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意思を持った特殊な形容詞「エモい」とそのクリエイティブ性

「エモい」という言葉、これは自分の感情が何かしら動かされたとき、その気持ちを表すために使われます。

と言ってもどんな感情でも当てはまるわけではなく、「喜」「怒」「哀」「楽」で表されるような、色で例えると原色のような感情では、少なくともありません。

どちらかというと「懐かしい」とか「切ない」とか「感動的である」みたいな、淡い色合いの感情に当てはまる気がするのですが、その一言でちょうどぴったり置き換え可能かと言われると少しちがいます。

そういった簡単には言い表せない ”複雑な” 感情が「エモい」なのでしょう。

では「切ない」や「懐かしい」や或いは「嬉しい」「悲しい」といった言葉を使うとき、その感情は “単純か” と言われると、必ずしもそうではないように思います。

それを “単純な感情だ” と他人に捉えられてもいい、とある種雑に思っているからこそ、単に「嬉しい」と言うのかもしれないです。

そう考えるとこの「エモい」という言葉は、感情を表す数ある形容詞のように単に状態を表すものではなく、

「これは簡単には言い表せない複雑な感情なのだ!そこらへんの雑な形容詞に置き換えてくれるな!」

といったニュアンスを、敢えて込めた言い方に聞こえてきます。
(形容詞の皆さん雑呼ばわりしてごめんなさい)

「エモい」が持つ人間性

つまり、あるとき日常で「エモい」と感じた瞬間その人の中には「いま生まれたこの感情を雑な言葉で片付けたくない、特別扱いしたい」という “意思” や “熱量” も同時に生まれているのではないでしょうか。

そしてこの意思や熱量を伴う感情というのは、表現の種とも言えるとてもクリエイティビティに溢れた感情だ、と私は思うのです。

AIやロボットに作品は作れます。けれどそれは学習の繰り返しやプログラムによるものであって、意思や熱量を持ってはいるわけではありません。(解釈次第ではあるが人間がそれを直感的に意思・熱量と呼ぶのは難しそうです)

ゆえにこの「エモい」という意思や熱量を伴う感情に向き合って生まれた表現は、AIやロボットには真似できない “人間らしいクリエイティブさ” を持ち得るだろうと思うのです。

「エモい」に向き合う

感情というものはそもそも実体がなく漠然としたものなので、ぼーっとしているとそこにある意志や熱量に気が付かず見落としているかもしれません。

それはもしかするとすごくもったいないことかもしれません。

自分の心の動きを繊細に感じ取り受け止めた上で、同時に「私はなぜ今この感情を特別扱いしたいと思ったのだろうか」と冷静に向き合ってみる。そしてその対象のどこに、どう、心を動かされたのだろうか、と丁寧に考え解像度を上げてみる。

頭の中で行うこの作業は、人間的なクリエイティブを生む1つの土台になるのではないだろうか、少なくとも私はそう思うのです。

aso


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