あたりまえを疑え

あたりまえを疑え。

本の紹介者:よし

こんな人に読んで欲しい
・社会や会社のルールに疑いやモヤモヤ感を持っている人
・自己実現をしたい人や自分自身の人生を生きたい人
・澤円さんのVoicyリスナー

1.あたりまえを疑う事を難しくさせる2つの理由

 個人的にあたりまえを疑うというのは思っている以上に難しいと思っています。それには大きく2つの理由があります。

 一つは、既に自分の中で「あたりまえ」になっているので、思考も行動も常態化されており、そもそも論「おかしい事に気づかない」からです。

 もう一つが、その「あたりまえ」は大多数の「あたりまえ」になっており、既に同質化してしまっている事が多く、それを疑って変化させるには必要以上のパワーを要するからです。

 最近の話題に置き換えると、「会社での歓送迎会は夜に飲み会」というのが「あたりまえ」だったと思うのですが、これを「おかしい」と思って、「ランチ会にしましょう」と個人で提案するにはそれなりのパワーがいると思うのです。今でこそ世論の後押しもあり、ランチ会に変更する企業も出てきましたが、個人の提案では他人に嫌われたり、余計な労力を費やすことになるので、結局自分の意見を押し殺し、いつのまにか同質化してしまい、それがまた「あたりまえ」に戻ってしまうのです。

2.あたりまえの呪縛に陥りやすい5つの枠組み

 本書の中では、「疑問を感じた自分の感性をもっとも大切にする」ことの重要性が冒頭に述べられています。ある事象に対し「なにか引っかかるな・・・」「どうしてこうなるのだろう?」と思うモヤモヤ感は至って健全な感性であり、そう感じた事自身が、一歩前へ進んだと考え、自分を変えていくための大切なシグナルと書かれています。

 各章の中で、「あたりまえ」の呪縛に陥りやすい5つの枠組みを挙げており、それらを具体的な例を挙げて説明しているのが本書の構成になっています。その5つとは

1章:時間・タスクを疑う
2章:ルール・慣例を疑う
3章:コミュニケーションを疑う
4章:マネジメントを疑う
5章:自分自身を疑う

 先ほど例で挙げた「会社での歓送迎会は夜に飲み会」というのは、5章の「自分自身を疑う」という中で、「仕事上の関係者が近い同僚とはあまり食事や飲みにはいきません。なぜなら、昼間に人間関係を構築する時間がたっぷりあるので、夜まで一緒にいると新しい出会いの機会が失われるからです」と書かれていますが、それに近い概念だと思います。

 そうです、あたりまえのように一緒に食事に行く人も「本当にその人といくべきか?」という疑問を自分に投げかけるような「自分自身を疑う」ことも必要なのです。各章ともに本当に気づきの多い内容ばかりですし、以下のVoicyをセットで聞くと理解がかなり深まると思います。

3.あたりまえを疑うことの本質的な意味は何か?

 本を読み終えてあたりまえを疑うことの本質的な意味を考えてみました。その前に、人はなぜあたりまえを“疑わない”のでしょうか?

 それは大多数と同じ考え、同じ行動をしていれば楽ですし、疑問を投げかけて他人から嫌われることもないからだと思います。

 そういう理由からあたりまえを疑うことを「あえてしない」という選択をしている人も多いのではと思います。私もまだまだそんな楽な選択をする時があると反省しています。

 では、そのような楽な選択ではなく、逆になぜあたりまえを疑う必要があるのでしょうか?著者の澤円さんはエピローグの中で、「自己実現」というワードを使っています。私もあたりまえを疑う本質的な意味は「自己実現」であり「自分の人生を生きるため」だと思っています。

 あたりまえは「過去の誰か」が色々な背景を踏まえ、当たり障りのないように決めたことが多いと思うのです。それは「自分が決めた」のではないのです。些細なことでも自分自身で意思決定し、責任感を持って自分の人生を生きることが、あたりまえを疑うことの本質的な意味だと思います。


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