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キャトルミューティレーション

雷が木に落ちて、木が倒れて、倒れた先に偶然あった空き家がみしみし潰れたとしますね。

それを見て、「美しい」だのなんだの言って、写真に撮ってTwitterかInstagramか個人サイトか、まぁなんでもいいので上げた男がいました。

同じものを見て、潰れた家を見てパイの実が食べたくなって、「パイの実食べたい」ってまたなんかどっか、知人にでも言った男がいました。

同じものを見て、「自然を無下にした人間に神が怒っている」なんて言って、それを鬱々と日記にしたため、またどこかに上げた男がいました。

同じものを見て、「雷の危険性について」だのなんだの講じ、写真を撮って論文に一例として上げた男がいました。

同じものを見て、特に何もせず、歩き去った男がいました。

今まで、この、写真とか感想とか日記とか論文とか、そういうものを私は「表現」と大雑把にくくってまとめて愛してきました。
でも最近は、どちらかというと、そこまでの過程に興味を向けるようになったな、と思います。

小説は究極の嘘だ、という誰かの言葉を、私はずっと腹の中であたためてきました。誰に、いつ聞いたかも忘れましたが、小説と言わずとも、文章を読み、音楽を聴き、ご飯を食べ、そうして人の手が介入した何かを己の中に取り入れるたびに、そういうことを思っていました。

小説のなかで広がる世界は、書いた人の世界だな、と思うことはあります。宇宙を書いた著者のなかには宇宙があるし、登場人物にメスを入れさせる著者は実際に手術室の緑の壁に囲われていることもあります。

己の手で触ったものではないと、それが真と知らないと、嘘は書けない。そういう理屈です。

ただ、書いた人の意思を超えて、なにかとなにかがぶつかった火花が、ページの端々に焦げ付くことがあります。これがある人と無い人といて、でも全くないって人はめったにないように自分では感じます。

私はそれを嗜好品のように思い、どうにかして火花がとばないか、と事故の多い交差点のような文章を書いてきました。

結果、そこには事故車両が積みあがっただけでしたが。

表現を支える価値観というか、人格というか、そこらへんがどう表現に響くかということは、ずっと気にしていて、だから私はいろんな経験がしてみたいと思ってきたわけです。

人を殺してみたかったし、傘を忘れて帰ってみて、堅実な会社に勤め、托鉢して僧侶になったり、深夜の動物園に侵入してみたりしたかった。

(こういうのを事故の多い交差点のような文章と呼んでいます)

ただ、頭の中にいるおじいちゃんが言うに、私はきっと人を殺そうと、その肉をていねいに調理してデパートで試食として提供しようと、「まだだな」って思って書かないぞ。

なるほど。と思って、今日は書きました。

ちなみに頭のなかにいるおじいちゃんの本体は、足立美術館のガラスの中にいます。いい親指をしたおじいちゃんです。元気かな。

キャトルミューティレーションは特に関係ないです。

あそんでみてください ↓


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