[V論考] 僕は碧惺スキアにキャラクターで居てほしい

Avatar2.0プロジェクト所属のバーチャルタレントであり、Avatar2.0の2期生としてデビューした中でも最も推しているタレントの一人である碧惺スキアが、8月に入って活動方針について大きな発表・方向転換をした。この記事はその発表に対する個人的な意見をまとめたもので、Twitterでも少し書いたけど改めて自分の思考を整理するために書いた。上記の発表・方向転換を前提にするので、知らない人はまず以下を読んでほしい。



ごくざっくり要点をまとめると
・バーチャルタレント碧惺スキアはリアル肉体を得てリアルでも活動していくよ
・バーチャルでもリアルでも碧惺スキアは碧惺スキアという一つの生き物だから、できればキャラクターとしてではなく個人として接してほしいな
・今まで言ってなかったけど碧惺スキアはXジェンダーでアセクシャルだよ
みたいな感じになると思う。雑なまとめなので要点ずれているかもしれないし、実際に見てもらうのが一番いい。


この発表で何が自分の中で変わったのか

僕にとって今までバーチャルの存在はキャラクターコンテンツだった。つまり言葉を選ばずに言えば僕は彼らを人間と思っていない。建前上彼らはフィクションの世界の住人で、その背後に彼らと強く結びついた現実世界の人間がいるとしても、それはフィクション世界には存在しえないものだ。

もちろん彼らを人間扱いしないというわけではない。僕にとってキャラクターを人間として扱うことができるのがバーチャルの面白さの一つだと思っている。だから僕は彼らに一個人として敬意を払うし、一人の人間として、人気商売故友人とはまた違ったより近い距離感で接することになるとはいえ、他のリアルの人間と変わらないものとして捉えている。

それでも、人間が人間であることと、キャラクターを人間として扱うことには僕にとっては明確に違う行為だ。それこそスキアくんが書いていたことではあるけど、キャラクターというのは圧倒的に自由だ。キャラクターは人間でないことができるし(人外キャラクター)、どのような荒唐無稽な前提を置いても許される。バーチャル暗殺者、みたいな現実に即して考えたら即お縄なキャラクターだって、僕は殺されることにビクビクすることなく人として接することができる。だけれど僕は、殺人の罪で服役していた元囚人と、普通通りに接することは多分できない。

今回の発表は碧惺スキアという存在のキャラクター性が薄れ、現実の生き物(≒人間)としての側面が強まった、という風に僕は捉えた。本人もキャラクターではなく一人の生き物として自分を見てほしいという表現をしている。僕にとってこれは、碧惺スキアをキャラクターとしてではなく、人間として扱うべきなのではないかという要請のように感じられた。
(設定上、スキアくんは人間ではないが、今回は現実世界に生きる人格を持つ存在、という広い意味で人間という語を使う。)

そして僕にとって、キャラクターでない個人を好きになって応援するということは今までになかったことで、今まで考えなくてもよかったことを考えざるを得ない状況になっているように感じるのだ。


二次創作、そして対人マナー

ナマモノジャンル、すなわち実在するタレントやアイドルに対する二次創作に関しては、生身の人間を扱うという意味で非常に強い配慮が求められる、らしい。(二次創作に触れて半年以内の人間なので詳しくないのは許してほしい)
そしてバーチャルキャラクターは、人格を持つという点で実在する人物と強い類似性を持つため、キャラクターの二次創作より強い配慮を求めるべきという文脈で「半ナマ」という表現がしばしば目に入る。つまり純粋なキャラクターは「嫌がる」ことがないが、バーチャルキャラクターは「本人が嫌がる・不快になる」ということが起こりうる以上、通常のキャラクター二次創作ではなくナマモノ二次創作的配慮が欠かせないだろう、という趣旨だと僕は理解している。

僕の中ではこのナマモノ、実在人物にたいする二次創作はかなりハードルが高く、かなり手が出しにくいと感じる。一方半ナマであるバーチャルタレントの二次創作ができるのは、僕が彼らをキャラクターコンテンツとして認識しているからだ。つまりキャラクターとして、既存の二次創作のエコシステムに組み込まれることに暗黙の了解をしているであろう、ということ(特にファンアート文化がそれを代表している)が、僕が彼らを二次創作の対象にする上での免罪符になっている。

では今回のスキアくんの件で、僕はキャラクターとしての碧惺スキア二次創作を書いてもいいのだろうか?というのが、僕が最初に気になったことだ。もちろんこれは些細な問題で、多分スキアくん側は喜んでくれるだろうから、僕の割り切りで書いてしまえばいい、ということではある。それでもやはり影響がゼロだと言えばうそになるのだ。

もう一つ、スキアくんとの接し方という問題もある。僕はコミュ障なので、相手をキャラクターだと思えばファンムーブも限界コメントも好きかわいいも言えるのだが、相手が生身の人間だと考えると多分ブレーキをかけざるを得ない。なんだかんだ配信で今まで通りコメントしそうな予感もするが、多分それはスキアくんをキャラクターとして見て接しているからで、スキアくんの望む「生き物として見る」ことから背を向けているような気になるのだ。


人間には社会の事情が持ち込まれる

前節は個人的な現在の感想であって、この節に比べると些細なことだ。というより、上にあげたことは時間が経てば多分慣れるんじゃないかと思う。僕がより懸念しているのは、スキアくんがキャラクターとして見られなくなることで、バーチャル世界に求める自由が毀損されてしまうのではないかということだ。

生身の人間はとかく面倒で、様々なしがらみがある。前述のとおりキャラクターであれば暗殺者は許されるが、現実に暗殺者が大手を振って往来を歩くことはかなわない。人間であるということは社会に、社会規範に否応なしに組み込まれるということだ。なかでもスキアくんのジェンダーについての話は、人間として扱う場合重要なファクターとして扱われるだろうと思う。

自分が好いているある人間が、ジェンダーマイノリティをカミングアウトすることは、端的に言って「重い」。重さとは事情から発生する。ジェンダーマイノリティという立場での生きづらさという事情、それをカミングアウトしづらいという事情、カミングアウトをどう受け止めるべきかという受け取り側の事情。ジェンダーフリーで生きやすい社会をと声高に叫ぶ人々の抱える事情。当事者にとっても重要な話題であることは否定しないが、それに触れた準当事者にとっても重要な話題にならざるを得ないのがこの手の話題だ。

それを語ることがダメだとはもちろん言わない。それはひとつの社会をよくする重要な営みだ。だからスキアくんがこの話をすることで、同様な悩みを持つ人々の力になりたいということであれば、応援したい気持ちは当然にある。

一方でキャラクターとしてこの手の話をするのは、上記と比べてかなり「軽い」話題になる。最も軽い形態としては、「このキャラクターはそういう人です」だ。そこに社会の事情との接続はほとんど発生しない。ただそのようなキャラクターがいるということだ。もちろん接続してもよいし向こうから事情が持ち込まれることもあるにせよ、それはそういうキャラクターなので、で話を終わらせることができる。受容のコストは限りなく低い。キャラクターがアセクシャルだったとして、もしかしたら作者側は社会の事情にからめとられるかもしれないが、キャラクター自身はそのような問題にほぼ無縁でいられるのである。

あるいは当事者系キャラクターとしてかかわっていく、という選択肢もある。それでも、当事者と当事者系との間には大きな溝があるように僕には思われる。当事者の言葉は重く、それゆえより多くの事情を抱えるのである。


自由でいるための「キャラクターというインターフェース」

個人的な観測範囲においては、昨今のインターネットフェミニズムの方々の言動やポリティカルコレクトネスをめぐる議論など、正直に言って辟易することが多い。重要な話題であることは否定しないが、どうも面倒なお気持ちの表明ばかりが目についてしまう。ジェンダーやマイノリティの議論もまたインターネットにおける論争の種である。僕はスキアくんに、それに巻き込まれてほしくないのだ。

再度言うけれど、スキアくん自身がそれを望むのなら応援する。それに、今回の発表からそこにつながるまでは距離があり、僕のこの意見が短絡的接続であることは否定はしない。単純に杞憂だという気すらする。

ただ、やはり僕の中ではスキアくんがキャラクターでなくなることと、上記のような議論の対象になることはすごく近い位置にある。そしてそれは、バーチャルの良さとしてスキアくんが挙げた「自由」、そして「差別のない平等さ」と相反してしまう事態を招くのではないか、と思っている。

思うに、バーチャルが自由で平等であることは、バーチャルの住人がキャラクターであることからきているのではないか、と思う。つまり誰もがキャラクターであり虚構性を持っているからこそ、現実世界で問題になるようなことがあまり問題にならない、という構造だ。キャラクターの持つ虚構性は、「そういうもんだから」「そういう設定なので」という言葉に強い説得性を持たせる。そしてその言葉が出た瞬間に、現実社会の道徳倫理における議論は終わるのだ。

だからこそ、自由を志向するスキアくんにはキャラクターであってほしい。


キャラクターは中の人も含めてキャラクター

意図的に、スキアくんの使っている「キャラクター」「生き物」の定義をこれまで無視して書いてきた。スキアくんの「キャラクター」は魂と器が可分であるもの、「生き物」は不可分であるものという定義だ。この定義は実は僕はあまり同意していない。多分世間一般の認識としては妥当な定義だと思うが、魂と器をセットとして「キャラクター」と認識することもまた可能であると思う。

定義論は不毛になりがちだが、バーチャルファンの中には魂と器の組み合わせでキャラクターとして識別している者も少なくないだろう。だからスキアくんが「キャラクター」という言葉が魂と器の分離を示唆することから避けているのなら、個人的には魂と器とがセットになったキャラクターとして認識することで対処できるような気がしている。

もうこれは個人的な言語感覚になるのだけれど、バーチャルに慣れている者ほどキャラクターは魂と器を不可分としてみなすので、生き物という用語は逆に上記の違和感を生み出しやすいような気がしている。とはいえそこは用語論であり読者ターゲットの話であるので、重要ではない。

結局のところ、バーチャルにおける自由の源泉はそのキャラクター性(フィクション性)にあるのではないかというのが僕の考えであり、自由を求めるのならばキャラクター性を捨てることはあんまりよくないんではないかな、ということである。逆に、キャラクターのままであれば、社会の事情について踏み込むことが難しいから、実在性を高めていくのは方向として正しい。


いろいろと書いたが、スキアくんが自身が望む方向に、楽しく活動を続けていけるのであれば、それが僕にとっても一番望ましいことであることに変わりはない。
スキアくんはかわいいので、時間が合えばぜひShowroomでの配信の視聴をおすすめしたい。


碧惺 スキア
Twitter: https://twitter.com/Skia_Aose
YouTube: https://www.youtube.com/channel/UC9E6eU1-LC_VuRL65MyCmEg
Showroom: https://www.showroom-live.com/Skia_Aose

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