詩人たち抄

実朝

 実朝は、遠からず自分が身近な者の手によって殺されることを知っていたに違いない。
 実朝が京都朝廷への親近感をもち続け、和歌づくりに熱中しているだけなら、北条氏にとってまだしも黙視しているに耐えられただろう。しかし定家に師事して和歌を学んだその結果たる『金槐和歌集』を見れば、集中の代表的なものは古今調ないし新古今調というよりは万葉調であり、しかも『万葉集』の歌の土壌が農民的、共同体的であったと言えるとすれば、実朝の歌の主調は武士的、統治者的である。これをもってすれば実朝が政治においても無能、無関心であったとは考えにくい。
 実朝の兄二代将軍頼家の義父比企能員を謀殺し、修善寺において頼家をも斬殺して、着々と権力基盤を強固にしつつあった北条氏にとって、実朝は長く生きていてもらいたくない存在になっていったわけだろう。
 生みの母親に殺されるというのは昔も今も最大の不幸だが、北条政子が実朝を疎んでいたわけではなかったのは、実朝にとってせめてもの救いだろう。

芭蕉

 身の置き所のなさが風狂への道を歩ませたのか、風狂を求める性(さが)が身の置き所をなくさせていったのか。
 芭蕉は若年時武家社会の末端につながることを得たが、主人の病死を機に退身、その後はふたたび武家社会への復帰を求めなかった。江戸へ下った芭蕉は、下町日本橋に居をさだめ、まず市井の俳諧宗匠というかたちで職業的俳諧師への道をめざすが、結局は郊外深川の草庵に移り隠れ、宗匠的な職業俳人から専門俳人への道を選ぶのである。すなわち町人社会に生きる道も選ばず、身分秩序の厳しい江戸封建社会において枠からはみだした世界に進んだわけである。
 その草庵の侘び住まいから、さらに漂白の旅へ——杜甫、西行、宗祇等に心ひかれて旅の中の詩作に生きようと決心した、その最初の紀行文『野ざらし紀行』は
 野ざらしを心に風のしむ身かな
の句ではじまるが、この「野ざらし」とは風雨に洗いさらされた野辺の髑髏のことである。

 最後の旅に病み、夢うつつの中で、芭蕉は枯野をさまよい歩く自分の姿を見る。

 旅に病で夢は枯野をかけ廻る

 何を求めて歩きつづけたのか。芭蕉が言う「妄執」とは結局芸術への絶ちがたい執着であったのだろう。風狂といい、身の置き所のなさといい、文学一途の無償の旅といい、みな同じことなのだ。

蕪村

 佐藤春夫は日本人の風流の根底に「無常感」があり、それは自然の無限大に対しての人間の微少さに気づいたときの日本人独特の感覚ないし情操だったとして、風流文学とは人間の意志を最小限にすることによって、自然に対抗するのではなく自然に抱擁されることをめざした芸術だと言っている。そしてその完成者が芭蕉だと述べたあとで、蕪村の風流は「芭蕉のものに比べてはどうしても『風流の為めの風流』であるかのやうな何物かがある。ありすぎる。」と言っている。(『「風流」論』)
 たしかに蕪村は、耳目に触れてふと口をついて出る句が最初から仕上がっていて、その完成度に自身満足してしまう感があるのに対して、芭蕉は改作を重ね、苦吟した。だから比較して、蕪村の句が浅い感があるということは言えよう。しかしまた春夫の否定的な評価は、蕪村が自然よりも市井の人間に多く寄り添うところにいたということを言っていることにもなり、萩原朔太郎の「彼の詩境(は)、浪漫的の青春性に富んで居り、…どこか奈良朝時代の万葉集、明治以来の新しい洋風の抒情詩と一脈共通するところがある」という肯定的評価に通じるものだとも言えるのである。(『郷愁の詩人与謝蕪村』)
 蕪村は画人としても知られ、その俳句も絵画的な色彩感覚や構図(空間)の遠近法的処理に特徴があるが、また時間の遠近法とでも言うべきものも効果的に用いられていて、たとえば

  遅き日のつもりて遠きむかし哉
  むかしむかししきりにおもふ慈母の恩
  花いばら故郷の路に似たる哉

のような句は、まことに朔太郎の言うような郷愁を誘う効果をあげている。

良寛

 良寛は越後出雲崎の名家の跡取り息子として生まれながら、その責任を放棄して、出家した。備中玉島の円通寺で慕った師のもとに道を究めるが、師法を継ぐことなく寺を捨てて、放浪する。後、乞食坊主さながらの身を故郷にかえして、国上山中の五合庵に入った。
 良寛は「無能」の自覚を重ねて、「大愚」の自覚に至るが、この過程における苦渋のほど屈折のほどは詩(漢詩)の中に多く示されている。他方、和歌では世界との折り合いを得たあとの自適の境地が詠われている。
 良寛の和歌は万葉調であると言われているが、万葉集を尊崇し、実生活の上に立って実景実情を歌い、形式に堕したこしらえものとしての題詠を嫌ったという点においてはその通りであるが、そのなだらかで、和やかな、優しい歌い口はいわゆる「ますらをぶり」ではなく「たをやめぶり」であり、「古今集」以後の伝統的な歌い口(調子)の方にむしろ近い。
 良寛は音調について特殊に鋭敏で、声韻図などもつくっており、まさに音楽的な人であった。否定を重ね重ねた果てに、わずかにでも肯定しうるものを見い出し大事にしていこうとしたとき、音楽的なものがその増幅器として働いたのだろうと私は思う。

尾形亀之助

 尾形亀之助は、働かなければ食えない、この社会で生きていけない、というこの世界の掟そのものを虚妄であると観念してしまった。しかも亀之助はそれを実践した。
尾形亀之助は、実際、「餓死自殺」を口にしていたらしく、最後は自分に即するということの延長線上に「喘息と長年の無頼な生活からくる全身衰弱のため、だれにもみとられず」(思潮社文庫・年譜)息をひきとった。

詩集『障子のある家』の後記は、子供たちと両親へのメッセージになっていて、前者には「お互いの距離がずいぶん遠い。とても手などを握り合っては事実歩けはしないのだ。お前達と私とは話さへ通じないわけのものでなければならないのに、親が子の犠牲になるとか子が親のそれになるとかは何時から始つたことなのか、これは明らかに錯誤だ。」とあり、後者には「さよなら。なんとなくお気の毒です。親であるあなたも、その子である私にも、生んだり生まれたりしたことに就てたいして自信がないのです。……私はやがて自分の満足する位置にゐて仕事が出来るやうにと考へ決して出来ないことではないと信じてゐました。そのことを私は偉くなると言葉であなたに言つて来たのですが、私はそれらのことを三四年前から考へないやうになり最近は完全に捨てゝしまひました。」とある。
この詩集の「自序」には、「まとめたのは、作品として読んでもらうためにではな」く、「私の二人の子がもし君の父はと問はれて、それに答へなければならないことしか知らない場合、それは如何にも気の毒なことであるから、その時の参考に。」とある。

菅原克己

 菅原さんは久しぶりに会うと、「どう、詩は書いてる?」と聞いてくるのが挨拶みたいなもので、「いえ、…書くこともないし…」などと答えると、「何を言う。身の周りを書け。生活を書け。」と言われたものだった。
 しかし身の周りを書く、生活を書く、というのは一番書きやすく、実は一番詩になりにくいものなのだった。
 菅原さんの詩の多くは生活、日常といったものを題材としていて自然主義的と誤解する人もいるけれども、菅原さんの詩に表現された生活や日常は抽象化された結果であるということを見逃してはならない。そう見えないのは推敲が極限までなされていて、やさしく、具体的に、目に見えるように、書かれているからに他ならない。
 しかしまた、題材が生活や日常といったものであることは詩人としての菅原さんを考えるとき重要なことである。菅原さんがかかわってきた労働者文学とか生活つづり方といったもの——広く文学運動といったものがこの面でつながってくる。ぼくなどが詩を書き出したのも、身の周りに題材を求めて詩になりうるということを菅原さんに教えられ、詩を書く楽しみを教えられたからなのだ。
 努力していい詩を書きなさい、でも詩人などにはならなくてもいいよ、そんなものに耐えるのはぼくのような人間でたくさんだ、と菅原さんは言っているような気がする。詩を書くことで、生活をもっと楽しいものにすることができる、それが大事なんだよ、と。菅原克己という詩人は、俺と同じところに来て同じように不幸になれ、と言っていたような中原中也などとは対極にあったと思う。菅原さんの詩は、自分の観念や情緒を形象化するために身の周りの事物を利用するのとは逆に、身の周りの事物や人物の方に作者のすべての体温が与えられている。
 菅原さんにとっての現実は詩の中に吸収(喪失)され、そして抽象化作業の果てにとり戻される。それはその詩を読む者に生きることでの何かを与えてくれるのである。

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