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私の生い立ち


幼少期の頃

私は、2歳離れてれている上の妹と8歳離れている下の妹2人の

3人兄妹の長男として生まれました

父は現在ある小さな有限会社の社長で母は父の会社の会計・経理をしております父は一左官職人から小さいながらも会社を作った叩き上げの超ワンマン社長で父である社長がすべての決定権を握りすべての意思決定を行ているおります。

(※ ちなみに有限会社は現在は立ち上げることは法律によって禁止されております。現在既存の有限会社は特例有限会社となります。)

(物心つく幼少の頃からガラの悪い自分よりも30も40も50も年の離れた怖そうな左官職人のおじさん達が自宅に何度も出たり入ったりしているのを昨日のように思い出します。※自宅=父の職場、だった事もあります。

そんな周りの左官職人のおじさんたちは、よく自分に対して、

「将来は、父親の後を継ぐんだろ?」「継がなきゃ親父さんが可哀そうだろ!」「あんたが継がないで誰が継ぐんだ!」常に周りの人たちに言われ続け、自分の父親に対してにも周りの職人たちから「跡継ぎが出来てよかったな!」とか「これでこの会社も安泰だよ!」とか父に対して他の職人達から持てはやされていたのを覚えております。

今過去を振り返ってみれば、周りの職人さん連中もこれらの発言は、その人達の無責任な発言であることが年齢を重ねる事によってわかってきましたが、当時の自分は周りの大人達が勝手に思い込んでいた思い込みに振り回されていたようにと思います。子供は、特に長男は家の後を継ぐべき、家が商売してたら家の家業を継がなければならないという世間的な風潮が根強く残っていた時代でもあります。又、当時まだ幼lあった私は、当時産まれたばかりの妹と共に夫婦喧嘩を目の当たりにしてます。当時の父はなにかあるとすぐ母を殴ったり物に当たってよく食器やお皿などがよく破れたりしました。
いまから思えば今で言う面前DVだったんだろうといまでは思いますいまでも怒っている時の父の顔が今でもまるで鬼のような顔つきで怖かったのを覚えております。

親も、特に父親も母親そのような思い込みや価値観が会ったのかもしれませんが親も含めた大人・世間のレールに自分は半ば半信半疑で強制的に乗せられていたような感覚を覚えます。

そのため家では、如何にか後を継がせようと自分はかなり厳しく育てられました。やがて物心がつくようになると幼稚園をへて地元の小学校に通うようになります。(※ 違う区の小学校に父の仕事の都合で転校します、小学校2年のときでした)いずれは自分に全てを託したいと父も母も思っていたのかもしれません。

小学校・中学校・高校と苛めを受けた日々

小学校・中学校・高校に入学したものの勉強について行けず当時の自分は頭も悪く学校の通信簿はいつも1又は2のどちらかしかなく運動のセンスも悪く運動会の徒競走等でもいつもビリでした。

さらに親が会社を経営していることもあってか、心無い事、具体的には、「良いよなーお前の家はちょっとした金持ちでボンボンで何不自由なく暮して行けてさ」とか「どうせ家で親が欲しい物買ってくれたり好きな物を食べて贅沢とかしてるんだろ」

とか家の内情もよく分からない人たちもたくさんいました。しかし実際は、家の経営状況は厳しくギリギリ経営が出来てる状態でそれほど裕福と言うわけでもなかったのです、

しかしそんな事情は第三者の人達には、わかって貰える筈もなく、むしろそれを理由に転校先の小学校の同級生から、苛めを受ける様になりました。それは、小学校を卒業するまで続きました。

しかしこれだけではなく、中学校でも、学年の高い先輩やクラスメートから苛めを受けたのです。特によく使い走りにされる事もありましたし部活でしごかれる事もありました。部活では特に今は理不尽と思えるような無茶なしごきが普通に行われていた時代でもあり、例えば部活の方では特に体育会系の部活では、真夏の暑い日に、先輩部員が水分も補給せずに練習に励んでいるのに新入部員のの人は、先輩部員が水分を補給するまで水等を飲むことは許されなかったり又部室に入る時や帰る時も先輩部員よりも早く来て遅く帰るのが当たり前という何とも理不尽なしきたりの様な思想があった時代でもあります。昭和の顎りでしょうね。今こういう指導をしていたら真っ先にパワハラ等で訴えられます。時代錯誤も良い所ですね。(泣)


高校生になってからはいくらかマシにはなりましたがそれでも高校生になると今度は、お金をせびられたりむしり取られたり強制的にギャンブルに誘われてカモにされた事もあります、また友達だと想っていた人から言葉巧みに言いくるめられて借金の保証人(名義貸しをしてしまう)なってしまった事も、更にそして高校に入ると半ば半強制的に父の会社を手伝うようになりました。

(※ 実は高校と言っても、定時制(夜間)高校にぎりぎりで合格できました。夜間に通う学校だったので定時制高校は4年通わなければならなかったのです。)

そのため昼間は午前の8:00~午後の16:00頃迄汗と泥にまみれてひたすら肉体労働に従事しなければならなかったのです。朝は、午前の5時頃から起こされて支度をして所定の集合場所まで6時に集合しなければならなかったのです、集合場所に着いたら、その後、割触られた現場にトラックに乗せられて現場に向かいました。遅くとも午後16時頃には、切り上げて学校に向かいました。学校は17:30登校なので午後16時頃に上がらないと学校に間に合いませんでした。(当時は父の会社に当時は学校に通う為、バイトの身分として手伝っていました。)

今から思えば両親は元から病気がちで体の弱かった自分の事を少しでも仕事を通して体力を鍛えてやろうと言う思惑があったのかもしれません。それからもう一つ自分は学校の成績が相当悪い劣等生だったのでこの子は馬鹿だから親の言う通りに生きれば幸せになれる慣れると本気で思いこんでいたのかもしれません。

高校生の時に糖尿病が発覚

そしてついて無い事に、高校在学中の時に糖尿病が発覚しました。当時まだ17~18歳だった自分にとって信じられないと言うか信じたくないという気落ちがありましたが高校の時の保健の健康診断の先生によってあなたは普通の血糖値が通常の三倍あるよと実際に数字で示したデータを見せられて心の中で愕然としたのを覚えております。

何で俺がそんな病気に罹るんだ、とついて無い自分を呪いました、ともあれ罹ってしまったものは今更どうしようもなくその日を境に飲み薬による血糖降下剤と厳しい食事制限を余儀なくされました。( ※ 後に35歳ぐらいにインスリンの注射もはじまる) 当時は、若くしてなる糖尿病はおそらく自分が4歳5歳ぐらいの年齢にかかっていた可能性もあります。この場合は、1型糖尿病といわれて本人の不摂生や自己管理のせいではなく遺伝やストレス等の複合的な原因でなる場合があります、非常に稀なケースであります、しかし当時まだ昭和から平成の移り変わりの時期でもありその頃は、「糖尿病なんて贅沢して旨い物ばかり食べてたんだろ‼」と言う風に揶揄され馬鹿にした意味で贅沢病と言われていた時代でした」当時は恥ずかしくて誰にも打ち明けることが出きずしられてしまった場合さらに馬鹿された時代でした、その為今当時の自分を振り返ってみると非常に暗い顔をしてどんよりとした捻くれた性格を漂わせていたと思います。

やがて定時制と言えど、どうにか4年かけて高校を卒業した私は、本格的に父の会社に半強制的に入社させられました。本当は大学もしくはコンピューターや音楽関連の専門学校に出来ればなにかギターやベースを習いたかったのですが思いきっって相談して手停的にバカにされおまえは元から頭がわるいんだから大学に受からんだから私達の言う事を聞け創すれば悪いようにはしないからうまく良い包められて当時は父や母が怖くてきちんと言う意思表示ができなく表現力も乏しかったせいもあります。(今思えば、親の威圧や無言の重圧に負けてしまったんだと思います。それから、当時の自分は言いたいことが禄に言えず表現力や言いたい事をうまく喋れずにいた言葉の乏しさもあります。)

本格的に入社してからは周りの職人たちはワザと誰にでも出来る様な雑用ばかり遣らされ仕事を一切覚えさせようとはしませんでした。時には、一日やっても単純な作業が終わらず夜中の12時まで現場に残る事もありました。そしてそんな自分を見て周りの人は、馬鹿にしたような蔑んだ見下した目線で笑っているのを見て自分は徐々に自信も自尊心も失って行き精神的にもボロボロの状態でした。(当時はまだ20代の若造でしたので)

当時私は、父親の経営している職場で、一従業員・一作業員としても働いてもきましたがその父親の職場で周りの職人達から壮絶な苛めを受けてきました。むしろ高校を卒業し社会に出てからが本当の地獄のような毎日で殴られる、蹴られる・罵倒され怒鳴られ・馬鹿にされ・揶揄されて半ばそれが、日常茶飯事であり時にはわざと誰にでも出来る雑用を大量に押し付けられたり時には、「お前の様なボンボンの無能なんかが仕事覚えなくったっていいんだ!」と嫌な顔をされて嫌味を言われる事も、だからと言って手持無沙汰になって暇になるとその辺の人に「何か私に出来る事は、御座いませんか!」とお伺いをたてても冷たく無視されたり、しかし、かと言って何もやらないでいるとすぐに殴られたり蹴られたりしました。時には疲れてボ~として居ると、板切れや棒っきれ等で殴られたこともあります。今思えばその時は、良く死ななかったな思います、その時はヘルメットを被っていたとは言え、打ち所が悪かったら私は、確実に死んでいたかもしれません、まさに今で言うブラック企業その物でした。

今思えば社長のご子息と言う立場も周りの職人達にとっては非常に面白くなくなかったのでしょう、その人たちの不満や妬みややっかみが爆発して全部自分に集中して降り駆っていたと今では思っています、そうして皆から不満のはけ口、感情のごみ箱にされていたように思います。自分が甘かったという部分も少なからずあっても、それを差し引いても当時の職場環境は最悪で自分に取っては地獄の様な日々を送りました。

結局社長である父には怖いから父に対して、職人さん連中は、何か不満があっても、面と向かって社長である父に対して物申す勇気がなく父に不満を言えない鬱憤を自分の事を苛める・又は陰湿な嫌がらせばかりする事で日ごろの鬱憤を晴らしていたんだなと今では思っています。今となっては余りにも卑怯すぎると今では思っています。

そしてあまりに苛めや嫌がらせが陰湿すぎるし酷いので思い余って社長である父親や母親に思い切って相談したこともありました。

しかし当の父親はこの時「お前がだらしないからだろ!・舐められてんじゃねーよ!舐められるお前が悪いんだよ!」とまるで苛められるお前が悪いとでも言わんばかりに突き放されました。当時の母親ですら「そのような人達からでも学べる事は沢山あるんだ。もっとしっかりしなさい親に助けを求めるなんて世の中甘くはない!今が試練の時だ、此処をどの様に乗り超えられるかあんた次第だよ!」とまるで、お前が弱いのが悪いと、言われてるような気がしました。

結局父親も母親も自分のつらく苦しい気持ちは一切聞こうとせず話すらまともに聞いて貰えずむしろ父は、自分の話より、他人の話ばかりに鵜呑みにして信用ししまう父はいつも従業員や作業員や職人の言っている事ばかり鵜呑みにして信用してしまう有様でした。時には従業員の職人連中から自分が以下に使えず無能弱ばりされて父にそれとなく自分の悪い印象を植え付けるかのようにあらぬ噂が飛び交い父の自分に対するイメージはすっかり無能で使えない奴とのレッテルが貼られ他の取引先やお偉方と合わせる時も自分の子供に対してバカ息子弱ばりして頭を叩かれながらあいてに紹介され、仕様もない道楽息子弱ばりされながら何度も頭を叩かれたことがあります。と母も母で当時は、そんな父の考えに迎合していたように思います。(※ 後に現在母親だけは、「当時はお前には、非常に残酷で可哀想な事をしてしまった、すまなかった、ごめんな」と言葉だけは詫びを入れてくれています)

その頃の自分は、その時から家族や両親・兄妹がいても自分には誰も寄り添ってくれる人も居なければ両親でさえ100%味方になってくれなかった絶望しかありませんでした。心の中ではいつも寂しく孤独な気持ちを抱えていたのです。

私の父の性格・人格そして母もよくも悪くも太平洋戦争によって幼少期の頃に悪影響を受けてしまっている。

父の性格を一言で言うと非常に頭に血が上りやすい短気で頑固一徹の昭和の世代に良くいた昔堅気の職人気質の性格です。それこそマンガやアニメで有名な巨人の星に登場する星飛雄馬の父親である星一徹を現実にいたらこんな人間になるのかというような非常に古いタイプの人間です。昭和の世代の頃と言うと父が物心つく4歳~5歳ごろに太平洋戦争が終わって戦中・戦争後の物不足の混乱した時代を生き抜いてきた世代の人なので、その時代を生き抜いたせいも在って戦争中又は戦後の混乱期を生きてきた世代にとって弱さ=死を意味していました、だから生きて生けない弱い奴は食べ物を得る事も満足に出来ずに餓死してしまう人たちが沢山いました、その為、幼い子供と言えども当時子供だった父・母の時代の時の親は、子供と言えど、甘えることを一切許さず子供であろうと個人個人が嫌でも強く逞しくなければ生きて生けない世代が父や母たちの世代でした、その為、頑張る事や努力・我慢や忍耐が美徳とされとされてきた時代であり、努力が足りないと怒られ頑張れと発破をかけられて、甘えたくても甘える事のゆるされないと言うような根性論で父も母もその様な価値観で頭ががちがちに凝り固まっていたようです。

母も母で非常に正義感が強く曲ったことや道理に合わない事や筋をとおさないやり方はは徹底して嫌う性格で父に負けず劣らずの頑固な一面を持ち一度決めたことは頑として曲げない融通の聞かない性格でした。おまけにかなりの完璧主義者でほんの少しでも相手のやり方や気に食わないところがあれば過干渉なって洗い物一つ取ってもなにかあるとちくちく言われ続けて家の中でもだらしない格好やラフな格好は許せない人でよくもっとちゃんとした格好をなさいお客さんが来たらどうするの、とよく怒られました。又、よく家では喧嘩が絶えませんでした幼少期の頃は家具や食器棚等倒れて割れていたりするのも一度や二度じゃありませんでした。(今で言う」門前DVというやつです。)さらに言えば母も父も理屈っぽい所もあり物箏のあらゆる事はすべて正解が存在すると言う思い込みを持って要るようです。その為いつも母には都合のいいように言いくるめられて一度も父や母にも口で勝った事は一度もありませんでした。当時は夕食時には父から長時間の説教と怒鳴られ怒られ夕食が終わっても4時間でも5時間でも父の機嫌が収まらず余計なことを言うとかえって怒りに火をつける羽目になり精神的に非常に疲弊してやっと終わってベッドでぐったりしていました。そんな母は父の背教を間近で見ていても何のフォローも助け船を出す糊塗せずそれどころか父と一緒になって責めてきてくる事あり挙げ句の果てには・・・・

父は中学卒業後、家計と父の母(私に取っては祖母にあたる)と当時複数いた幼い妹達を全員養う為に進学をあきらめ、すぐに左官職人見習い(丁稚)に働きに出されてました。おまけに父は東北訛りが酷く又、語彙力やボキャブラリーにも非常に乏しい人でしたので会話も上手くなく表現力も上手いと言え無い様でした(※ 今でも酷いです)それで幼少時の私に対して口汚くよく東北訛りのドスノ効いた地声でよく自分を罵って怒りを露わにしました。(※ 恐らく中学しか卒業する事しか出来なかった事が後に、学歴コンプレックスになっていると思います、これもより高度な教育を受けることが出来なかった一つの弊害だと思います。)その為会社でも社長と言うよりも職人それも一癖も二癖もあるあれくれ者を束ねて統率するような親方と言うのような感じでした。(※ 悪く言えば脳筋タイプの人で感情だけで物事を考えるタイプだった様に思えます)

そして小さい頃は、些細な事で良く頭をグーで殴られていました具体的には調子にるな!とよく言われて叩かれていました。、母からも小さい頃は良く尻を叩かれていました、今は、自分は大人として成長もしたせいなのか、最近は父も滅多な事では手を上げる事は無くなりましたがその代わり言葉の暴力等の精神的攻撃が酷くなってきました。


また当時自分はまだ17歳から18歳の年齢に不相応な無茶な肩書きも与えられてその働きに見合わなかったら父からしかも大勢の前で遠慮無く思いやりのかけらもないような罵声と怒声が飛び交いしかも親子でもありますから余計に容赦無く罵倒されされました。余りの口汚い暴言に思わず涙を流すと、「男のくせにめそめそしやがって、今度俺の前で泣いたら殴り飛ばすぞ!」と脅されたことありました。恐らく自分を怒鳴り罵倒することによって周りの職人達に対する見せしめのつもりだったのかも知れません、又実の息子に対して怒り易い怒鳴りやすいと言うのもあったのでしょう、また父にとっては、たとえ親子だろうが息子だろうが容赦無く怒る時は怒ると言う所も職人達に見せつけたかったのかもしれません、それでもやはり当時の状況は本当に涙が出そうな程相当に辛く大勢の前で徹底的に恥を欠かされました。逆に職人連中はこう言う場面を見て完全に私は周りから完全に馬鹿にされ舐められるようにもなったのです、(※ 当時は周りの職人連中からも、職長とか専務とか、からかい混じりに言われていました。)自分には何の権限もないと周りはわかっていながら、周りは、それを、囃し立てる様にからかってきたのを嫌でも思い出してしまいます。当時は自分の考えが甘く未熟すぎた事も原因です。

その様な、父のような古い昔気質の体質の会社又は、職人上がりの社長等が経営する会社だと例えば教わるよりも慣れろとか、仕事と言うのは教わるよりも体当たりで見て盗むもんだ、と言う価値観が蔓延っているような気がします。それに確かにそれも一つの方法に違いはありませんが、これでは仕事を通して自分が成長したくても時間ばかりかかり最悪何にもスキルを学べず技術も身につかずに、どこにでもいる誰でも出来る雑用しかさせてもらえずスキルや技術を習得することも出来ず人格的にも成長もさせて貰えなかった。という苦い経験しかさせて貰いませんでした。

少し話は逸れますが、今仕事で、人財が居ないという方、これを読んでいる人に、少し、厳しい事を、言わせてもらうと新人等に対してろくに教えようともせず、小間使いのように使い捨て要員の如く、面倒で曖昧な雑用ばかり押し付けておりませんでしたか?

※ 中には、論理的な説明や理屈で教えるのが困難な職業や職種もあると思います。(※ 父の会社でもある左官を生業とする会社もそのケースです。)

その為にせっかくの様々な未知の可能性と言う名の種が種を出す前に摘み取られてしまい次第に段々とやる気も覇気もなくなりその

仕事を嫌いになって辞めてしまう人たちを自分自身も沢山見てきました。そして実は、自分もその一人でした。


そして余りにも職場の苛めや陰湿極まりない嫌がらせがひどすぎるのでそれに耐えられなくなり逃げるように

一時期会社を辞めて離れる事にしました。

このままでは自分は完全に壊れてしまうと思ったからです。

今思えば、うつ病の前兆の様だった気がします。

他のバイトに明け暮れる日々

父の会社から離れるにしたがってとにかくバイトでもいいからとにかく働かなければと思い幾つか派遣会社に登録して彼方此方でバイトを転々とする毎日を送るようになります。

此処で何故派遣会社に登録となったのか、タイミングが悪いというかとことんついて無いと言うべきか丁度自分達の生まれた世代は就職氷河期にぶち当たり父の会社を離れても他に雇ってくれるところが何処にも無く

やむを得ず派遣のバイトで糊口を凌いでいました。

ちなみに派遣バイトは6~7年位続けていたと思います。

ただ派遣バイトでどんなに頑張って働いても給料は安くこんな給料じゃあこれ以上は、生活できないと思い非常に嫌な苦渋の決断でしたが、結局父に頭を下げる形で再び父の会社に再入社する事になりました。当時は生きるためにやむを得ない選択でした。

当時の自分の年齢は29歳だったと思います。

再び父の会社に再入社

その時は会社の中で一人で作業できる仕事をあてがわれましたが( ※ 詳しい仕事内容は此処ではは省きます)しかし今度は誰にも助けてもらえなくなり、手を貸してやろうと言う人は一人も居ませんでした、たった一人孤独に車を使って各地の現場を回って孤独に作業する事になりました。たまに助っ人が来るには来ますが自分の仕事の邪魔ばかりして足を引っ張ってばかりで自分を助けてやろうなんて思いやりのある人は手で数えられるくらいほんの僅かな人だけでした。

然し今の仕事を続けて多少成れど実績を作ればいつか父に認めてもらえるのではないのだろうか?と言う淡い希望もあったのかも知れません。

ちなみにその現場作業は、自分が35歳ぐらい迄続けていました。

脂肪肝で緊急入院

そんな時ある日、自分の身体が特に足に異変が起こります。足がまるで大根のようにむくみ出したのです、これは尋常では無いと察した母は、救急車を呼んで病院に連れて行ってくれました。診断の結果は脂肪肝(肝臓に脂肪がたまる病気です。また同時に以前高校から患っていた糖尿病が悪化しているとの診断を受けて暫く教育入院する事になってしまいました。長年に亘って貯めてきた極度のストレスのせいなのかもしれません。およそ3~4か月位入院生活をしました。

40近くになった自分は元々体力もあまり無く無理の出来ない体になったので、現場仕事を実質引退になりました。

37歳でストレスによる、鬱病発症

ある日気分がどうしても優れないと思いました。

ひたすら凡ミスを繰り返し、出来ていたことがなぜかできなくなってしまいました。気分的に何かおかしいと自分で気づいて精神科を受診することになり鬱病と診断されましたそれも相当重傷で酷いと診断が下ったのです鬱病の薬を処方され休息を余儀なくされました。

うつ病になってから毎日体が重く感じられ何を食べても砂でも噛んでいるかのように味気なく周りの景色も何か灰色の様な感じがして来たのを思い出します。

かと言って、やる気も起きず無気力と化しペッドに寝ては起きるという事を何度も繰り返します。何日も寝れない日が続きました

こんなに人生辛いならいっそ死んで楽になりたいと言う思いが何度も頭を過ぎりました。

その後その精神科医の紹介でカウンセリングも受けました。

カウンセリングを受けて自分の話の辛い余りにも過酷な状況をを此処まで聞いてくれたことは今までにない初めての経験でした。

そして、精神科医の女医さんも「同じうつでもあなたは相当酷い、今の貴方の状態は周りの人間・家族や兄妹も含めて全てが敵になっている。今のあなたには、休息が必要です先ずは薬を飲んでゆっくり静養して下さい。」最初だけは母親だけは、ついてきてくれましたが父親の方は、うつなんてただの甘えだ怠ける口実だとまるで他人事のように関心が在りませんでした。当然立ち会ってもくれず精神科医の女医さんにも合う事も無く付いてきてくれる事も無かったのです。

薬を飲み続ける日々とカウンセリングを受ける日々

鬱病になり仕事が出来なくなリ休息せざるを得ない状況に追い込まれてこの時ほど自分の無力感を味わったことは無く自分は役立たずの人間だ、何の価値も与えられず世の中に貢献する事も出来ない自分は無気力と化し死を考えるようになっていきます。

それでも家にいるときは処方された薬を決まった時間に飲み続けるだけの毎日、もう自分は居なくなった方が良いのではないかとネガティブな考えに囚われて閉まったことも一度や二度ではありませんでした

しかしある日背精神科医の女医さんか当時通っていたカウンセラーの女性の方かもう忘れましたけどこの様な事を言ってくれた覚えがあります。

「あなたは幼少の頃からずっと両親を含め周りの大人達から常に圧迫され抑圧された人生を長期にわたって送っています、周りの大人たちからも常に会社の跡取りとして多大な期待とブレッシャーと周りの妬みや嫉妬による壮絶な苛めにもあって、あなたはもうそれに耐えられなくなって居るんですよ。もう充分です、あなたは此処までよく頑張りました、もし例え貴方のお父様の会社が貴方が継がずに後継者がいなくて会社を廃業する事になったとしてもそれは決して貴方のせいではありません、貴方は貴方で酷い苛めに耐えながら父親の心無い暴言にも耐えながら、どんな形であれ、ここ迄会社に尽くしてきたでは在りませんか?もうそれで充分ですよ。これからは貴方が自分で本当に納得できる生きたい人生を生きてください。」

この言葉で自分は心の底から救われたような気がして思わず号泣してしましまいました。そうか自分はずっとこの言葉がほしかったんだと気づいた瞬間でした。そして何かが頭の中ですっきりし吹っ切れる思いを感じたのを覚えております。

今までの人生で一度も私を認めることは無く頑張っているのに労いの言葉一つかけてもくれませんでした。そしてこれからも私を認める事は無いと感じ取った私は、それからもう父に対して父親として期待するのはやめる事にしました。


この事がが切っ掛けで心理学に関心を持つ。

精神科に通った系列やカウンセリングを受けた、この事が切っ掛けで心理学や人の心そして言葉の力に関心を持つようになります。

元々読書は好きでしたが心理学に関心や興味を持ったり人の心に興味や関心を持つと

より一層心理学系の本や精神世界の本・自己啓発の本を貪るように読み耽る様になります。

余談ですが心理学系の本や精神(スピリチュアル)世界の本・自己啓発の本の他にビジネス本やマーケティング・セールスの本も合わせるとおよそ3000冊前後の本を読み漁っております。

そして様々な本を読みふけるうちに気づいた事があります。

人それぞれにいろんな幸せや生き方があると言う事それと親や兄妹と言えども他の人の人生に介入できないと言う事。と同時に例え親兄妹と言えどもその人の生き方や価値観は変わらないと言う事、そしてどんな結果になろうとも自分の人生は自分で幸せにしていくしかないと言う事。

幸せになろうが不幸になろうがそれはその人がどんな状況であろうと何であろうと選択肢が無かったとしてもどうであれ本人がそれを選択した結果が返って来ただけだったのです。自分は余りにも弱い上両親に逆らう反抗する勇気もすらなく親にとっての良い子を演じ続けていただけでした、本当は両親や兄妹達が怖かったのです。今でも恐怖を感じています。恐怖を感じながらも見捨てられる不安を抱えながらも親の家業を手伝うしか無かったのです、結局は家の圧力に屈したんです。

だから安易に自分の人生のハンドルを渡してしまった自分自身を激しく罵ってやりたい気分です。でももう時既におそし、やり直したくても時間を巻き戻す術はありません。

まるで風に吹かれる木の葉のように、流されるようにその日その日を生き続けていたんだと思います。すべては自分に親に反抗する勇気を持てなかった自分の責任です。いまとなってはこんな両親を信じてついて来てしまった事を激しく後悔して下ります。今で言う親ガチャだったんだと思います。まさに自分の人生を両親の目先の損得に振り回されて自分の人生を壊された感が強くせめてもっと早いうちに出来れば小学校高学年でもっと人性を真剣に生きればよかったとつくづく後悔しかありません。


NLP(神経言語プログラミング)を知りその過程でメンターのとの出会いそれからコーチングを学ぶようになる。

少しでも勇気を持てるように自分は自信のある自分に変わりたいと思いました。

そして様々な書籍特に心理学系統の本や自己啓発系統の本を読むに連れてNLPと言う単語が次第に目に付くようになりました。気になってNLPを調べて見ると脳の取り扱い説明書であり体系立てたツール集だと言う事も解ったのです。直観的にこれをNLPを学べば自分が変わる子も知れないと思い早速受講する事に致しました、ただ受講料はかなり高額な為、長期の教育ローンを使って受講しました、自分が変われるならお金など惜しく在りませんでした。

そこである先生に出会ったのですその方はNLPのトレーナーの方で本名は伏せさせていただきますがTと言う名のトレーナの方でした。私に取っては生まれては初めての人生の導き手とも言えるメンターの出会いでした。

Tトレーナは結構厳しいトレーナーでしたが同時に根気強く解らないところは何度も出来るまで教えて頂き本当に感謝しております。Tトレーナは非常に独特な指導の仕方でいつの間にかある程度NLPを使いこなせている指導の仕方をしてくれています(詳細は省きますか)

NLPは、カウンセリングやコーチング・セラピーの初歩的な事を相対的に学べるので物事の考え方等特に脳はどんな仕組みで物事を捉えるのか又捉え方によって意味付けが変わってくると言う事も学んだのです。非常に勉強になったと思います、他には思いもよらなかった考え方等、様々な事を教えて頂き私の頭の中では心の中で師匠と呼んでいた程です。

ここで、その中からTトレーナーから習った事を幾つか教えようと思います。

次回からは、秘匿性の高い情報となりますので有料としますのでご了承お願いします。












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