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映画評|飛び石と星座「東北記録映画三部作」酒井耕・濱口竜介



流れる河の真ん中に置かれた小さな飛び石の上に立って、自分の歩幅分離れた水面に飛び石を置く。流れる水面に留まらず流されてしまう石もあれば、自分の重心を支え次に渡る飛び石になるものもある。水の流れにまぎれる微かな声に耳をすまし、水の流れに抗って留まる石の上を踏み水しぶきを感じ、次に渡る飛び石が置ける時を待つ。
そんな飛び石のような言葉がある。ふと見上げれば、頭上に仮設の橋が架けられようとしている。河の流れが奔流であればあるほど、水面よりも随分高く、頑丈で大きな橋が求められる。そこを通る多くの人影を見、ふたたび足元の流れに視界を戻す。東北記録三部作。この映像のなかで行われているのは、自分の足元に流れる河に、飛び石をひとつひとつ置いていくような、言葉が生まれ語りとしてつながっていく、その営みだ。


『なみのおと』『なみのこえ新地町』『なみのこえ気仙沼』『うたうひと』計四つの映画から成る三部作は、2011年から2013年にかけた津波被災者への聞き取りを基にした一、二部と、東北の民話採訪活動をしている小野和子さんの活動を基にした三部から成る。観る者をはっとさせるのは何よりもその印象的なカメラの配置だ。一対一の対話を追っていくカメラは、対話する両者を正面から交互に映す、切り返しと呼ばれるカット、そして互いが向き合っている様子を横から映す引きのカット、それらを繰り返しながら、ふたりの対話をおさめていく。まるで画面のこちら側に話しかけられているように感じる真正面からのクロースアップに、観る者の身体は自然と居直る。画面内ですすむ一対一の対話の、画面外の第三項として、三角形の線が結ばれると、目の前で上映される映像が観る者の時間に織り込まれ、画面内のふたりの声、表情、間、空気が、まさに進行形で生成される状態へと変わるようだ。

対話する「ふたり」の関係性は様々だ。姉妹。夫婦。父と息子。友人。同僚。新婚のふたり。さまざまなふたりが「あの時」を語るが、そこには情報や情動の言葉が期待する「シリアス」な言葉はない。シリアスさは、その人自身の重みとして声に宿り、逡巡、戸惑い、言いよどみ、照れ、どもり、冗談など、言葉外のものが交換されあう時間の中ににじむ。静的なフレームで淡々と対話が進行する形式は、一見言葉にウェイトがかかるように思えるが、言葉の情報性はここではきわめて薄い。言葉が形を帯びる前の、周囲の無数のやりとりが、輪郭を持った後の言葉と同じ強度で、同じ平面において、浮かび上がり、時に言葉の形を中和し、無効化さえもしながら存在する。
流れる川のはるか上、大勢を運ぶ橋のような物語はここにはない。ひとりひとりが生きる営みとしての言葉を置くという行為そのものが、個々人の生命力、生きる体力として映しだされていく。続く三部作目『うたうひと』では、一部と二部で交わされ置かれていく飛び石のような言葉たちを、星座のようにつなぐ「語り」の可能性へひらいていく。


第三部『うたうひと』におさめられるのは、東北民話採訪家の小野和子さんが、おばあさんやおじいさんに話を聴きに行く、一対一の対話の時間だ。ふたりのあいだで、「語りの世界」と「現実の世界」を言葉が行き来する。おばあさんが小野さんに語る話のひとつに「猿婿」として知られる、涸れた田に水を引く代わりに娘をくれという猿に、泣く泣く父親が娘を嫁にやるが、隙をみて娘が川に猿を落とし家に戻ってくるというものがある。おばあさんの言葉と言葉のあいだの皺と湿度に凝縮される時間が語りとともにほどかれていくなかで、別様の言葉が透けてみえる。田んぼで生活する村人にとって生死に直接かかわる水の問題はうかがい知れない共同体の政治的な問題だ。たとえば、貧しい家の娘が本人や家族の意に反して、立場の弱さゆえ悪評高い地主の家への嫁がないといけない不条理。当事者だけではく村人皆が感じていただろうやるせなさ、憐憫、かなしみ、おそれ。いかり。そしてそれを反転させる力として生まれた「語りの言葉」は、「現実の言葉」が切り落としてしまうものたちを、語る者と聴く者のあいだ、映画とひとりの観る者のあいだに立ちのぼらせる。


目の前を流れる不条理な現実という河を前に、すっと一歩渡ることのできる場所として置かれる石。それは「語りの世界」の言葉としてあらわれる。大勢を渡らせるため水面からはるか高く建造される橋に、いま渡りたくないのなら、渡らなくていい。橋の上を流れる言葉や掲げられる物語を頭上に仰ぎながらも、己の目の前の河に相対し、時に水切りをしてみたり、石を投げこんで波紋を眺めてみたりしながら、時々は自分の体重を支えることのできる強度の石を置くことができる。
橋は目的地が最初になければ工事に着手できないが、飛び石にはあらかじめ決められた目的地は無い。飛び石としての言葉は、聞く体、待つ体が目の前にあることで出てくるものだ。この三部作のなかには、誰かの誰かへの応答として生まれた飛び石がそこかしこにある。飛び石は時に合流する。小さな一歩で、または大きなジャンプで、誰かが置いた飛び石にとびうつることができる。そしてまた自分が辿った飛び石を誰かが辿ることだってある。言葉という無数の星のつながりがたまさか描きだす物語は、星座のように人びとの時間を越えてゆく。それは「音」が「声」になり、「うた」としてつながっていく人間の言葉の営みだ。


2011年の3月、頭上に架かるどの橋にも渡れなかったわたしは、3年後、この三部作の「飛び石」に渡ることができた。2014年の3月、東京の映画館で偶然出会った後、隣の人の息遣いが伝わるような地元のちいさな空間で繰り返し上映させてもらい時間を過ごした。何度も観ながら、誰かが観ているのを感じながら、上映後の誰かの言葉、自分から出てくる言葉、それらが浮かぶ狭い空間の中で時間を過ごしながら、誰かが飛び石を水面に置く様を感じ、自分もまた河に石を少しずつ置いたり落としたりして手触りを感じていた。『うたうひと』のラストは、一対一ではない。集まったそれぞれが語る民話を聴きあいながら、そのつづいていく声とそれを聴く耳の気配とともに幕は下りる。誰かがうみだそうとしていることばを待つこと、聴くこと。それは言葉を生みだすことと同じぐらいの強度をもつものだ。板張りの床に座布団を敷きつめ、見上げるようにしてロールスクリーンに映しだす映画をみなで観るという「聴く」行為は、映画に言葉を語らせた。ひとりの観る者と語るもののあいだにしかあらわれない言葉があった。言葉の周りにあった誰かの時間が、聴く、待つ、対面する体に応答して立ち現れた。





監督:酒井耕、濱口竜介
配給:サイレントヴォイス
『なみのおと』2011年 / 142分
『なみのこえ新地町』2013年 / 103分
『なみのこえ気仙沼』2013年 / 103分
『うたうひと』2013年 / 120分

鑑賞場所:ユーロスペース/スペースやっち/cafe moyau地下室/神戸映画資料館



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