[創作短編] 苦しみから逃れるために

日曜の夜中、私はあるビルの屋上に来ていた。ここ一帯で飛び降りるなら絶好のスポットだと断言してもいい。この地域の人間で、そういうことを考えたことがあればまず間違いなく思いつくだろう。だからドアを開けてそこに今にも飛び降りようとする青年の姿があっても、驚きこそすれ理性は残っていた。
「自殺する気か?止めろ!」と咄嗟に叫ぶと、青年は私の姿を認め「近づくな!」と叫んだ。私は今度は穏やかな声で尋ねる。
「自殺する気なのか」
青年は頷く。
「では、私と君の目的は同じだということだ」と私が呟くと、青年は初めて私の方をまともに見る。

私はドアを閉め、慎重に2、3歩だけ進む。そうして言う。
「少し話をしないか」
青年の目は疑いに満ちている。
「私には君の死を止めるつもりはない。ただ、今自殺されると困るんだ。君にささやかなお願いがある。人生最後のお願いを聞いてはくれないだろうか」と私は切り出す。青年は相変わらず無口だが、こちらを拒絶しているそぶりは見せない。1つ歩を進める。
「その前に君の話を聞かせてくれ。遺書は書いたのかい。」

青年はたっぷり2秒間は私のことをフェンス越しに見つめ、そうして口を開いた。
「そこに脱いだ靴の下に置いてある」
「どうして自殺しようと思ったんだ?」
私は質問を重ねる。
「あんたには関係ない…けどまあいいか、虐められてたんだ、死ぬより辛い方法で。だから死ぬ」
私はなるほどと相槌を返す。
「それよりあんたはどうなんだ?それになぜ俺を止めようとした?」
私はたっぷり2秒間青年を見つめてから言う。
「もったいない、と思ってね。君が自殺するのが。」
青年はその答えを鼻で笑う。
「まだ若いから、って?でもあんたは結局年老いてから同じ答えに辿り着いたんだ、だったら分かるだろう」
「同じ答えとは言えないと思うが、まあさっきも言った通り君が死ぬことを思いとどまらせるつもりはないんだ。ただ、死ぬ前に君は1人の人間を救うことができるということに気づいてしまったんだ。それをせず死ぬのがもったいないと思ったまでさ」と私は応える。青年は訝しみながらも続ける。
「つまり死ぬならあんたの願いを聞いて死ねと」
私は少し微笑んで、「身もふたもない言い方をすればそうだが、どうせ死ぬつもりならリスクもない、聞いてはくれないか」と頼む。
「まずお願いの中身を聞かせてくれ」と青年。

私は頭を掻きながら応える。
「それはまだ無理だ。確実に聞いてもらえる確信がない限り言いたくはない。私にとっても降って湧いたチャンスでもあるのだし、また非常に言いにくいお願いでもあるから、慎重にならざるを得んのだ」
ならどうすればいいと青年が尋ねる。私はまた一歩踏み出しながら言う。
「そちらまで行って良いかな、もちろんフェンスを越えたりはしない」
青年の沈黙を肯定ととって私は歩を進める。今にも飛び降りそうな気配、といったものは青年からはもはや感じられない。

青年は近づく私の姿を認める。
「やっぱあんたの話も聞きたい。どうしてこんなことをしようとする?」
青年の声もかなり落着きを取り戻している。私は「社会に疲れたのさ」と簡潔に答える。
「でもあんた、身なりも整ってるし、そこそこ成功している感じに見えるぜ」
「経済的には成功しているよ。ただ、それをいくら追い求めても満たせない願い、得られない物はあるんだ。」
「じゃあ俺の人生、万が一金持ちになっても、この苦しさからは逃れられない可能性もあるのか。ますます死ぬ決心がついた。」
「まあ、金は問題のかなりの部分を簡単にする。死のうと思えば、飛び降りるのに絶好のビルを買って、屋上まで誰でも入れるようにすることもできるしな」
「おいおいそれって…」
青年の話を遮って私が話を切り出す。

「そろそろ私の願いを聞いてもらえる気になったか?誰かに見つかったら面倒だ」
青年は決めかねているように唸っている。
「ほんの数分で終わる。生きていてくれとか、そういう偽善めいた願いでもない。願いを叶えてくれた後はそのまま死んでくれて構わないのだ。君に損がある話ではないと約束しよう」
私の最後の一押しで青年は頷いた。
「では、願いを伝えよう。こちらに来て、耳を貸して…」

フェンス越しに青年の上半身が近づく。私は内緒話をするように耳に手を当てて囁く。

「君を突き落とさせてくれ」

青年の一瞬の硬直のうちに私の手は彼の喉元に掴み掛かりそのまま虚空へと身を押し出そうとする。青年は声にならない声をあげ私の腕をはがそうと抵抗するが、数センチしかない足場のせいで程なくほぼ私の腕に生かされているかたちになる。
「やめろ!」青年の目は恐怖に見開き声は震えている。
「助けてくれ!許さないぞ!殺す気か!」
青年の命乞いを十分に堪能した後、私は腕を確実な位置まで推し進め、腕の力を抜いていった。徐々に地球と引き合う力を感じた青年は私に縋るように手を伸ばしてくるが、その手は私の服を掴むことはなく、程なくぐしゃりという音が聞こえた。

私は殺人の余韻に浸る。初めは死にたがりを殺しても面白くはないのではと思っていたが(しかし欲望に負けた)、なかなかどうして、死を決めていた彼らであっても、その執行人が私になるとわかった途端、恐怖し、生きたいと懇願し、絶望と怨嗟の声とともに落ちていくのだ。私にとっては十分に殺しの手応えがある。今回はかなりスムーズにいった。嘘が苦手な私にとっては嘘をつかずに済んだことも気分が良い。どこからか女性の悲鳴が聞こえる。さて後処理を開始しなければ。

私は110番を回す。ここからは多少嘘をつくことになる。青年が私の目の前で自殺しました、私は止めることができなくて…。いじめで悩んでいたようなのですが、私では解決してあげることができませんでした。とても残念です。遺書が見つかり、自殺と断定される。こうして私は次の屋上へと登る。私は死を与える側の人間だ。死を受けるなど考えられない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?