特殊性として流動性打歩の大きいことが挙げられているが、なぜ大きいのかについては、生産と代用の弾力性がゼロに近いという点に求められるにとどまる。ケインズの貨幣は不換銀行券と預金通貨であるが、それらの前身には兌換銀行券があり、さらに金銀等の金属貨幣があることは歴史的事実であって、そこまで遡って考察されるべきであろう。
 ウォーカーの「いやしくも貨幣たるはたらきをするものは総て貨幣である」という言葉は貨幣名目主義の一つの礎石として著名であるが、貨幣本質論の大勢が名目主義に転換するに至るには、兌換を前提として流通するはずの銀行券が不換券化して、しかも必ずしもその価値の低落しないことが経験されるまで待たなければならなかった。
 第一次世界大戦の期間およびその後多数諸国が兌換を停止し、戦後兌換を再開した国も1930年前後には例外なく再び停止するに至って上の傾向はいっそう支配的となった。そしてケインズの管理通貨論によって補強されることになったのである。
 貨幣名目主義は、貨幣を財一般から切り離し、貨幣に財一般と共通する内在的価値を必要と認めないのであるから、現実に流通する通貨の購買力(物価の逆数)をもって事後的・外在的に貨幣の価値を表象し、貨幣量の増減によって物価変動したがって貨幣価値の変動を結論する貨幣数量説と結びつくのは自然である。
 しかし商品交換が発達すると、貨幣は一般的交換手段たる機能と等価交換のための価値尺度機能を果たさなければならず、その機能を営んだものは歴史的に金=本位貨幣のみであり、現実に支払手段として役立つ他の一切の流通貨幣(通貨)はその機能の上で明確にそれと区別されなければならない。諸財貨の価格=物価によって貨幣の価値を事後的外在的に表象する前に、本位貨幣=金の価値によって貨幣自らの価値を事前的・内在的に考えなければならない。すなわち一般の購買力の前に本位貨幣としての金の価値が論理的に前提されなければならないのである。
 信用制度が発達すればするほど信用の流通によってかつての金属貨幣の果たした通貨の機能は代行されるけれども、それは代行されるにすぎない。なぜなら信用は元来貨幣を対象とする請求権の流通形態であり、従って信用そのものが論理的に貨幣の存在を必要な前提とするからである。

参考文献

Hansen. A. H. 1953. A Guide to Keynes.ハンセン『ケインズ経済学入門』大石泰彦訳、創元社,1956
Hicks. J. R. 1937 “Mr. Keynes and the‘Classics’ ; A Suggested Interpretation”. Econometrica.Vol.5
Keynes. J. M.1930. Treatise on Money.ケインズ『貨幣論』小泉明ほか訳、東洋経済新報社,1979
――1936. The General Theory of Employment, Interest and Money, Macmillan.『雇用・利子および貨幣の一般理論』塩野谷九十九訳、東洋経済新報社,1941
Klein. L. R. 1947. Keynesian Revolution.クライン『ケインズ革命』篠原三代平ほか訳、有斐閣,1952
Pasinetti.L.L. 1974. Growth and Income Distribution.パシネッティ『経済成長と所得分配』宮崎耕一訳、岩波書店,1985
浅野栄一、1987、『ケインズ「一般理論」形成史』、日本評論社
川口弘、1971、『ケインズ一般理論の基礎』、有斐閣
三上隆三、1956、『ケインズ経済学の構造』、有斐閣
――、1960、『貨幣的経済理論の研究』、有斐閣
――、1986、『ケインズ経済学の原像』、日本評論社
山田雄三、1959、『国民所得論』、岩波書店
新庄博.1967.『貨幣論』.岩波書店
――.1978.『金融財政経済論』増補版.日本経済評論社

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