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短編|うさぎ



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うさぎ


わたしは最近とみにいらいらする。
草と草のあいだから絶えずころがるしずく。雨の日だろうが、はれの日だろうが、いつでも決まってそこからあらたな水滴がはみだし、とぎれない執拗さはこねられるパン生地のように、わたしの意識への不快きわまりない刺激をやめない。すきとおるガラスのなかに映る混色、ゆがんだ模様、アラベスク、クモの針の注射のような、いちじくの実の朱色のすじ模様。
 そのいちいちがわたしの神経に触る。
 毒々しい色彩。そのほんのちいさなしずくに、わたしの視界と意識は埋めつくされる。しずくの影でチョウが雨宿りをしているのだ。べつのしずくが穴の天井に落ちると、洞窟内で反響し、それはまるで振り子時計のように何重にも耳でわめく。
 わたしはうんざりする。水たまりの泥のにおい。わたしは穴に入ってその情景をいつでも視界に据えなくてはならない。足元はしめっていて両脇はとてもせまく、居心地がいいとはつゆほどにも思えないその穴倉のなかで、わたしの鼻はいつでもむずついている。
 するとまた新たなしずくが立て続けに六粒落ちた。と、またふくらみはじめる。
 しばらくして、しずくのなかに赤い珠のような通常あらわれない染みが見える。わたしは奥に眼をほそめる。なにかがやってくるようだ。わたしは身構える。
 あれは人間だ。人間のこども。うごきでわかる。それはやってくる。
 わたしは面倒なので音を立てずにじっとしていた。
 でもじきにそいつはわたしに気づく。視界のなかに髪の毛ひと房、さらりと落ちてきたかと思うと、そこにしろい顔。
 こどもはわたしに気づくとしばらくこちらを眺めたあと、穴に身を乗り出すようにして近づいてきた。わたしは何度かまばたきをする。

ねえうさぎさん
うさぎでしょ
あなた
やっぱり耳がながいんだね

「何か用か」

べつに
これといった用はないの
ただ

ただ
ききたいことがあるんです

うさぎってやっぱり耳が長いんだな、ちょっと触らせて

「あまり好かないんだ、やめてくれ」

いっかいだけでいいから
いっかい触るとしっくりくるんだ
じぶんのなかで「うさぎの耳」が正しくはいってくるの
・・・
けっこうかたいんだね

「筋があるんだ」
「とにかく、ききたいことがあるならさっさと言いな」

そうだね、
それはちょっといいにくいんです
わたし自身にもそれがまだ質問のかたちになっていないものだから

「どういうことだい」

うさぎさん
おしえて
あなたは何年いきている?

「三十九」

ならわかるかもしれないな
わたしよりずっと長くいきているから

「そうとは限らないよ」

うさぎさん
わたしはどう見える?

「どうって、人間にみえるな。そういう答えを求めているなら」

それだけ?

「人間のこども」

生きものってこと?

「ああ」

生きもので人間でこどもね。生きもので人間でこども。

わたしはお話になるの

「どういうことだい」

お話になるんだ、わたし

 こどもは急に話すのにあきたのか、手近にある葉っぱをやぶっては細かく裂きはじめて眼を合わさなくなった。

たしかにそうらしいんだ

「へえ、なにか書いているのか?」

いいえ、
わたしは書いていない
わたしは書かれているの
書かれる予定なんだ
この先ね

「へえ」

待って、うさぎさん
明日もきていい?

「何かまだ用があるのか」

え、まあ、お話がしたいの

 わたしが何かたしなめる言葉を言いかけたところで「わたしひまだから」とだけ言って、そのこどもは走って去っていってしまった。

つぎの日の正午すぎ、とおくからうなりが響いてくると、それはしだいに人間の出す声になっていき、きのう来たあのこどもがそこらにある穴にむかって手当たり次第にさけんでいるのだということがわかった。
 わたしの穴までくるとこどもは、
「道にまよっちゃった
 うさぎさん
 てつだってほしいことがあるんだ」
 頬杖をついて言った。

てつだってほしいことがあるの

 わたしはこどものにおいを嗅ぐ。めったに嗅がない類のにおいだ。
「例のきみについての話、進みぐあいはどうだい?」

お話のこと? さあ、そんなに進んでいないんじゃないかな
わたしにはわからないの
わたし自身のことだけど、わたしにはなんの関わりもないことだから

「どんな話になるんだ」

わからないな
あるひとがわたしのことを書いている
わたしはそれが何をもとにして書かれているのか知らないの
わたし自身のお話であるということしか

「あるひとっていうのはきみの保護者かなんかかな」

そう、そう、
そんなようなもの、「こいびと」だと呼んでいるよ
わたしにはよくわからない
わたしはかかわっていないものだから
でも深くわたし自身にはかかわりがある
わたしはそれになるんだ
おそらく生きものの人間のこどもの話になるでしょう
そうでなくてはならない
すくなくとも
うさぎさんにはわたしがそう見えるんだから
付け足したいことある?

「その大人とは良好な関係なのか」

まあおおむね、良好というのがどういう状態を指すのか……
たべる、あるく、ねむる、そういうことならわたしにもわかるんだけど

 こどもは穴のなかに身を乗りだしてくる。

うさぎってそんな髭をしているんだね
触ってもいい?

「好かないな、とくに髭は」

いっかいだけでいいの
いっかい触るだけでしっくりくるんだ
自分のなかで「うさぎの髭」が正しくはいってくるの

「わかった」

けっこうかたいんだね
「筋があるからね」
これあげる
うさぎさん
前脚をだして

家にあったいちじく
和いちじくだからあまくておいしいよ
うさぎさんもすきじゃないかな

 わたしはそれを受けとって穴の隅のほうに置いておいた。

うさぎさん
あのね
わたし昼寝してみたい場所があるんだ
一緒に行ってみない?

「ここから出るのは大儀だな」

いっかいだけでいいの
いちどあそこで昼寝することができたら、きっと、いつでも、たとえ家のベッドでひとりで寝るときでも、そのときのことを思い出して眠ることができるよ
それってとってもすてき
これからのためになる

おねがい、てつだってうさぎさん
てつだってほしいの

 わたしとこどもは穴倉から出て丘のうえに向かった。

 そこはたしかに昼寝にもってこいの場所だった。
 太陽のひかりは頭上の木々にさえぎられて、幾度も反射をくりかえし、やわらかな草原のうえへ綿毛のようにゆったりと優雅に降りそそいでいた。

ねえ、うさぎさん
 こどもは言った。
あなたにわたしの話に登場してもらいたいの

「どういう意味だい」

しごく簡単なことだよ
明日、わたしの家でおたのしみ会をするから
あなたも来て
招待します

 こどもはそう言うとぱっと急に起き上がり、駆けて去っていった。
 わたしは草と草のあいだでしばらく薄眼をあけてじっとしてから、陽が傾いたのを知り、穴倉に帰った。

 わたしはその晩、しとしとと雨の降るなか、夢をみた。
 そこにはわたし自身がいる。
 わたしはそこで移動サーカスの団長をしていた。いままさに次の地へワゴンで移動するところなのだが、巨大なテントがうまく畳めない。畳んでも畳んでも入るはずのワゴンの荷台におさまらないのだ。みなで押し込もうとしても、テントはまるで生きているかのように張りをもってふくらみ、威勢よくひらいてしまう。わたしは夢のなかで途方にくれた。三つ子のライオンは二本足で立って、どうしようもないね、というように首を振った。わたしはそれを見て、内心いらいらした。サルが置いていったライターを手にとり、テントに火をつけて燃やしてしまった。

 
 
 こどもの住む家は丘を越えたところにあった。わたしの住む穴倉からはずいぶんと遠い。森をぬけると草原のみどりのなかに、蒼い箱のようなものを遠くから見つけることができる。
 ちかづいていくとそれはモザイクのように色と形を変える。見たこともないような幾何学模様のタイルが組み合わされていて眼が痛かった。

 屋根つきのバルコニーに、木製のテーブルと椅子やベンチが並べられ、赤いチェックのクロスのうえにはリンゴやいちじく、丸パンがはいったバスケット、砂糖のまぶされたドーナツと細かくきられた果物の入った瓶。コーヒーのはいったガラスのポット。オレンジジュースのはいったコップ。狐ピッチャーのミルク。

 こどもはベンチにけだるそうに横たわっていた。
 こどもの横には人間の大人がいる。わたしはそれを見て後ずさりする。やはり、来ないほうがよかったか。

うさぎさん
来てくれたんだ

 こどもが横たわったまま顔をこちらに向けている。

ありがとう
来てくれて
こっちに来て

 こどもの声はひどく間延びしてバウンド力のよわいボールのようにそこに連続して生まれた。わたしはその声にうながされるままにベンチにすわる。

クッキーたべる?

 こどもはコーヒーに浸したやわらかいクッキーをわたしの鼻先に置いた。
 わたしがちらりと人間の大人のほうに眼をやると、安楽椅子にすわった人間は膝の上にぶあつい書物をひろげ、手にはペンをにぎっていた。こどもの話にでてくる例の人間にちがいない。わたしの緊張に気づいたのかこどもはこう言う。

あのひとはあそこにいるだけ
めったに何もしゃべらないの
あいさつしても無駄だよ

 こどもはわたしの耳先に口をつけてささやいた。
 
うさぎさん
なにかしてあそばない?
せっかく来てくれたんだし
ここにあるものもどんどん食べてくれていいよ

 わたしは人間の大人が気になった。そいつはこちらにちらちらと視線をおくっている。わたしに気づいているのだ。
 こどもはわたしの鼻先にトランプカードを並べている。

神経衰弱しない?
うさぎさん
こっちに来て

 こどもはわたしを膝の上にのせ、やおら耳のあいだをなではじめるので、わたしは驚きにおもわずこどもの指をかんでしまった。

痛い
痛い
うさぎさん

「わたしをお前の膝の上にのせるのはよしてくれ」

ああ、ごめんなさい
いちどでいいからうさぎさんのふわふわの背中に触ってみたかったの
それよりうさぎさん
なにか好きな食べものはある?

ないね

人参かな

人参は喰わないね

ふうん、うさぎは人参好きっていうのはまちがいなんだ
まあ、ここには人参はないけれど

ねえ、うさぎさん
さむくない?

さむくはないね

そう

 こどもは突然立ち上がって、裾のひろがった厚ぼったい床をひきずる自身の服の布地のなかに、うさぎをすっぽり隠したので、うさぎは思わずこどものふとももをかんでしまった。

痛い
痛い
うさぎさん

 それでもこどもはうさぎを布地のなかに閉じ込めたままだった。うさぎは突然の罠に動転し、こどものふくらはぎをかんだ。鼻先が当たれば、やたらめったらそこをかんだ。

痛い
痛い
うさぎさん

 こどもはトランプカードを手から放りだしてしくしくすすり泣きをはじめた。

ジャムのついたパンをあげるから
落ちついてよ
うさぎさん
いいこだから

 そう言ってこどもは首元の布地と皮膚のあいだの隙間から、ジャムをへらで乱暴にぬりつけた丸パンをねじ込んだ。いちごジャムのと、マーマレード、バターに杏子のジャム。
 うさぎはジャムのあまったるい匂いと、突然頭上から降りそそいでくるパンの隕石と屑に昂奮し、パンを粉々に丈夫な歯で砕き、ジャムはこどもの布地のなかで四方八方にとびちった。
 こどもがしずかなすすり泣きをあげながら床をひきずる布地を苦しげに左右に揺らすと、うさぎはまたびっくりしてそこらじゅうをでたらめにかみはじめる。
 こどもはまたしくしく涙をながす。
 すると隅にいた人間の大人が安楽椅子からおもむろに立ちあがり、書物をテーブルのうえ、赤いチェックのクロスのうえに置き、テーブルのうえ、バスケットやポットやコップを腕で振り払うと、すべてはすんなり地面に伏せ、こどもの目の前にきた大人は両脇に手を差しいれてそれを宙にもちあげる。
 布地のなかからはジャムとパン屑にまみれたうさぎとパンのかけら、生クリーム、バター、トランプカードがばらばらと落ちてきた。ぽたぽたとあとから落ちるのはいちご、マーマレード、杏子ジャムのしたたり。
 人間の大人はこどもをベンチに降ろすと、うさぎの耳をつかんで宙にもちあげ、首をぽきりと折った。そのままバルコニーの裏手にある焼却炉にいくと、そこからいくつか赤黒く灼けた岩を取りだし、うさぎをそれで挟んでじゅうじゅう焼いた。
 人間の大人はいまでは茶色になってところどころに焦げ目のついた物いわぬ兎をバルコニーにはこび、赤いチェックのクロスのうえにひろげ、ナイフで切り分けジャムを豪快にぬり、むしゃむしゃ食べはじめる。
 こどもはそれを見て言った。
「なんてことするの」
「なんてことするの」

 うさぎはもうそこにはいなくなった。

 こどもは淡々とうさぎの肉を口にはこぶ大人の口許からしたたる肉汁とジャムのしたたりをながめ、ふとテーブルのしたに落ちた書物を拾う。なかをのぞくと、やはりそのこどもの予想にたがわず、でたらめな文字が波打って書きつけられている。二、三ページ、目をとおすと、こどもは書物を閉じて首を振った。

うさぎさん
てつだってほしかったの
わたし

 うさぎはいまや骨と耳の筋だけになった。
 こどもはながいため息をつく。

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