近代絵画史粗描

 印象派に始まる近代絵画の歴史は、「対象」から解放され、絵画の自律性が確立されていく過程として展望することができる。

 シスレー、モネ、ピサロなど印象主義の画家たちの求めたものは、自然の光をできるだけ自然に近く画面に再現することだった。そこで採用されたのが混色しない色彩による描法であった。こうして印象派の画家たちは、ついには六つの原色だけで描くようになる。 印象派の画家たちはこのように光に異常な親和感をもっていたから、ひたすらに自然を写しながら、自ずと喜悦の感情が移入されていて、絵は見て楽しい。
 印象派では前景も後景も同様に明るく、前景も後景も同様に不明瞭となる。印象派はこうして自然を対象にし、対象の描写を徹底することで、逆に客観描写から主観描写へと転進する途をひらくことになる。印象派では主題と言えるものは、水面や建物の壁面への光の反映であるが、しかしそれらは主観的な「印象」であり、その印象を色と形の世界に翻訳するための動機であるにすぎない。すなわちそれらは主題というよりモティーフなのである。印象派では主題の衰退が始まるのである。

 印象派の中にいたセザンヌや印象派の影響の下にいたゴーギャンやゴッホは、やがて印象派の行き方に不満をもつようになる。これらの画家たちが「後期印象派」と呼ばれるのは、印象派の「後に」、印象派を批判しつつ絵を描いたからで、印象派の成果を受けついではいるものの、印象派の「(前期に対する)後期」という意味ではない。そしてセザンヌはキュビスムへ、ゴッホやゴーギャンはフォーヴィズムやドイツ表現派へ影響力を及ぼしていく。
 セザンヌは、印象派の主観的印象の表現に満足できず、「堅固なもの」を欲した。印象派が光の変化を追って明るい華やかな色彩を作り出していくのに対して、光の奥底にある実在というものの存在感に照準を当てた。セザンヌの求めたものは、すべてを感覚的な色彩の模様のなかに溶かし込んでしまった印象派の画面に確固とした形態を確保しようとすることであった。
 セザンヌにとって、光のもとですべては等価値にとらえられる。女の体の線も山の稜線も、造形的に等価値である。だからセザンヌの絵は見る人に、どこか鉱物のような非情な印象を与える。
 セザンヌは毎日毎日画架に向かって同一対象を描き続けるという執拗さ、聖人的禁欲さ、田舎者の勤勉さをもって自ら求めるものを追っていった。同じ対象を繰り返し描いているうち、セザンヌには自然が、ある手紙のなかで言っているように、「球体、円錐形、円筒形」のように見えてきたのであろう。それはたしかにキュビスムを経て抽象画への道を開いたものと言えようが、セザンヌ自身はそういう意識をもってはいなかった。セザンヌはむしろ古風なタイプで、彼なりの遠近法は捨てていないのである。
 セザンヌが彼のフォルムを対象=自然から獲得していることは、まぎれもない。しかしそれらのフォルムを自然のフォルムに対して独立させていることも明らかである。諸々の物体をそれ自体としてではなく、全体のリズムと調和を形作るものとして考え、この理念により自然に秩序を与えて作画した。すなわちセザンヌにとっては、自然の必然性ではなく画面の必然性が問題であった。印象派の画家たちが空間における、色彩に満ちた光の、日により季節による変化に興味をもったのに対して、セザンヌはひたすら物体における無時間的な普遍性の探求に献身したのだと言えよう。
 ゴッホもまた、印象派の光による色彩の氾濫のために、事物を犠牲にすることはできなかった。彼の愛は事物そのものに置かれていたからである。ゴッホは、対象を遠くから眺めて遠近法にもとづいて統一するのではなく、対象に近づいて、対象とひとつになろうとするのである。ゴッホにとっての対象はもはや見られるべきものというより、彼の感情を表す手段となっている。
 ゴッホとゴーギャンは対象色に対する自由さにおいても一致している。彼らは印象派を通過した「後期印象派」なのである。晩年のゴッホが到達したものは、強烈な色彩のもつ表現力であり、キャンバスに塗られた赤や緑や黄色は外の自然を映し出した色ではなく、彼自身のさまざまな情念の色に染め上げられた心の深淵の世界であった。
 ゴーギャンは、印象派の画家たちは「自分たちの眼の周囲ばかり探しまわっていて、思想の神秘的内部にまではいりこもうとはしない」と言って、象徴的表現の必要を説いている。またルドンは印象派の絵画が「自然に向かって開かれた窓」であろうとしたことに反対して、絵画は「神秘の世界に向かって開かれた扉口」でなければならないと主張したし、モローは「自分は……ただ見えないもの、感じるものだけを信じる」と言った。これらの画家たちが目指したものは象徴主義と呼ばれるが、またゴーギャンが印象派の分析的な技法が多彩な色点の中に解消してしまった形態をふたたび復活させようとした技法上の試みは、総合主義と呼ばれる。ゴーギャンの、画面のバランスのために物体の比例も変えなければならないし、遠近法も変更しなければならないという主張はセザンヌに由来するが、物体の輪郭線は使用している。印象派の色点ではなく、隙間のない色面にまとめて、個々の色面を好んで濃い輪郭で限っているが、これは物体に静止感を与え、装飾性を強調したものと言える。ゴーギャンは、現実の空間を、絵画の空間に定着するためにあらゆることを試みていて、色彩遠近法の放棄はほとんど体系的に徹底され、装飾的布置のためには物体の固有色も自由に変更し、色面によって画面を構成し、画面に絨毯画のような壁画のような平面性を与えている。

 ナビ派と呼ばれるドニ、ベルナール、セリュジェ、ボナールたちは、自然とは別の画面それ自体の秩序を求めたゴーギャンの教えを受け継いだ。ドニは絵画を定義して「絵画作品とは……ある一定の秩序のもとに集められた色彩によって覆われた平坦な表面である」と言って、絵画の自律性を主張して、抽象絵画への方向性を示唆している。他方ボナールは、印象主義の筆触分割の技法が微妙な色彩を現すのに適当であることを知り、これを採用した。このボナールの色彩感覚こそは、フォーヴ革命の先駆をなすものであった。
 ゴッホやゴーギャンが強調した「色彩の表現性」はフォーヴィズムに受け継がれる。対象色はゴーギャンやゴッホよりさらに自由になり、純粋に色彩旋律的に選ばれている。かつての画家は、画面に赤が欲しかったらそういう対象を見つけなければならなかった。ゴッホやゴーギャンでは、画面に赤が欲しいと思ったら「多少とも赤みがかった」モティーフを探すだけで十分だった。フォーヴィズムの画家たちは、さらに一歩を進めて、赤みのまったくない樹木や人間や海面を平気で赤く塗り上げた。それはやがてデュフィやレジェに見られる色彩と形態の分離をもたらすこととなった。
 フォーヴィズムの画家でも、特に強くゴッホの影響を受けたヴラマンクでは色彩が感動を表現するために用いられるが、セザンヌや新印象主義の影響の強かったマチスでは、色彩は色彩自体の美しさを発揮するためにのみ用いられていて、それ以外のあらゆる役割から解放されている。青い水は、水としての材質映像はなくなり、「青い」色彩となる。遠近法的な空間性は取り除かれ、すべてが影のない平面と色彩になる。

 自然に従うのではなく、自然を絵画の自律的精神に従わせるというフォーヴィズムの企てた「純粋絵画」への道を、色彩を第二義とし形体の厳しさを第一義として進めたのがキュビスムである。
 セザンヌの教えを徹底したのがピカソやブラックらキュビストだったというのは事実である。しかしセザンヌは、彼の絵が対象のもつ本性を再現するものであると信じていた。セザンヌは「自然にモティーフを探しに行く」と言うように、なお視覚的世界にとどまっていた。しかし、ピカソやブラックにとっては対象がどのように目に見えるかということはもはや問題ではなく、対象がどのようにあるかということが主要な関心事になっている。キュビストは、セザンヌや黒人彫刻などから発見した自然を再組織する方法をもって、その方法自体を展開するために自然を利用するのである。
 キュビスムの発展は視点の複数化を次第に徹底させていく過程であり、対象が解体していく過程であった。セザンヌの静物画では、籠が正面から描かれ壺が上から描かれるというように視点の複数化(消失点の複数化)が見られるが、ピカソの『アヴィニョンの娘たち』のように一人の顔が複数の面から描かれるということはない。籠は籠、壺は壺としてそれぞれ解体はしていないのである。
 印象派、後期印象派、ナビ派に至る過程で、絵画の平面性が強調され、それに応じて対象も平面化されつつあったのに対してオブジェの立体性を確認しようというのがキュビスムの出発点であった。しかし各々のオブジェを各々正面から見た面の集合として構成すれば、物としての存在は希薄にならざるをえず、オブジェは解体し、立体は平面に定着される。セザンヌの「円筒、円錐、球体」はいつのまにか「長方形、三角形、円形」という平面図形に移っていく。そこからモンドリアンの抽象絵画(新造形主義)まではほんの一歩にすぎない。
 しかしピカソもブラックも対象のない世界へ行くことを拒否した。ブラックは「もし人が自然との関連を失えば、それは当然装飾に終わる」と言う。モンドリアンでは絵画とデザインの差は紙一重である。モンドリアンの絵画は、1920年頃にはまったく「比例」になりきっている。水平と垂直との二つの基本的な比例、白・灰・黒の三つの基礎的な明暗価値の比例、青・黄・赤の三つの原色の比例。対象を完全に離れたフォルムそれ自身の展開という「純粋絵画」の考えを端的に示すものとして抽象絵画が現れるのである。

 広く抽象絵画と言われるものは、キュビスムの一分派と言われるモンドリアンだけではなく、1910年代前半という時代をとってみただけでも、モスクワのマレーヴィッチ、ロシアからミュンヘンに出たカンディンスキー、パリのドローネーやクプカたちと、それぞれ原理も表現様式も異なったものが各地で生まれかけていた。
 すでに十九世紀末には、セザンヌやゴーギャンやルドンの影響の下に生まれたナビ派のモーリス・ドニが、オブジェの世界から切り離されたイメージとしての絵画の自律性を主張して、抽象絵画への方向性を示唆していた。セザンヌの「形態の純粋性」の追及が、キュビスムを通してやがてモンドリアンの抽象絵画に行き着くように、ゴッホやゴーギャンによる「色彩の純粋性」の追及は、フォーヴィズムを通して、カンディンスキーの抽象絵画まで行き着くことになる。
 カンディンスキーは三十歳でミュンヘンに出、ドイツ表現派の「青騎士」グループの運動に参加し、四十歳になってパリでフォーヴィズムの運動にかかわったが、1910年、フォーヴィズムから突然、非対象絵画への第一歩を踏み出している。
 近代絵画は、一歩一歩と自然主義的な正確で完全な自然模倣の要素を捨ててきた。こうして目に見える現実から残ったただ一つのものは「対象」そのものだった。カンディンスキーは、対象の描写に役立つように強いられた線と色は、その程度に応じて必然的にその固有の生命が弱められる、という経験を語っている。逆に言えば、色彩と線の固有の表現力を強めようとすれば、その対象内容を弱めなければならない、ということになる。マチスでは線と色面が、依然として一定の対象を描いてはいるが、その軽重の関係が逆になる。つまり色彩と線は、もはや対象のために存在するのではなく、逆に、対象が色彩と線のために存在するのである。カンディンスキーはさらに進んでもはや線と色彩でいかなる対象も描写しなくなる。
 カンディンスキーは「対象を捨て去った後、画面に何を置けばよいか」という問題に迫られ、オブジェの世界から借りてきた具象的イメージの代わりの役目を果たす抽象的フォルムの探求に進むことになる。カンディンスキーは、即興的な自由のなかで描きながら、やがて無意識な即興性のかわりに、意識的な構築性が、有機的に偶然なもののかわりに、幾何学的に厳格な法則が画面に現れるようになる。そこでは、「物質的・具体的世界」から切り離された色彩や形態が、物質的世界とは別のところで音楽のようなハーモニーを奏でるのである。
 ドローネーはキュビスムから形体の分解を受け継ぎながらも、感性の優位を主張して、静的な絵画から動的な絵画へ、単色から彩色へとキュビスムを大きく転向させた。動きを欠いた息苦しいキュビスム絵画が氾濫していた当時、ドローネーの絵は「大気のなかに「窓」をあけた」と言われた。パリにドローネーを訪ねたクレーやマルクは、対象から出てきて純粋なリズムの方へ向かうキュビスムの形式と、純粋な旋律の方へ向かうドローネーの色彩をもって、ふたたび対象の発言を強調するのに役立つようにした。
 マレーヴィッチは、最初キュビスムとイタリアの未来派の影響を受けた絵を描いていたが、一九一三年「スプレマティスム(絶対主義)」絵画を試み、以後完全に抽象絵画の方向に向かう。「スプレマティスム」絵画というのは、「日常の事物の世界とのあらゆるつながりを断ち切った」絶対的、基本的な造形要素——正方形を中心とする図形群——を画面上に配合する絵画である。
 一時ロシアに帰国し、革命政府のために美術行政の仕事に携わったカンディンスキーが、このマレーヴィッチのスプレマティスムの影響を受けたことは十分考えられよう。後にマレーヴィッチはタトリンと対立し、新しい芸術の指導的地位を奪われることになる。

 近代絵画の本流と離れて、ルソーを代表格とする素朴派と称される画家たちがいる。彼らは視覚に忠実なリアリストたることを念願としていたから、キュビストたちとは全く反対の存在と言わねばならないが、ルソーはキュビスムの首領ピカソや理論的指導者アポリネールによってその才能を発見され、賞賛された。このことは一見矛盾だが、ピカソは黒人彫刻の原始的な強さに心打たれて、素朴な絵画を制作し、キュビスムはこの素朴な芸術から生まれたことを考えれば納得がいく。(ピカソは変転きわまりない画家であるが、中で子供や母子たちの平和な姿を粗描風の表現力のある線で描いた絵は、素朴で感動的である。)
 ルソー、セラフィーヌ、ヴィヴァン、ボーシャン、ボンボアといった素朴派の画家は、美学上の主張とかグループとか運動とかとは無縁であり、彼らが絵を描くに当たって志したのは前述のようにむしろ写実であった。ところが彼らはその経歴、境遇から専門的な教育を受けておらず、目に見えるものより日常的感覚にもとづく関心度や知恵によって描いたので——建物は一つ一つのレンガの積み上げであるし(ヴィヴァン)、木は一枚一枚の葉をもっている(ルソー)——、遠近法的に見れば決して葉の葉脈や壁のレンガの線など描かれないはずなのにそれらは厳然と存在することになるし、ポテト・フライ売りは子供たちの期待を体現して巨大に描かれ、裸婦や浴女は作者の関心を体現して巨大に描かれる(ボンボワ)。こういった事態は表現主義に通じるものになるし、建物の見えない部分もそれへの日常的関心から描いてしまうというようなことは結果としてキュビスムに通じるものになる。
 これらの画家たちはみな高い学歴をもたず、そのことに相応した職歴ののち人生のかなり遅くになってから画家になった——といってもそれまでの職をやめ絵に専念するようになったというにすぎないが——。ルソーはパリ市の入市税関吏員として勤め、日曜画家として余暇に絵を描いた。退職後、乏しい退職金をもとに塾を開いて生活を支えながら本格的な作画生活に入った。ボーシャンは園芸師であった父の仕事を手伝い、種苗栽培に従事した後、46歳のときそれまでの仕事をやめて絵画に転向した。ボンボワは父親が船頭であったので、幼年時代を運河に浮かぶ曳き船の中で過ごした。のち農場の作男となり、身近なものを描きはじめた。そののち旅回りのサーカス団に入り、闘技士として数年間地方を巡業したが、ここでも身近なものを描き続けた。さらにパリに出て地下鉄工事の工事夫、新聞配達などの職につくが、絵を描く昼の時間を確保するため印刷所の夜勤の仕事に変わる。39歳のとき画家になることを志し、批評家ウーデの助力でパリ郊外のアトリエで制作に専念できるようになった。ヴィヴァンは郵便局の臨時職員として、余暇に絵を描いたが、61歳で退職し、以後は絵に専心した。セラフィーヌは少女時代家畜の見張り番を勤めていたが、のち家政婦となって、偶然にも雇い主のウーデに画才を見出される。のち神経を冒され、精神病院で死去する。
 これらの画家たちは、やはり途中から職を捨てあるいは職の遍歴をやめて画家となったゴーギャンやゴッホとまったく異なって、悲劇性といったものをもっていない。また彼らが特別な主義主張をもっていないということに相応して、その絵に象徴性とか寓意性といったものもない。絵は正面から堂々と迷いなく描かれている。また葉の一枚一枚、石の一つ一つを正確に描くということからもわかるように、彼らの絵には忍耐強さ几帳面さというものが感じられるが、こういったことも長い庶民的職業を勤めながら絵を描きつづけてきたことによって培われたものであろう。ルソー自ら書いた略歴には「両親に財産がないのを理解し、まず最初はその芸術に対する嗜好が求めるのとは別の経歴をたどらざるを得なかった。従って幾度も辛酸をなめた後、……」とあり、「幾度も辛い試みを繰り返したあげくに、彼は周囲の芸術家たちにその存在を知られるに至った。」とある。「周囲の芸術家たち」にはピカソやドローネーやアポリネール、ジャリ、ウーデなどがいる。
 休日に絵を描いたことから彼らの絵の世界はおおむね休日の風景であったし、特に絵に専念してからは毎日が休日になったからどの絵にも休日の安らぎが漂っている。人の行き交う通り、子供の遊ぶ郊外、人々の集う「サクレ・クール」、花を摘む子供や女を描いたボンボワの絵のなんと安らかで美しいことか。
 彼らの絵の与える感動は、日々働く人々が週末の日曜日に期待する楽しさが描かれたところにあると言ってよい。彼らは彼岸の「天国」を求めたのではなく、この世の「天国」を描いたのである。

 第一次大戦の勃発により、フランスの画家たちが戦線に赴くと、パリの絵画活動は主として外国系の、特にユダヤ系の画家たちによって続けられることになる。モディリアーニ、キスリング、パスキンといった人たちである。これらの画家はみな憂鬱な表情をしているが、次の時代のユダヤ系になると、スーチンに代表されるような激しくほとばしるような絵になる。スーチンは外見上フォーヴに似ているが、フォーヴの反逆が希望に満ちた若者の生活力と欲望の結果として、自ずと陽気な気分がその中に潜んでいるのに対して、スーチンの場合は陰惨そのものである。
 第一次大戦後キュビスムの反動としてリアリスムが盛んになったが、今度はこのリアリスムに対する不満が次第に高じてきた。その最も強烈な反対は、心の内部にある真実のみを関心事とするシュールリアリスムの主張である。スイスのチューリッヒなどで発生したダダイズムがフランスに移って、ブルトンによって結成されたシュールリアリスムの運動となった。抽象絵画が対象の本質的要素への還元を事とするとすれば、シュールリアリスムは対象の形を保ったものを予想を超えた場で予想を超えた仕方で組み合わせる、という方法をとる。シュールリアリスムの画家と呼ばれるのは、エルンスト、マッソン、ミロ、クレー、ダリ、タンギーなどであり、事実上それに近い絵を描いたピカソ、バルチュスも含まれよう。
 キュビスムは対象から出発して純粋なフォルムを目指していったが、クレーでは逆に、その出発点は単純を極めた幾何学的なフォルムそのもの——矩形、菱形、円、三角形、線などである。しかしこの出発点を変形していくと、さまざまな対象への思い出や連想といったものが起こってくる。クレーは素描を重んじて、線の表現可能性の探求に没頭してきた画家だが、クレーの絵では、線の輪郭をもつ幾何学的な平面が組み合わされると、月とか家とか道とかを表す単純な幾何学的図形になる。そしてそれらの図形が屋根とか道といった個々の特徴のすべてを表現していない場合でも、われわれの心の中にこれらの対象の完全な表象を呼び起こす力をもつのである。クレーは、形や色彩の網の目から彼の思い出の結晶を呼び起こしてくると言えようか。
 シャガールはロシアからパリに出て、キュビスムの影響を受けるが、やがてキュビスムには温かい血の流れが欠如していることに気がつく。シャガールは、対象を立体幾何学的な要素に分解して並べるキュビスムの方法を、対象を分解した部分表象の連想的な結合に応用する。キュビスムが合理的精神に貫かれて制作するとするなら、シャガールはむしろ非合理の世界を発掘しようとして、外部よりも内部を問題とするのである。
 「私は自分の絵画を通じて故郷に忠実であると信じている」と書いたシャガールは、パリに出てしかも故郷との内的接触を絶たなかったが、ミロもまたある時期から新しい絵画の動きを肌で感じるためと、故郷カタロニアの風物との接触を保つために、パリとカタロニアのモントロイグを往復するようになる。
 キュビスムの形体に新しい対象発言への転向を与えたクレーやマルクやシャガールやミロなど、これらの画家たちが目標とするところは、外的な可視性の世界でもなければ、純粋なリズムやメロディーでもなく、みな一様に内的な表象の世界である。
 初期のシュールリアリストであるミロやマッソンの絵は断片的な形と入り組んだ線で描かれているのに対し、シュールリアリスム運動の最後に来たタンギーやダリなどはほとんど写真と思われるような写実的方法をとっている。今日最も高い注目を集めている画家の一人バルチュスもこの写実方法をとっており、一見ルネッサンス絵画への復帰のようにも見えるが、近代絵画上の実験は消化され尽くしており——本人はシュールリアリスムにも抽象画にも批判的だが——、一つ一つ具象的で完結性をもった部分から成る画面の全体は、どこか抽象画のような、謎めいた不思議な雰囲気を醸し出している。

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