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蛇足と沈黙 Covid-19について非セレブ/非芸能人(の一般人)が思うこと

#エッセイ #蛇足と沈黙
 今回の新型コロナウイルスについて思うところを書くのだが、政治的にどうこうとか医療的にどうこうの話は当然書けるわけもなく。それはこの文章のマナーが餅は餅屋として専門家にまかせて可能な限り沈黙しながら非セレブ/非芸能人(の一般人)の目線で思うところを書くというものだからというのもあり、ここでは例の牛肉券やお魚券の話をひろゆき氏が火事場泥棒に例えており、それが言い得て妙であったことと、そんな案を出す政府をどこまで信用するべきかという2点にだけ留めておこうと思う。

 さて自分が感じたことは各個人というレベルでなく、社会というレベルで見た際に今回のコロナウイルスがグローバル化していく世界で必要とされている比較的新しい課題にどれだけ取り組んできたかを可視化するある種の試金石のようになってしまっているというものだ。
 基本は日本の話になる(というか日本から見た話しか出来ない)が、まずはリモートワークや非効率な会議、紙資料や押印文化をいつまでも引きずっている会社とそうでない会社が可視化された。仮に2003年のSARS騒動の際に日本まで大きな感染の波が来ていたとしても、ここまでの差はあらわれなかっただろうと思う。今のようなレベルの技術的インフラを整備できる団体はあくまで例外だったはずだからだ。そしてそこからの17年でどれだけ技術インフラのハードルが下がったかを物語ってもいると思う。我々人類がこれまで培った技術や知識、インフラをどれだけ正しく使いこなせるかが試されている気がしてならない。

 そして我々はこれまで困難に対峙した時に求められていた努力とは別の種類の努力をしなければならないことになった。これまでは何かを頑張れ、何かをしてくださいという方向性の要請ばかりだったように思う。ここまで何かをしないでくださいという要請がこれまであっただろうか。そしていかに何もしないで(つまりは効率的に)経済をまわすかというバランス感覚を保つことを強いられている。アフターコロナの世界では1つのビジネスモデル、1つの職種に頼ること、いざという時のプランBや蓄えがないことがいかに危険かということが古傷のように折々で思い出されると思われる。これもある意味、副業禁止という前時代性の可視化でもある。
 また、一概に言えないが全体で見ると比例して1人の時間も増えるだろうと思う。中島らも氏の「教養とは1人でどれだけ時間を潰せるかということでもある」というような言葉があるが、増えた時間の使い方、ある一面から見た教養の有無が可視化されていくとも言える。

 最後は多様性といかに付き合っていくのかという話だ。例えば人と触れ合う挨拶が普通で、マスクもあまりしないという文化もあれば逆の傾向を持つ文化もあり、不利益を受けようとも自分が思うことを行動し、権利を主張すべきという文化もあればそうでない文化もある。そしてウイルスはそれら様々な文化を持つ人間の間を世界レベルで渡り歩いていく。新型コロナウイルス蔓延阻止という人類共通の目的が出来たことにより、様々なイデオロギー間でお互いがどう協調し、どうコミュニケーションをとって、どう対峙し、どうやってバランスをとっていくかの難しさを改めて感じた。

 幸い様々な形の芸術やエンタメコンテンツが(ある種地獄のように)大量に我々の前に並べられている。この訪れた災厄に対する長期戦をいかに楽しく凌いでいくか自分も模索中だ。


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