『花譜×カンザキイオリ』で人間は殺せるか。


創作者は異常者だ。誰がなんと言おうがこれははっきり言っておこう。
例えば社会人、どこか小さくても大きくても企業に就職できているとして、その仕事を熟しておけば金銭が手に入る。創作をする必要がない。
例えば大学生、そのための社会勉強、人間関係を学んだりだとか自立をするだとか期限を守って何かを提出するだとかそういう期間。創作をする必要はない。
例えば中学生と高校生、高校若しくは大学に入るために学力に通ずる勉強をする期間。あとは高校生ブランドを掲げて馬鹿をする期間。創作をする必要は無論ない。
例えば小学生と幼稚園生、保育園生、その他。あり得ない。本当にやばい。関わらない方がいい。
よって創作者は異常者だ、と定義しておく。

もう一回言っておくか。創作者は異常者だ。
少しだけ付け加えるなら、僕が見てきた創作者はいつだってそうだった。

スーパースターとか、アイドルとかになって、ヒューリックホールでも日本武道館でも東京ドームシティホールでもライブが出来るならどこだっていい、人を何千何万と集めてそこで何かをして金を稼ぐ。
そこまでしないと創作は正直する必要がない。だってお金が手に入らないから。500文字の詩を書いてpixivに投稿、一つに対して500円が通帳に入るとするなら、なんで僕の通帳に69,000円増えてないんだ。FINDME STOREでアルバムが14枚くらい買える。ツタヤでアルバム四枚借りるのに大体1500円だとしても46枚借りられる。

そのくらい創作はする意味を持たない。
では馬鹿なのか?そう馬鹿なのだ。なぜなら彼ら、我々は書きたいから書いてるのだから。
ある人がある世界で何を感じて何を想うのかを見たいから描く、こんなかっこいい歌があればいいなと思って六弦を弾く、それを合成音声を使って一音一音マウスをカチカチして歌わせる、誰か一人に対しての感情を持ちきれないから事実上のラブレターを書く。なんだっていい。
それが好きだからする。その人にとっては至極当然のことかもしれないが、『創作者じゃない自分』を使って自分を見た時、甚だ疑問を抱くはずだ。

題に記した少女と青年を観ていた人たちには、そういった人が山ほどいる。その人それぞれに塵だった時期があって、そこを歩く度に塵が舞って煙たがる。それが座っているPCがあるデスクの背後で積もって山になってしまったのだ。
そしてそこを登る人も増えた。無料でその道を登って景色をスマホのデジタルデータに残していく観光客だ。それが悪いわけではない。創作者だってそうだから。創作者が山なのではなくて、創作者が創ってきたものが勝手に山になったのだから。創作者の責任じゃない。

長い前置きとなんかよくわからない持論を置いた上で、本題に入ろうと思う。巷にあるnoteと違って、「noteの使い方がイマイチ理解できてない」少年が書くものだから目次も引用もない。めんどい。御了承願いたい。


創作の相違


見出しができた。すげぇ。
さておき


私は身内の友達グループから声を合わせて一斉に、「カンザキイオリの厄介オタクだ」と称されるほどの人間だ。確かに普通のオタクはnote書かないね。
その訳は今関係ないので別の機会に。そんな機会は訪れてほしくないけど。

厄介オタクというのは、その人に人生を変えられてしまったレベルで心を突き動かされて捕まってしまった人のことを指す。
そうした過去があるから、「この人はこう考えるからここはこうこうでここをこう↓こう↑こう↓………」とか言い出す。なるほど確かに厄介だ。友達にいてほしくない。本当に申し訳ない。

話を戻して、私の創作のルーツは多くが花譜とカンザキイオリに紐づけられている。

若さや幼さを用いて、社会への不満とか自分があるべき姿を捜したりする文章を書いていたりする。まだ自分は見つかっていない。どこだろう。
2019年、私が中学3年生と15歳という称号を迎えた頃に出会った『花譜』の『過去を喰らう』
そのときの話は置いといて、そこから創作者としての自分はスタートした。

しかし、4年ほど走り続けた現在、その二人に突き動かされていた心が静かに悲鳴を上げている。それに特別傷ついたり嘆いたりするわけでもないが、ソフビの塗装が剥げているのと同じように少しは気になってしまうものだ。
少し立ち止まってみて、胸に手を当てて考えると、どうやら摩擦で削れてしまっていたらしい。
それは恐らく、花譜とカンザキイオリを同一して憧れの人物としていたからだろうと気が付いた。

よく、『やっぱり花譜×カンザキイオリが至高』といった意見を見かける。それにはひどく賛同している。実際花譜×カンザキイオリの楽曲はこの上ないベストマッチだ。
しかし、それぞれを個として見たとき、それは足し算ではなく掛け算であることは一目瞭然だ。
そう、足し算ではないのだ。

ルートの中身が同じ数字でないと加法ができないように、花譜とカンザキイオリは同じカテゴリではない。まぁ、当たり前と言えば当たり前なのだけど。
花譜とカンザキイオリが創る歌に突き動かされて、創作をして生きようとしてきた人には、『花譜しか見ていない』ことが多々生じている。
厄介オタクっぽくなってきた。いいね。


ここで花譜という少女について軽く整理してみよう。
花譜は桜色の髪色と青い目を持った少女の形をしていて、彼女は今東京のどこかにある大学で勉強している。今は留学しているけど。
そんな彼女が歌う訳は言うまでもない、『歌が好きだったから』だ。

『歌が歌いたい』という想いが彼女を歌わせている最大の要因。

次はカンザキイオリという青年の番だ。
彼は何の変哲もない青年の装いで社会に紛れて暮らしている。仕事で金を稼ぎ、時に誰かと遊びに行ったり何かを創ったりして生きている。
彼が歌う訳は、『それをしないと生きていけなかったから』
最初に投稿された曲の名前は『反抗期』だった。中を少し覗いてみても、一見ではとても『歌が好きだったから』とは思えない。

『生きるために』という想いが彼を歌わせている最大の要因。


もうすでに理解されていることだろうが、もうこの時点で二人は完全一致の運命共同体ヒャッハー!!!というわけではないことがわかる。

これもお分かりだと思うが、こういった話は花譜×カンザキイオリに限った話ではない。理芽×笹川真生だってそうだし、EMA×MisumiのDUSTCELLだってそうだし、Soodaと水野あつの雨宿りだってそうだ。
まぁ人だからそれぞれ違うのはそう。だからこそ掛け算が出来て真新しくいい作品が産まれるとも言える。

じゃあ何が問題かと言えば、先にも書いた『花譜しか見ていない』という事実だ。
ここまで書いて前提を書き出すのは卑怯だが、ここでの『花譜』は『花譜という少女』のことを指す。『花譜というプロジェクト』ではない。

『花譜というプロジェクト』は、背景にカンザキイオリとPIEDPIPERがいて、少なくともその時点で三人以上がそこに関わっていることは明らかだ。
その中に入って曲を聞き続けていれば、いずれ何か違うということを感じてくるものだ。
だって『花譜しか見ていない』のだから。大事だから何回だって言う。
以前、『誰も花譜を観ていない』といった文章が話題になった。今でも該当する人間はちらほら存在するが、今はその逆をいく人々も存在する。それが上記だ。
カンザキイオリが書いた詩は、花譜をイメージしたものであっても核はカンザキイオリなのだ。

では例えば、『過去を喰らう』と『そして花になる』、そして『マイディア』をここに用意しよう。ここに3つの花譜がおるじゃろ?
これもまた卑怯だが、明らかに差異があることがわかる。左から右にいくにつれ、花譜という少女の濃度が高まっているのだ。

これは多くの人から『成長』と言われている。どんな変化を成長と呼ぶのかは定かではないが、素を出せるようになってきたことと定義するなら確かにそれは成長だろう。
しかし、ただの作者の変更で成長が出来るのならそれほど安く済むものはない。


話を戻して、こういった違いが起こすことは観測者にはあまり関係がないのかもしれない。
だが、創作者は別だ。加えるなら、彼女らを憧れとする人間なら尚更だ。
そしてそれが僕だ。

同じ集合の中で、「花譜さんが憧れの人です」と「カンザキイオリさんが憧れの人です」を並列して考えていると、創作をしている彼らの振動で摩擦が起きてしまう。

少し自分語りで例を足そう。
実は先程、母上と朧気な将来について会話していたときに言われた言葉がある。
『憧れの人をまねる』それが自分の道に成り得る、って、言っている記事を見た」と。受け売りだった。まぁいいや。
この言葉の受け取り方は、単なる創作についてだけではなく、その人の日々の過ごし方や生きざまも含んで考える方が適当だ。
似た言葉に「ファンは推しに似る」といったものがある。あれと大差ない。
そのときは恥ずかしくて言えなかったが、私もそうして生きてきたし、今もそうして生きている。

例えば、ヰ世界情緒を推す集団の観測者ヰ組はイラストを描く人が多いし、よくわからないことを平然とやってのけることが多い。
理芽を推す観測者芽組は、人との交流や関係を紡ぐことに長けた人間が多い。成功しているかは話が別だが。
そしてその彼らがそうする理由は、「推しがそうだから自分もそうしている」だ。
好きな女の子がいたら、その子の癖を自然と真似してしまうのと同じだ。

そうして自分の中に生き様や流儀を追加していき、一人の人間性を形成していくのは何百年何千年と人類がしてきたことであり、倫理とか道徳などのそこらの教科書にも当然載っている。そのことを今更否定する気はさらさらない。


だが、花譜×カンザキイオリになると話が変わる。

花譜とカンザキイオリはそれぞれが強い信念を持った素晴らしいアーティストだ。
だが、何もかもが残酷に正反対すぎた。

先程整理したものをもう一度見てみよう。

花譜は桜色の髪色と青い目を持った少女の形をしていて、彼女は今東京のどこかにある大学で勉強している。今は留学している。
そんな彼女が歌う訳は言うまでもなく、『歌が好きだったから』

引用が出来た

カンザキイオリは何の変哲もない青年の装いで社会に紛れて暮らしている。仕事で金を稼ぎ、時に誰かと遊びに行ったり何かを創ったりして生きている。
彼が歌う訳は、『それをしないと生きていけなかったから』

すげえ

太字で括った部分だけではない。
花譜は高校や大学に受験して合格、そこに通い、多くの人間と関わりながら普通の生活を暮らしていく。
対してカンザキイオリは神椿スタジオを後にして、孤独の中で創作を続ける生活を暮らしていく。

もし、前述の『憧れの人をまねる』をするとして、花譜×カンザキイオリを観て憧れてきた人は、果たしてどちらを真似ればいいのだろうか。
一つここで私からの問いとして置いておこう。
もし、あなたがそうなら、両方の生き様を同時に真似ることが出来ますか?
解答がどうあれ、この問題は矛盾を産んでいる上でもこう言える。


『人を殺すことが出来る』



救うことと救われること、殺すことと殺されること


定義というか、題に書いてある問に対して筆者の答えを書いたのだから、ここから先は本来書く必要はないのだが、このままだと私が非情な人間になりかねないので、今から弁明の話を綴る。

花譜の曲でもカンザキイオリの曲でも、その曲に『救われた』経験がある人も少なくないはずだ。
だからこそこの文章を読んで既に苛ついていた人もいると思う。それについてももう少しだけ弁明の時間を設けてほしい。


私は『救うこと』と『殺すこと』は結果が違うだけでそんなに違いはないと考えている。
『救う』を選択すれば感動の涙が出る、『殺す』をした後には悲しみの涙が流れる。それだけだ。
情がないことかもしれないが、それは勝手にその人がそうなっただけだからだ。

そこで思い出す。そんなことが書いてあった曲を。
既にある青年が書いた歌がある。『君の神様になりたい』『偶像』だ。
彼は救いたくて救おうとしたが、その度に自分が傷ついた。
逆に、自分が傷つかないように誰かを救えば、その後に残ったのは救っただけの人だっただろう。そしてその人の後日を彼は知らないわけではないだろう。

『死は救済』という言葉はあまりに有名であまりにも便利な言葉だが、ここで話すことはそこまで複雑な話ではない。
単に、その人に『生きたい』と思わせたか、『死にたい』と思わせたか、の違いでしかないのだ。
どちらも根底は同じで、それは『変えた』というワードで片が付く。

『憧れをまねる』という行為は『自分の人生を変えてしまう』ことにも成り得る。
もっと自分らしい生き方があったかもしれないのに、憧れや好きな人がいたからそこに軌道を変更してしまっていたかもしれない。
そして、矛盾と正反対の物質を含んだ『花譜×カンザキイオリ』なら、人を殺すことも可能な訳だ。

そのことは、作風や画風といったものが絡む創作者であるなら、より大問題な話だ。
創作を本当に人生にしようとする人ほど、この選択は大いに悩ましい事象。

例えばこんな少年がいる。
彼は創作をしているが、体調の面で高校生の頃にうまく勉強が出来ず、進路を含めた将来に悩んでいる。概要はこうだ。

いい大学に進学して、いい企業に就職する。自分が好きなアーティストは中学生の頃から活動しているが、その中で高校受験も大学受験も経験して成功を収めている。それと同じようにして得る財産と幸福を周りに集めたあとでも創作はできるから、大学受験を本気でやるべきか。
はたまた、安定して確実に貰える金銭を失ってまで自分の創作を貫こうとしている好きなアーティストもいて、その人のように自分も創作を本気で続ける方がいいのだろうか。もしどこかに通う方がいいのなら、専門学校なんてどうだろう。ただ、もし創作に挫折したときには、大学に通っていたほうが生涯の年収は期待できるだろう。うーむ、どうしたものか。

私だ。恥ずかしながら私である。

そう、創作をしている私はこうして今悩んでいる。
何故なら創作者は異常者だからだ。
会社に就職して金銭を稼ぐ方法もあるのに、創作をして生計を立てようとする選択肢が産まれている時点で私は異常者なのだ。

異常者であることを自覚していて、それでも尚創作がしたいという欲を摘んでそこへ進みたい自分もいる。
しかし、私は親戚の中で見ても長男で多くの方々から期待されている。ならいい大(略で安心させるべきではないだろうか。
加えて、姉弟は既に将来が確定しており、そこで安定して生活できることが保障されている。なんなら姉には彼氏がいる。ふざけやがって。羨ましい。

そうした悩みを経た先にある極論が『死』だ。
まぁ、私は死にたくないが。

何故私がこうなってしまったのかは明白だ。『花譜×カンザキイオリ』の二人を憧れにしてきたからだ。
振動で心が揺さぶられたからだ。摩擦で擦り減ったからだ。

しかし、私が今こうして創作をして、友だちがいて、勉強をする環境の中悩むことが出来ているのは、それもまた『花譜×カンザキイオリ』の二人を憧れにしてきたからだ。
振動で心が揺さぶられたからだ。擦り減った傷を撫でたからだ。

そういったことから、花譜とカンザキイオリは、人間を救うことも、殺すこともできると言っていいだろう。
どちらの視点からでも見れるものだ。
そしてその観方は自由であるべきだ。
花譜の生活をまねて生きることも、カンザキイオリの生活をまねて生きることも自由だ。
この文章で筆者のことを嫌うことも、そういう意見もあるのかと頷くのも自由だ。
そして何より、『花譜×カンザキイオリ』をどうやって観ていくのかだって自由だ。
あなたが決めていい、私が決めつけることじゃない。
少なくとも、『花譜』はそういうことを歌ってきた。

これが最後の弁明だ。




『一番近くて一番遠い隣』


この文章は私がそうやって彼らによって『変えられてしまったから』書いている八つ当たりのような文章という訳ではない。ごめん嘘ちょっと八つ当たりの部分もある。
だから感謝もあるし、憎悪もある。そういった部分が厄介オタクを増幅させている。

一時は彼らのことが嫌いだったし、彼らの事が好きな自分を嫌っていたこともあった。
恐らくこういったことは誰にだって起こり得ることなのだろう。
しかし、以前書いた『再会』のMVについてのnoteにもある通り、そうやって苦しむほどに、自分が彼らが大好きだということに気が付いてきたのかもしれない。

私が好きな表現に、『一番近くて一番遠い隣』というものがある。出典がどこだったかは忘れたし、というか自分で考えたのかもしれない。あんまりちゃんと覚えてない。
ただ、花譜もカンザキイオリも確かに存在が保障されているのにも関わらず、いざその痕跡があった現場へ足を運んだとしても絶対に我々の目の前には現れてくれない。
だからこそ、電子越しで私たちに干渉してくる。
直接手が届かずとも彼らは私達を『変える』ことが出来る。

なんなら、私達だってそれができる。

『花譜×カンザキイオリ』で人間は殺せるか。
という問に対して私は、『殺すこともできるし、救うこともできる』と考えた。ふざけた解答だ。
だけどこのふざけた意見が、読者の一人でも「変える」ことができてたら嬉しいなって、ちょっとおもう。

あなたにはどう映っただろうか。









少し蛇足。
私には夢がある。
自分を『変えた』花譜とカンザキイオリと、ライブステージで隣り合って歌を歌うこと。
先日のフェスでも便せんに一文だけ書いて籠に入れてきたところだ。
ここまで書いておいて、自分の考えにまだ整理がついていないのはいかがなもんかと自分でも思うけど、それを実現したいと想う力は誰にだって負けていないと思っている。思うだけならタダだから。

というか私はそう思ったからこんな文章を書いている。書くだけならタダだから。そしてあなたも読むだけならタダだよ。
書いたあと読んだあとに何をしようとするかも自由だよ。
自由ってめんどくさいね。

おわり


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