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映画評|ほんとうと演技『ドライブ・マイ・カー』濱口竜介





演技という言葉はときにわるく響く。うそやふりなど、本心とはちがう言葉を操る演技は、相手だけでなく自分自身をもごまかすものだと。一方で演技は、普段は言えないほんとうのことを表すきっかけにもなってくれる。喪失によって言葉が失われてしまったと感じる時、あたりまえだった世界から置き去りにされたように感じた時、人と言葉をふたたびつなぎなおしてくれる力。喪失により言葉からはぐれた者がそれを回復していく道程をおさめたこの映画には、自分にとっての「ほんとう」に、向き合う力をくれるものとしての演技が描かれている。




つなぎとめる演技で失うもの


十年以上前に幼いこどもを亡くした家福と音は、喪失をのりこえるためにふしぎな絆を有していた。それはセックスの直後に音が語る物語を家福が聞き、翌日なにも覚えていない彼女に彼が語り返すという営みだ。しかし、深く愛しあい互いに慈しみあうふたりにはみょうな緊張感が漂う。別の男性と関係をもつ音を知りながら、家福は気づかないふりを続けているのだ。家福が続けた見て見ぬふりの演技は音を失わないためのものであったが、結局そのために家福は永遠に彼女を失うことになる。前夜に彼女が語る物語を、家福が忘れたふりをし語り返さなかった日の晩、音はこの世から姿を消す。音の語りは書き留められ脚本になり社会で成功をおさめたが、一番届いてほしい家福には届かなかった。そしてその物語は妻の死後、別の人から家福は受けとることになる。




オルターエゴでありメッセンジャーである高槻


演劇を仕事にする家福がくりかえし向き合うことになる『ワーニャ叔父さん』のワーニャは、敬愛する人物に裏切られ、気のある人につれなくされ、自責と自棄に陥る男性だ。妻の死後みずから演じることができなくなった家福が、最後ふたたび演技を通して人生に向きあう道のりは、失意の底で何とか生き抜く光をつかむワーニャと重なる。

そんな家福が自身の代わりにワーニャ役に指名したのは、音の浮気相手であった高槻であるが、彼と家福のシーンには鏡がくりかえし現れる。音が引き合わせる初対面では、両者が背後の鏡に二重に映り、音と(高槻だとおぼしき)人物の情事を目撃するのも鏡越しで、オーディション時に相手役に強引に迫る高槻に、家福が動揺する場面にも鏡がある。音を愛し、音の死をかなしみ、音のひきあわせで出会ったことを確認する家福と高槻は、家福がみずから演じられなくなった役を高槻の意思に反してあてがう点もふくめ、高槻は家福のオルターエゴ、もうひとりの人格として浮かびあがってくるようだ。そして高槻は、家福が受けとれなかった音の物語を彼に渡しおえたのち、役目を終えたかのように物語から姿を消し、家福はワーニャ役をとおして自分自身に向きあわざるをえなくなる。




継がれていく「わたしがころした」


高槻を介して受けとった音の物語とはなんだったか。それは「わたしがころした」という語りのなかにある。

その「ころし」は音の物語のなかで、少女と泥棒の遭遇時に起こる。恋する少年の家に常習で忍び込む少女と、ある日泥棒がはちあわせる。襲いかかる泥棒を殺して逃げ出した彼女が、次の日もその次の日もなにも起こらなかったように変わらない日々に耐えられずに防犯カメラにくりかえす言葉。それが「わたしがころした」だ。家福に渡せなかった言葉。それはこどもを亡くした音の底のない苦しみと、喪失後も変わらずつづく日々の耐えがたさであると捉えられるともに、この語りを家福に渡せなかったのは、殺した泥棒が家福と重なる存在だからではないだろうか。少女が突いた泥棒の左目は、現実の家福が患う左目、音が死ぬ晩、目薬の涙を流す家福の左目である。また泥棒が姿を現したのは、少女がそれまで禁じてきた自慰を自分に許した直後だ。ふたりの絆はもはや双方向の営みではなくなっていた。誰かの足音に、やっと自分の侵入行為が明るみになり終わりにすることができると語る音と、浮気が露呈することでふたりの膠着した関係性から解放されると願う音、行為の最中に音を直視できず腕で目を覆ってしまう家福と、彼女の浮気に気づかぬふりを続け関係を維持したい家福は重なる存在であり、他人の家に一方的に物を残していく少女と、泥棒という物を盗んでいく存在は、どちらも侵入者同士である。少女は語る。

自分のことは何も知られずに、彼のことは全部知りたいの。

ふたりは向き合えないまま、孤独に耐えかねた音は語りに応答しない家福を物語内でころし、その直後に現実の彼女は死んでしまう。

音が物語を介して語った「わたしがころした」はその後、高槻が自身の犯行を認める「ぼくがやりました」、母を見殺しにしたと感じているみさきの「わたし、母をころしたんです」に連なり最後、家福自身による「ぼくは妻をころした」に継がれていく。高槻降板後、役を引き受けるか劇を中止するかを迫られた家福は、みさきと母の関係を通じて、自身と音をふりかえり、ワーニャの演技――絶望のなかでも生きつづけることを選ぶ――道へと戻っていく。




ワーニャから解放されたソーニャとしてのみさき


無事に『ワーニャ叔父さん』を演じきる家福。映画はそこで終わらない。『ドライブ・マイ・カー』にはその先に、家福のドライバーであったみさきがひとり(+犬)で車を走らせるシーンがある。みさきは、音と家福の死んだ子どもが生きていれば迎えた年齢と同じ23歳だ。音と家福の物語ではじまるこの映画は最後、こどもとしてのみさきに継がれるようにして幕を閉じる。

音の行為に深く傷つきながらもずっと押し隠してきた家福にみさきはこう言った。家福を心から愛したことも、他の男性を求めたことも、音のすべてを「ほんとう」として捉えることはできないか。みさきは自身に虐待的な扱いをする母と、母の別人格でありみさきの友人でもある少女、どちらも同じ母だったと語る。たとえその少女が自分を引き留めておくための母の演技だったとしても、少女は自分にとっての大事な友達であり、うそでも矛盾でもない、地獄みたいな毎日を生き抜くための母にとっての「ほんとう」だったと。

また、母が死ぬことは母の別人格である少女も同時に死ぬことだとわかりながらも救いに動けなかったみさきは、過酷な境遇から結果的に自身を救いあげたとも言える。それは餓死に近づきながらも岩に噛みついたままのヤツメウナギを高貴なヤツメウナギだと物語内で語り、実際に死にいたってしまった音ともちがう道である。

『ワーニャ叔父さん』は、絶望するワーニャ叔父を義理娘ソーニャが熱心に励ますシーンで終わる。家福/ワーニャを励ます存在としてのソーニャは、この映画内に何人も登場する。録音を通じて家福にセリフを語らせる音、結果的に役を譲る高槻、役を引き受ける覚悟を促すみさき、劇中劇で勇気づけるソーニャ役のユナ。気丈に見えるソーニャたちも、ワーニャ、そして家福と同様、皆過酷な人生を引き受けながら生きている。

それをふまえれば、『ワーニャ叔父さん』のラストの先に描かれるみさきは、ワーニャから解放されたソーニャにも見えてくる。ラストのみさきの頬には、母との絆として残し続けた事故時の傷が消えている。母のために運転し、疑似的な父としての家福のために運転してきたみさきは最後、自分自身のために運転する。家福と音が辿った物語の先を継ぐこどもとして、きわめて中性的な存在として浮かびあがる。


家福が一貫して取り組んでいた演劇は、多言語演劇だった。自分の理解できない言葉、つまり自分のものではない相手の言葉を受け取り、自分の言葉でそれに応えていく営み、それは今作の根底に流れる演技の在り方のように感じる。家福が演じる『ワーニャ叔父さん』のラストで失望にうつむくワーニャに、うしろから抱きしめる形で、韓国手話で語るソーニャ役のユナの言語は、生きるためにつむがれる、ソーニャとワーニャ、ふたりのあいだに生まれてくる言葉だ。それは、かつての音と家福が喪失から生き抜くために編み出した絆の言葉が、家福だけでなく音も知らない、ふたりで待つ言葉だったことと重なる。それがたとえ、覚えていないふりをし家福の口で語り返させることで関係を更新しようとした、音の演技であったとしても。それはふたりにとってのほんとうだったのだ。

演技は「ほんとう」を覆い隠すものでも、やりすごすためのものでもない。家福の「ほんとうをやりすごす演技」は結果的に妻の死を招いたが、彼はその後、そうではない演技、自分が、誰かが生き抜くために生み出される演技の力によって彼女(の物語)にふたたび出会いなおし、回復していく。演技によって覆い隠される「ほんとう」があるのではなく、演技によってでしか近づくことのできない局所的な「ほんとう」がある。現実をやりすごすのではなく、現実を生きるために必要とされ生みだされるもの、そこにこそ演技というフィクションが息づくように思う。


ドライブ・マイ・カー
濱口竜介
2021年 日本
配給:ビターズ・エンド


鑑賞:シネ・リーブル神戸



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