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展評|異なる時間と時間の摩擦|伊東宣明「時は戻らない」京都芸術センター

伊東宣明「時は戻らない」
京都芸術センター
2022年5月14日-7月18日


むかしの写真や動画を目にし、みょうな気分になることがある。
記録のなかのかつての自分が、他人のように見えてきたり。
過去から今、今から未来へつながるひとつの線が、ふいに混線しそうになる。もし記録のなかの自分が未来で、それを見る自分のほうが過去だったとしたら。


伊東宣明「時は戻らない」は、そのような異なる時間と時間、あるいは時間と不可分である身体と身体のあいだに、摩擦をひきおこす。
とはいえ、その接触は、過去をいつくしむ郷愁や、不可逆なものへのあきらめとなぐさめからなる、慰撫の手ざわりとはほど遠い。
切りとられ、並べられ、編集される映像作品の持つ「時間」は、それを観るものの持つ―過去―今―未来の順序に、ゆさぶりをかける。秩序をはずれた時間と時間は、こちらの身体を逆なでする。
記録された映像は今ではそこかしこにある。自分の映像、他人の映像。それが実際にいつの記録であろうとも、再生すれば、今、過去の時間が立ち現れる。
伊東が浮かびあがらせるのは、過去や未来という、「今」とは別の時間が擦れあう感触をたよりにせずには、もしかしたらとらえることができないのかもしれない、今を生きる自分の身体の不安定な現れだ。



時間と時間が擦れあう


生肉をこぶしで叩きつづける男がいる。映像作品《生きている、生きていない》(2012~)で、聴診器をみずからの心臓にあてる裸の男が、おのれの鼓動にあわせて、かたまり肉を叩きつづける。ここで擦れあうふたつの時間は、叩く男の「生きる時間」と、叩かれる肉の「死んだ時間」だ。
対照される「体/肉」は、たんなる「生/死」の対比としてだけではない。叩かれる生肉は食肉用の動物肉を想起させ、「喰う/喰われる」ものとしても現れる。時間の持続はすなわち身体の持続とむすばれる。そこから明るみになるのは、みずからの生命維持=心臓の鼓動に、他者の命を従属させる関係性だ。かといって、男が自由かといえばそうではない。屋内・屋外さまざまな場所で、生きるかぎり止むことのない鼓動にあわせ、絶え間なく叩きつづける男の顔には、感情も思考も見えない。機械的につづけられる一心不乱な様は、男が自分の鼓動音―身体に従属していることを露わにする。男は他人の時間/身体を、おのれの時間/身体に従属させながらも、自分自身の身体に従属しているのである。
また、この作品は現在も制作が継続されており、叩く人間がいずれ死に、叩かれる肉と同じ位相になることで完成するのだという。つまりこの男にとって、死んだ肉は来たるべき未来であり、自身の身体はいずれ過去になるものだ。そのような未来と過去の擦れあいのなかから浮かびあがってくるのは、えたいのしれない「今」の手触りである。

男と肉の関係が一転し、《死者/生者》(2009)では、肉親同士の時間が擦れあう。異なる時間をもつもの同士の、叩く/叩かれる行為は、声をなぞる/なぞられる行為へと転ずるのだ。
となりあって進行するのは、祖母と孫の映像だ。祖母を映す映像では、幼少期をふりかえって語る元気な姿から、人工呼吸器につながれ横たわる姿まで、合間に死を暗示する映像が挿入されながら、死に向かう時間が流れている。
それと同時進行でならぶのは、ベッドの祖母と同じフレーミングで横たわる孫が、祖母のとりとめない語りをそっくりそのまま複唱する映像だ。遅れることなく、祖母の声にぴたりぴたりと、言いよどみまで重なりあう男の声は、その重なりが緊密であるからこそ、祖母がもう過去であるという事実が強調され――リアルタイムで他者の声に逐一シンクロすることはできない――、両者の時間の溝は際立つ。そうしてじきに、より事態は深刻であることに気づく。ぴったり重なっているどころではないのだ。祖母の語りをなぞる男の声は、なぜだか祖母の発話よりわずかに早い。未来であるはずの孫の時間が、過去である祖母の時間を先取りしてしまう。


ひるがえって、未来と現在の時間が擦れあうのが《時は戻らない(2020-2022)》である。
「時は戻らない」と発話する人間がつぎつぎと映される。声に違和感があるのは、「いあなろどまうぃこt」というふつうに聞けば意味のわからない言葉を発し、それを逆再生し構成しているからである。過去から未来への方向でしか意味が通らない仕掛けによって、とうぜん過去から未来の方向に沿って生きるこの映像を鑑賞する者は、身体を逆なでされるかのような感覚をもつ。


おなじく《人生で一番美しい》(2018)もまた、未来を起点にすることで、現在に違和を引き起こす。
「今、私は人生で一番美しい」と10年後、100年後、1000年後に想定された鑑賞者に向かって発話する人物がつぎつぎおさめられた映像で、呼び掛けられるあなたは、「未来」にいるとされる。つまり、映像内の人物は、あなたが「未来」であり、「未来」であるあなたから見れば自分は「過去」であるということを宣言しているのだ。なるほど、それは当然だ。撮影された時間は、それを観る者にとっては必然的に過去なのだから。しかし違和感を感じるのはなぜだろうか。



摩擦から立ち現れる「今」の手触り


そもそも、映像を観るということ自体が、異なる時間の接触をともなう奇妙な行為である。たとえば、撮られた過去の時間、それを観る者の時間は一致することがないまま並走し、「おなじ」時間をすすむ。それは、映像内の時間を、観ている者の時間がなぞる行為でもある。観るというなぞる(《死者/生者》)―または叩く―すなわち鼓動を打つ(《生きている/生きていない》)―生きる行為によって、異なる時間と時間の、異なる身体と身体が時を共にする。先の作品の違和感は、映像内の人物が記録された途端に、記録のなかでつねに「今」である人物と、記録外で今も時間を経ていくだろう人物の、分裂がセリフもあいまって露呈するからではないだろうか。映像を記録し、記録された映像を観るというしごくありふれた行為の接触面に、伊東は逆なでするかのようにして、摩擦を生じさせるのだ。
刻一刻と過去になり、未来を受けとりながら生きる人間の時間から、「今」のみを取り出すことは不可能であるが、いっぽうで、おそらく、いや確実に、自分は「今」にいると信じることも生きるうえでは不可欠だ。そのような不安定な今を生きる身体は、未来や過去という「今」ではない時間との接触で、ふいにみしらぬものとして立ち現れる。


《蝋燭/切り花/眠り/煙》(2020)のなかの男の身体は、像が二重に分裂し、身体が、身体のもつ時間が、ずれている。そしてその男は、身体にはりついた膜にも皮膚にもみえるものをはがしつづける。異なる時間と時間、異なる身体と身体が摩擦を起こしたときに生じる、擦れたりはがれたりするような触感、そのえたいのしれない感触が、自分なのか他人なのか、過去なのか未来なのか、不明になりながらもたしかに感じられる「今」というものの手触りなのかもしれない。


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