藤井さん家がなくなった
「あんた、それ誰が切ってるの」
「お母さんです」
「下手やなぁ、虎刈りや、ハハハハ!」
母を馬鹿にされて嫌だった。
楽しく遊んでいる子供にわざわざ嫌な事を言いにくることも、いつもの高笑いも嫌だった。
周りに優しい人が多かったから、物言いのキツい人が苦手だった。この頃は大人はいい人しかいないと思っていたから、こういう人に出会うと戸惑うことが多かった。
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「おはようございます」
「あぁ、」
挨拶をしても、大した返事はこなかった。
藤井さん家は集団登校で集まる場所にあるから毎朝会う。挨拶をしたくなかったけど、10歳の僕は挨拶をしない選択肢が頭になかったから毎朝挨拶をした。今思えば、誰にでも笑顔で挨拶をしていた母の影響だ。
「おはようございます」
「あぁ、おはようさん」
中学生になっても、挨拶を続けた。
「こんにちは」
「あぁ、おかえり。今日は早いな」
高校生になっても。
「こんばんは」
「あぁ、おかえり。立派になってまぁ!」
社会人になっても。
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いつからか、挨拶をすると藤井さんは喜んでくれるようになった。よく笑っていたし、嫌な事も言わなかった。
ある日、娘を抱いて妻と実家に帰る道を歩いていると藤井さんに会った。
「藤井さん、こんにちは!」
「まぁ、かわいい!お子さん?そっくりやね!あらぁ、奥さん?きれいな人やね!あなた良い人と結婚したわねぇ。このお兄ちゃんな、小さい頃から毎日笑顔で挨拶してくれてたんやで。おばちゃん嬉しくてなぁ。こんなええ人おらんで。おばちゃんが保証する!大事にせなアカンで!」
捲し立てるように僕を褒める藤井さんに妻は驚いていた。僕も驚いた。あの頃も藤井さんは嬉しかったんだ。
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実家の近くに来たから寄っていこうといつもの道を歩くと、藤井さん家がなくなっていた。
更地になった土地は、家が建っていた時よりも小さく見え、藤井さんとの挨拶も無かったことになるようで寂しかった。
施設に入ったとは聞いていたけど、その先は知らなかった。
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大の苦手だった藤井さんに挨拶をし続けたことが、僕の挨拶の基本を作り上げてくれたと思っている。
難しいことは考えず、こちらは笑顔で挨拶をしていると、いつかその人がこちらを向いてくれることを知ったから。
引っ込み思案な性格が顔を出して邪魔をする時もあるけど、これからも続けていこうと思う。
藤井さん、ありがとうございました。
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