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(読み切り短編)無音が描く幽玄美(後)

 結美と付き合い始めて季節がいくつか過ぎた。
 最初は僕の鈍感さや、女性慣れしていないところに結美が腹を立てることも多かったが、最近はそれも減った。
 お互いを理解して、上手く付き合える距離感やお互いの長所と短所を心得てきたんだろうと思う。

 秋のある日。僕は結美から学園祭に誘われた。
 結美の通う大学の学園祭は冬に行われる。
 僕はお誘いを受けて、見に行くことにした。

 結美はピアニストとして発表会もやりつつ、組んでいるバンドでドラマーとしてもライブを行うらしい。
 ピアノはいつも聞いてるからいいでしょと言われると、文句も言えない。
 本当は両方見たかったが、仕方がないのでバンドのライブだけ見に行くことにした。

 見に行って、僕は「おや」と思った。
 バンドの演奏は、さすがに音大に通っている人たちだけあって皆上手かった。そのままプロになっても通用するんじゃないかとさえ思う。

 僕が気になったのは、結美の様子だった。

 演奏に集中できていないのだろうか。時折首を傾げたり、サウンドを管理している人に何度も指示を出したりしていたのが気にかかった。
 学園祭が終わった後でその話をしたら、結美は少し真剣な面持ちで「そうなのよ」と言った。

「何だか音が小さく聞こえたり、聞こえづらかったりしてね。音量を上げてって言ってたの。練習中でもそんなことが何度かあって、皆に音量を上げてもらってたんだけど、あるとき、これ以上上げたら耳がおかしくなるって皆に言われたの。私はそれでも少し小さく感じられて、変なのって思ってたんだ」

 その言葉を聞いて、僕は嫌な予感がした。
 その後も普段の会話の音量に気をつけながら結美の様子を見ていると、確かに彼女は僕の言ったことに対して聞き返す頻度が増えている。
 あるときは、僕が話しかけても返答がない。声の音量を上げて話しかけて、ようやく反応する。

 大丈夫。大したことではない。
 きっと、そのうち良くなる。

 そのときの僕は楽観的に考えていた。と言うより、悪い方向へ考えないようにしていたのかもしれない。
 しかし現実は残酷だった。

 結美の耳は良くなったように思えない。悪くなる一方ではないか。
 もう黙っていられないと思い、医師に診てもらうことを勧めたが、結美は嫌がった。

 気のせい。今日だけ。用事があるから行けない。

 色んな理由をつけていたが、真実を知るのが怖いのだと僕にはわかっていた。
 きっと結美自身にも自覚症状はあるのだろう。だからこそ真実を知るのが怖いのだろう。
 気持ちはわからないでもない。信じたくない、受け入れたくない現実というのは、きっとある。

 自分に置き換えてみると、僕の手が震えて止まらなくなっただとか、視力が急に落ちてまともに見えなくなっただとか、そんな症状が考えられる。

 僕と結美では受ける期待の重さが違う。
 僕の絵は趣味の延長みたいなものだが、結美のピアノはプロのピアニストになることを期待されている。
 だからというだけではないが、僕は根気よく結美の説得を試みた。病院へ一人で行くのが嫌なら一緒に行こうとさえ言ったが、断られた。

「本当にどうってことはないのよ。放っておけばそのうち良くなるから」

 明るく笑って話す結美を見ていると、そうだといいなという気にさせられる。
 気になるが、明日には、一週間後にはきっと良くなっている。
 何の根拠もなく僕はそう思っていたし、結美もそう言うから信じることにしていた。
 だが、そんな淡い希望が無残に打ち砕かれる日がやってきた。

 結美が恐怖におののくような声で僕に電話をかけてきた。
 興奮して要領を得ないことをまくしたてる結美をなだめながら、僕は話を整理しながら聞く。
 一番重大な情報は、「スタジオでドラムを叩いていても、音が小さく聞こえる」と結美が言ったことだ。
 狭い空間でドラムのような打楽器を叩いていたら、音はかなり大きく響くはずだ。
 音楽スタジオに行ったことがない僕でも、それくらいの想像はつく。
 それが小さく聞こえるというなら、意味するところは一つしかない。
 それに思い至ったとき、僕は思わず電話口で怒鳴った。 

「馬鹿っ! どうしてもっと早く病院に行かなかったんだ! 俺がずっと前から言ってただろう!」

 怯えきっていた結美は、僕に怒鳴られたことで電話口で泣き出した。

「だって、怖くて。本当のことを知ったら、私、どうなっちゃうか、わからなくて。知らない方が幸せなこともあるよねって、自分に言い聞かせてたの」

 僕のせいでもあろう。結美の言葉を信じ、何の根拠もない希望にすがり続けていたからだ。
 自分の判断を悔やむものの、こうなった以上、できることをするしかない。

「わかった、もういい。明日一緒に病院に行こう。嫌だって言っても、引きずってでも連れて行く。逃げちゃだめだよ? 逃げたら別れるからな」
「別れるのは嫌……」

 涙で何を言っているのかわかりにくい上にか細い声だったが、僕はなおも電話口で怒鳴る。

「絶対逃げちゃだめだぞ。明日の朝一で行こう。今から病院を調べる。詳しいことは後で連絡する」
「うん……。ごめんね。私のために、そこまでしてくれて」
「俺こそ、怒鳴ってごめん。結美のことが好きだから、できることなら何だってしてあげたい。それに俺だって、大したことないって信じたい。でもその気持と真実を知ることは別だ」
「うんごめんね……」
「いいから、今日はもう休んで。あとは俺がやるから」

 結美はなおも謝ったり感謝したりしていたが、何とか説得して電話を切った。
 不安なんだろう。自分の人生の根幹、基礎をなしてきた音楽の世界という土台が揺らいでいる。
 絶望が結美を苛んでいて、僕に頼りたいんだろう。もし今、そばに結美がいたら、力一杯抱きしめたい。
 全てを知った後でなら、いくらでも支えよう。耳が良くなるなら、結美が嫌がったって、病院だろうがトレーニングだろうが、何だって付き合う。
 今はただ、最悪の可能性が当たっていないことを祈るだけだ。

   ◆

 翌日。僕と結美は駅で待ち合わせをして、二人で病院へ向かった。
 調べた病院は少し遠いところにある。
 僕を見つけた結美は小走りにやって来て、僕の腕の中に収まった。
 よく見えなかったものの、目の周りが腫れていたように思う。
 泣き明かしたのかもしれない。

「逃げなかったね。偉い」
「別れるのは嫌」

 僕の胸に頭を押さえつけ、いやいやをする結美の背に腕を回す。
 安心させようと髪を撫でる。

「怖いだろうけれど、真実を知らなきゃいけない。俺がついてる」
「うん。一緒にいてね」

 そろそろ周りの目が気になり始めたので、僕は結美を離して「行こう」と促す。
 冬のコートの襟に口元を埋め、結美はうなずく。
 僕が歩き出すと、すぐに細い指が絡められた。
 冷たい指を握り返す。

 僕たちはプラットフォームへ続く階段を上がり、電車を待った。
 目的の駅に着くまで、結美は一言も喋らなかった。ただし僕にぴったりと寄り添い、肩に頭を預け、手を繋ぎ続ける。
 本当は肩を抱いてあげたかったが、人の目があるからそうもいかない。
 会話らしいものと言えば、僕が時々励ましの言葉を言って、結美がうなずくくらいだった。

 目的の駅に着く。
 改札を出ると、駅構内にピアノが置かれているのが目にとまった。
 僕が足を止めると、結美も足を止める。

「あれも、父さんが寄贈したピアノ」
「そうなんだ」
「ちょっと弾いていい?」
「辛くない?」
「うん。大丈夫」

 僕の手から結美の手がするりと抜ける。
 ピアノの前に座った結美は少しだけ何かを考えていたが、やがて弾き始めた。
 それは、僕でも知っている有名曲だった。

 ベートーヴェンが作曲した、俗に言う「運命」。

 余りにも有名で物悲しいその旋律を、結美は無表情で奏で続ける。
 いつもなら感情豊かな彼女らしく、音色だけでなく顔の表情も豊かに変化しながら演奏する。
 なのに今は無表情だ。
 そして選曲は「運命」。

 結美は何を表現しようとしているのだろう?
 聴力を失ったベートーヴェンに自分を重ねているのだろうか?
 それとも、運命など信じないという意思表示だろうか?
 一つ言えるのは、結美が奏でるこの曲の旋律は、凄絶な響きを伴っているということ。
 横顔の無表情さがさらに拍車をかける。
 僕は初めて、結美が抱く恐怖の一端に触れた気がした。
 有名なあの旋律の最後を伸ばすだけ伸ばして、結美は全ての音を止めた。
 立ち上がり、僕の方へ歩いてくる。

「大丈夫?」
「ごめん。ちょっとだけ二人きりになりたい」

 うつむき気味でよく見えなかったが、涙声だったので、僕は結美が何を求めているのかを察した。
 僕は結美の手を引いて、手近なファーストフード店に入った。
 飲み物を適当に頼んで、店内の一番奥まった席を探し、結美を奥に座らせる。
 隣に僕が座ると、結美はすぐに抱きついてきた。
 僕の胸に顔を埋め、声を押し殺して泣く。
 僕は結美を抱きしめ、その背を撫でる。

「聞こえないの。今まで聞こえていた音域が、全然……」
「だから辛くないかって聞いたのに」
「確かめたかったの。もしかしたら今なら聞こえるかもしれない。一緒にいたら何か変わるかもしれないと思って。でも何も変わらない。聞こえないままなの」
「自分を傷つけなくていいよ」
「私、怖い。どうなっちゃうの? このまま耳が聞こえなくなるの? それが運命なの?」

 僕は何も答えられず、ただ力強く結美を抱きしめた。
 それしかできない自分が歯がゆい。
 ただ、自分が悔しい。

 その曲が運命と呼ばれる由来は、ベートーヴェンが彼の弟子に「冒頭の四つの音は何を示すのか」と尋ねられ、「このように運命は扉をたたく」と答えたからだと結美に聞いた。

 ならば、あのときに弾く曲として結美が選んだこともまた、僕たち二人の運命が新たな扉を叩いたのかもしれない。

 病院で結美は僕を付添人として診察を受けた。
 いろいろな検査を受けた結果、僕たちに告げられた病名は、想定していた中でも最悪のものだった。

 突発性難聴。

 その病名は僕も調べて知っていたし、原因の特定は困難を極めるということも同時に聞かされた。
 治るかどうかはわからない。治る場合もあるが、最悪の場合、聴力を失うこともあり得る。

 医師からそう知らされた結美は、絶句した。
 覚悟はしていたのだろうが、それを上回るショックだったのだろう。
 一人で立って歩けなくなった結美を僕が支えて診察室を後にしたほどだ。

 帰りの道中でも結美は心ここにあらずといった風で、見ている僕も辛かった。
 せめてもの支えになれればと、細い手を握り続ける。
 僕の部屋に行きたいという結美を拒む理由などなかった。
 玄関のドアを閉めると、結美はその場に崩れ落ち、堰を切ったように号泣し始めた。
 僕は泣きじゃくる結美を何とか立たせ、部屋へ上げる。
 部屋の真ん中で座り込んでしまった結美の隣へ座り、僕は彼女の震える肩を抱く。
 すると途端に結美が僕の腕の中へ飛び込んできた。
 僕は彼女の背を撫で、髪を優しく梳くことで彼女の気持ちを落ち着けようとする。
 形の良い耳が、僕の顔のすぐそばにある。
 しかしこの耳は、音を拾いづらくなっている。

 大丈夫、きっと良くなるなんて、気休めでも言えない。言ってはいけない。
 何の根拠もない慰めの言葉が、どれほど人を傷つけることか。
 まして結美は、小さい頃からプロのピアニストになるべく育てられてきた。本人の希望はどうあれ、その事実は変えられない。

 生きることに絶望している今の結美にかけられる言葉が、この世にどれほどあるだろうか。

 自分の無力さに打ちひしがれる。
 それでも今は結美を支えなければならない。
 一番辛いのは僕ではなく、結美なのだから。

 頭の中では、「運命」のメロディが鳴り続けている。
 結美はどんな思いであの曲を弾いたのだろう?
 運命とは何だろう?
 結美の背を撫でてやりながら、僕は考え続ける。

   ◆
 
 日本画の一つに、水墨画がある。
 紙に墨の濃淡だけで絵を描くというもので、引かれる線は必要最低限しかない。
 それでも完成した絵を見れば、そこに描かれているのが何なのかちゃんとわかる。
 絵の具を使わないから、色は紙の地の色と、墨の黒だけ。

 僕は日本画の中でも、特に水墨画に心惹かれている。昔からそうだったが、結美の耳が聴力を失いつつあると知ったとき、その理由がわかった気がした。

 幽玄の美なのだ。

 これ以上ないほどに色と線を削り、それでいて一服の絵に仕上げる。人の世に諸行無常を見出した昔の日本人が導き出した、日本画に於ける極地ではないかと僕は思うようになった。
 線が引かれていない隙間は、当然ながら紙の地の色だ。だが仕上がった絵を見れば、何も描かれていないそこに人は何かを見出す。

 例えば水墨画の巨匠である雪舟の絵に「紙本墨画秋冬山水図」というのがある。その冬景図は、墨の濃淡で山々や木々、そこに積もる雪を表現している。
 そこには何も描かれていない。しかしその絵を見れば、そこに雪が積もっていると誰しも思うだろう
 無と呼ばれる空間に、日本人は有を、美を見出した。

 そこに僕は心惹かれる。
 その頃から僕の絵は変化を見せ始めた。
 鉛筆画を描く際には線をたくさん引いていた。その線の数を減らし始めた。
 一本の線の濃淡にこだわり始め、そのうちに鉛筆では満足できなくなり、筆と墨を使うようになった。

 雪舟のような巨人には足元にすら及ばない僕だが、彼の開いた境地の一端にでも手をかけられればと思い、絵を描くようになった。
 それはどこかで、結美の世界から音がなくなるという現実と通じる気がしていたからだと思う。

   ◆

 結美の耳は、少しずつ音をなくしていった。
 音が聞こえなくなるにつれ、結美は口数が少なくなり、楽器を演奏しなくなった。表情からも笑顔が消え、いつも落ち込んでいるような、憂鬱そうな顔をしている。
 僕との会話も少なくなり、連絡も途絶えがちになり、ついには自宅から出たがらなくなった。
 僕が送ったメッセージは見ているようだが、返答は減った。
 何より駅構内から、あの美しい旋律を奏でるピアノの音が消えた。

 結美が手首を切った。
 手首だけでなく、指と手のひらをズタズタに切りつけたらしい。
 カッターナイフではなく、包丁を使ったと聞いた。
 つまり傷が深い。場合によってはピアニスト生命が終わるかもしれない。
 発見が早かったから命に別状はないそうだが、手指を動かすことに障害が残るかもしれないと医師は言ったそうだ。
 それらの話を、僕は結美の父の研吾氏から電話で聞かされた。

「入院はしているが、経過を見るためだ。すぐに退院することになる。しかし自宅に置いておくとまた自殺未遂を起こすかもしれない。精神科の病院を探して、心のケアを優先しようと思う」

 通り一遍の言葉を返し続け、研吾氏との電話を終える。
 胸の内にある感情は怒りだ。

 結美の馬鹿野郎。死ぬつもりだったのか。
 死んで何がどうなるんだ。残された家族はもちろん、僕の気持ちはどうなるんだ。

 今、目の前に結美がいたらそんな言葉をぶつけていただろう。同時にそんな言葉をぶつけても結美の聴力が戻るわけがないことも、よくわかっている。

 今の僕には何ができるだろう?
 心身ともに深く傷ついている結美の力になれるような何かとは?

 考える。時間が経つのも忘れて、ひたすら考え続ける。
 ある時、結美を描き続けたスケッチブックが目に留まった。
 僕はそれを手にとって、めくり始める。
 その絵を見ていると、頭の中に音楽が流れ始めた。
 出会った頃の結美が奏でる美しい旋律がよみがえる。

 あれほど感情豊かに音を奏でるピアニストを、僕は結美以外に知らない。
 ドラム演奏は余り見たことがないけれど、それでも結美は楽しそうに演奏していたように思う。
 ピアノと比べて音の変化に乏しい楽器ではあるものの、それでも結美は楽しそうだった。
 もしかして結美も心のどこかでは、ドラムという打楽器の音の中に幽玄の美を見出していたのかもしれない。
 そう考えれば、僕にできることは一つしかない。

 紙と墨を取り出す。
 僕はスケッチブックを目の前に広げ、筆を取った。

   ◆

 結美が退院して数日後。
 どうしても会いたいと結美に連絡を入れ、部屋まで来てもらった。
 憔悴しきった結美は生気の抜け落ちた顔をしている。
 艶をたたえていた黒髪も傷んでいたし、何より手と手首に巻かれた包帯が痛々しい。
 僕は結美と腕を組んで部屋まで歩いた。結美は沈んだ面持ちで少し遅れて僕の隣を歩く。
 部屋に招き入れて座ってもらう。お茶を用意して、僕は結美の隣に座った。

 湯呑に手を伸ばそうとしない結美に、僕は彼女の両手を取って湯呑を包むように持たせた。
 そうしてから僕は片手で結美の肩を叩き、もう片方の手で自分の湯呑を持った。
 結美がちらりとこちらを見る。
 僕は自分が持つ湯呑を掲げて「飲もう」と示して見せた。
 一口飲んで見せる。
 結美も諦めたように湯呑を口に運ぶ。
 一口だけだけれど、飲んでくれた。
 僕は嬉しくなって結美の頭を撫でる。
 照れてはにかんで、結美はうつむく。
 立ち上がって、僕は一枚の紙を持ってきた。結美の隣に座り直し、その紙を広げて見せる。
 結美はそれを見てすぐに顔を背けた。
 僕がそこに描いたのは、ピアノを弾く結美の姿だった。ただし鉛筆画ではなく、水墨画だ。
 引く線の数を極限まで減らし、墨の濃淡で表現したピアニストの結美の絵だ。
 結美の肩が震え始める。泣いているのだろうか。残酷なことをすると思っているのかもしれない。

 でも違う。僕が伝えたいのは過去の美しさじゃない。

 僕はスマホを手に取り、メッセージアプリを起動して言葉を書き連ね、結美に向けて送信する。
 結美がスマホを取り出し、それを見る。はっとした顔で僕を振り返ったその頬には、涙の筋があった。
 僕は一つうなずいて見せ、今度は雪舟の絵を検索して結美に送る。
 結美もそれを見る。「これが何?」 という顔で画面と僕の顔を交互に見るので、僕は次にある言葉を検索する。

 幽玄。

 その検索結果を結美に送信し、僕はメッセージアプリを開き直して言葉を打つ。
 結美はじっとスマホの画面を見つめている。
 その間にも僕は次々とメッセージを送り続ける。

 日本人は無の中に有を見出し、そこに美を感じ取ったんだ。
 それを絵で表現したのが水墨画。その大家が雪舟だ。
 同じことを音楽でも表現できないかな?
 結美は確かに、今、聴力を失いつつある。無音の世界に行こうとしている。
 けれども、そこには新しい世界が広がっているんじゃないかな?
 音がはっきりと聞こえていた頃の結美には、ピアノの鍵盤を押せば出る音は決まった音でしかなかったはず。

 例えば「ド」の音が出る鍵盤を押せば、そこから出る音は「ド」という高さの音でしかなかったはずだ。
 それが音の聞こえる世界に生きていた頃の結美の音だとすれば、音の無い世界に行こうとしている今の結美にとって、その音はただの音の高さを表す「ド」なのかな?
 俺には今の結美が奏でる音は、きっと以前の結美では表現できなかったものになると思えるよ。

 自分の中から湧き上がる新しい音を表現してみようよ。

 結美に現実の音は聞こえないかもしれない。でも俺には結美の奏でる音は聞こえる。
 結美の奏でる音を俺が聞いて、それを絵にする。
 無音の世界の結美が奏でる幽玄の音を、俺が水墨画っていう幽玄の絵で表現して見せる。
 結美は今まで聞こえていた音は失っても、幽玄の音を手に入れたんだ。

 無音の幽玄の美を、俺が描く。
 一人では表現できない音楽を、俺と一緒に表現しよう。

 それはきっと、今の、そしてこれからの結美にしか表現できない。
 世界でたった一つの音楽になると思うよ。それができるのは俺と結美しかいない。

 結美は頬を伝ってこぼれ落ちる涙を拭いもせずに、僕が送り続けるメッセージを見つめている。
 最後の文を送り終えた僕は、黙って結美の横顔を眺める。
 結美は動かない。スマホの画面に涙が落ちても、画面が暗転しても。

 しばらくして結美は、一度顔を背けた僕の絵に視線を向けた。
 包帯を巻いた両手で、その絵を取る。
 愛おしそうな手付きで、絵と線を撫でている。
 僕は結美の肩を抱いてこちらに引き寄せた。
 頭を僕に預けても、結美はなお絵を撫でている。そこに描かれたピアノと、自分を。

 やがて結美が僕の顔を見上げた。涙は今も、少しやつれた彼女の頬を伝い落ちている。
 僕は結美の髪を耳にかけてやる。

 その時に気付いた。
 唇が荒れている。
 僕は結美の涙を親指で拭って、そのまま唇をなぞった。
 結美はされるがままだ。
 上下の唇をなぞってから、僕はたまらず唇を重ねた。
 荒れた唇と微かに濡れた感触が愛おしい。
 結美も両腕を僕の背に回す。

「あ……」
 息苦しくなって離れた結美の唇から、吐息と共に言葉が漏れる。

「ああ……」

 僕の背に伝わる力が強くなる。

「ああ……!!」

 大泣きしたあのときのように、結美は声を限りにして泣く。
 だが、あの時の涙とは意味が違うと僕は思う。
 かつて絶望を意味したそれは、今は希望の涙に変わっているだろう。

 そうあって欲しいという僕の願望でしかないが、なぜか僕は結美もそう思っていると確信している。
 子供のように泣きじゃくる結美の背を、僕は優しく撫で続けた。

   ◆

 それから間もなく、結美は研吾氏とともに海外へ旅立った。
 耳の治療のためだ。

 見送りに行ったときの結美は、余り暗い顔をしていなかった。
 僕は旅の手土産にと、これまで描き溜めてきた結美の絵を全部渡した。
 それから、結美以外の絵もいくつか。
 結美は嬉しそうにそれを受け取り、笑ってくれた。
 僕と結美は最後にきつく抱き合い、手を振って別れた。

 耳が完全に聞こえなくなっても、結美はきっと絶望しないだろう。
 無音の中にある幽玄の美を知ったのだから。
 その美を絵に描き起こすのが僕の役割なのだから。
 僕たちは二人で一人の芸術家なのだから。

 空の彼方へ消えゆく飛行機に手を振りながら、僕は海外留学を決めた。
 結美に会いに行くためだ。

 日本画、水墨画がメインだが、海外の絵の技術にも参考になるものがあると思う。
 結美と二人で作り上げる音楽と絵は、水墨画という範疇で収めてはいけない。
 あらゆるジャンルの絵の技術を貪欲に取り入れながら、それでいて線の数を極限まで削り、墨の濃淡で表現する。
 そういう絵こそが、僕と結美の作る音楽だ。

 僕らの前に広がるのは絶望の荒野ではない。
 まだ誰も歩いたことのない、希望の原野だ。

 完