那智勝浦町昔懐かし話 第25話

第25話『山口熊野忌』
 
今回は、少し赴きを変えて歴史的なお話を。でわでわ第25話でありまーす。
 
皆さん、山口熊野って知ってますか。山口県と熊野地方ちゃいますよ。
人の名前で「やまぐち ゆや」と読みます。この方何をされた方と言いますと、紀勢本線(紀伊半島の鉄道ですな)の敷設に関わった大功労者なんですな。
この方が居なかったら、今僕らはJRで和歌山や大阪へ又は大阪から勝浦へと
列車移動が出来なかった訳です。ものすごく和歌山にとって大事な方であり未来永劫に語り継いで行かねばならない方であります。この方は、天治元年(1864年)11月11日に今の那智勝浦町浦神にお生まれになるのであります。
医者の息子で本人も一時医者を目指しますが、政治家になるのであります。
政治家になった熊野氏は、紀伊半島に鉄道を走らせる事に尽力されるのです。
そして昭和25年6月24日85歳でお亡くなりになるのです。この山口熊野翁の頌徳碑(しょうとくひ)が那智勝浦町の那智駅前にあり観光協会では、国鉄職員が行っていたのを引き継ぎ昭和60年頃より毎年菩提寺である浦神の海蔵寺のご住職にお願いし、またご親族のご参列をいただき命日の6月24日に那智駅前で山口熊野忌を行っていたのである。昔から観光協会は鉄道の事にも全力で力を入れていたのである。観光協会主催で初めに町長や国鉄関係等の来賓挨拶、協会長挨拶、ご親族代表挨拶に続き海蔵寺ご住職の読経と続く。
6月24日前には役場の職員や当時の国鉄職員、観光協会の職員でこの山口熊野翁の頌徳碑の周りの草刈りをやったり掃除をしたりして綺麗にする。そして6月24日に山口熊野忌をおごそかに行うのである。
平成12年の50回忌が終わった時にご親族の方に「熊野が亡くなってから50年。今まで鉄道関係の皆様、観光協会の皆様等大変お世話になりました。本当に感謝申し上げます。これからは、親族中心にやっていきますので、ご了承ください。今まで本当にありがとうございました。熊野も大変喜んでいると思います。」と大変ご丁寧な御礼の言葉をいただいた。勝浦の子供達よ。那智勝浦町には君たちがやがて進学や就職で県外に出たときに胸を張って語れる偉大な方がたくさんいるんやで~。那智勝浦町ってすごいとこなんやで~。
そして、それを未来永劫に語り継いでもらいたいと切に思う。
また、那智勝浦町を訪れた観光客の皆様、ぜひとも那智駅の山口熊野翁の頌徳碑を訪れていただきたいと思います。隣にはサッカーを初めて日本に伝えた中村覚え助の碑もあります。
                             第25話おわり

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