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シミュレーション仮説

高校生になって初めてひとりで東京に出たとき、ただのマンションが小さな小さな歯車が組み合わさって作られたおそろしく大きな集合体に見えて、その壮絶なまでの情報量の多さに眩暈のような感覚をおぼえた。

窓の灯りひとつひとつに人々の生活があり、その生活がまた小さな生活に支えられていて、そもそもその窓もこの建物も誰かの手によって作られ、それがまた生活に繋がり、というデカくて緻密すぎる協働があたりまえに成立しているのが怖い。

歯車がガチガチと組み合ってそれぞれのスピードで回っていて、ひとつ外れたら全てが成り立たない。軋む音さえ聞こえた気がして、未だにその幻聴は忘れられない。

受験のために東京に出てきていたとき、月だと思って見上げたものがマンションの高層階の灯りで、すごく傷ついたこともある。

それまでわたしは月でできる自分の影と歩いて帰れるような、長閑で静かな夜を過ごしてきたので、何で自分の影ができているのかわからないくらい光っていて、月くらい眩いものが当たり前にあることをしっかりと実感して悲しかった。

そんなものだ、と認識していても、実際わかっていないこともある。
よく考えてみたら奇妙だ、恐ろしい、ということもある。

わたしは夜、窓を開けて涼むのが好きだ。
でもがんばれば隣人はわたしの部屋に入ってこれるな、と最近想像してしまい、不快。

わたしが好きな夜を、隣人が持っているかもしれないと仮設定した悪意で潰してしまった。
そんなわたしに対しても、そして聞こえてくる物音や今まで起きた出来事からその「隣入っちゃおうかな」という意向に辿りついちゃう隣人もちょっと嫌。

都会の引っ越しには常に隣人問題がつきまとう。集合住宅にもなれば隣人が上下左右向かいに存在するからますます気になる。
田舎の一軒家はそういう意味で無敵の存在だった。

誰かから、もしくは過去のわたしから見たら、今のわたしは大きなものの中の小さな歯車なのかもしれない。
一人暮らしを始めてみると、それもまた小さな小さな歯車の集合体であることを実感する。

いまはわたしがわたしの生活を回すことに集中しているから、まだあのときのような大きな視点でわたし自身のことをまだ見れていない。

ミクロをじーっと見てしまうとマクロのことを忘れてしまって、大いなるものを見たときの感動がより畏怖に塗れる感じがしますね。ラヴクラフト的な。

シミュレーション仮説は特に関係ないです。
でもこういうのは好きです。みなさんは今までの人生を運命だと思いますか? ひとつひとつ、自身が選んできた道だと思いますか?
それとも今までのもの全て、夢ですか? つくりものですか?

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