ノクチルのlanding pointにめっちゃ感動した人の感想


もうめっちゃ感動した。
どういう風に感動したかは読んでくれると有り難いのだけど、分かりにくかったらごめん……
最初にネタばらしをしておくと、ノクチルは「生きること」をテーマに話が書かれている。
(と思う)
透ふうに言えば「鼓動」とはだろうか。

すごく哲学的で、彼女たちの深い人生洞察から成り立つストーリーは、とても悲しく、痛み続けるが故に、輝かしい。

そんな透たちの旅路を振り返って、この物語が、単純で明快で爽快なストーリーじゃないことが少しでも伝わってくれたら嬉しい。

1

ここでは深く掘り下げることができない、小糸ちゃんと雛菜の話。
というのも、この二人の話は深く掘り下げることを望んでない。
それは、「存在肯定」と「しあわせ」という誰もが当たり前のように了解して然るべきものだからだ。

小糸の物語は「人はそのままで、ここに居て大丈夫」ということの象徴だと思う。
求められている通りでいないと、ここに居てはいけない気がする。
という小糸の思いは、現代社会においてとても馴染み深い感情なのではないだろうか。
「テストでいい点を取らなくてはいけない」
「失敗したら怒られるから、失敗できない」
等々……
もっと色んな「求められている」ラインがあって、そこに見合わない自分は小糸のように「ここに居てはいけない」気がするという、生きづらさを抱えているのではないか。
そんな人たちの「居場所」になりたい、そして何より小糸自身が、それを求めている。
小糸の「感謝」と、ファンの「歓声」は、お互いに「えらい」「すごい」「かっこいい」と言い合うそのままの私への「存在肯定」。

そして雛菜の物語は「人はしあわせになるために生きている」ということの象徴。
それはこの先“何があっても”、絶対に変わることのない最重要価値。
雛菜はいつも「今しかない瞬間」に生きている。そしてその素晴らしさを知っている。
出会った頃から雛菜は一番ブレていないキャラで、だからこそ、ここで多くを語る必要はないと思う。

小糸ちゃんと雛菜の物語は「今まで通り」を更に昇華させたもので、この二人がいてこそ、「存在肯定」と「しあわせ」が前提としてあるからこそ、透と円香の話はより深く、重いものになっている。

2

小糸と雛菜が「今まで通り」をテーマにしているなら、
透と円香は「今まで通りではいられない」をテーマにしている。

どうして二人は今まで通りではいられなくなってしまったのか。
それは透が「命を食べていること」を自覚し、円香は初めから「今まで通りの終わり」を予感していたから。

(ここから少し重くなります)

人間は誰しも「命」を食べずには生きられない。肉や魚、植物という命。
そして透には、水や空、風、月、ギター、そしてミジンコ、どんなに小さなものであれ、古びて捨てられるものでさえ、有機物、無機物関係なく、見えてる世界、そこに「鼓動」を感じるのなら、それら全てが立派な「命」になる。
gradで透は「命の鼓動」を聴いた。呼応するように、透は自分の「心の鼓動」を聴いた。
それは今まで非日常、ここではないどこかを求めていた透にとって、何にも勝る非日常以上の「誰のものでもない、輝かしい日常」だった。

透は命の尊さを知っている。
いや、「知っている」なんて言葉は生易しいと言えるほど、心の奥深くまで染みこんで、根づいている。それを、他ならぬ「私」が「食べる」ということ。
それは透にとって、「命を殺す」ということと同義なのではないのか。
「オエイシス、イエー」では、透はまだ命の内で安らっている。
遊び疲れて眠る子どものように、それは穏やかで優しい。だけれど、「安寧」はいつまでもは続かない。
透も予感し始めたのだ。
「今まで通りの終わり」を。

ここで円香と話が繋がってくる。
(円香、放ったらかしにしててごめん。忘れてないよ!)

透にとっては「突きつけられた現実」であり
円香にとっては「ついにやってきてしまった現実」だと思う。
透は、何よりも尊い「命」を食べないでは生きて行けず、円香は殻に閉じこもって、大切なものだけを仕舞いこんだ優しい世界を、守るだけではいられなくなった。

円香にとっての大切なもの(宝石箱=オルゴール)は透の「命」と同じだ。
人々に都合の良いように解され、規定され、値札を貼られるということは、円香にとって「命を殺す」という出来事なのだ。

円香がいかに、透に対して「アイドル」という値札を貼ったプロデューサーを嫌悪していたのか。
そうしてプロデューサーと関係を深めていく中で、「そうではない」と気づいたからこそ募る、今まで通りの終わりへの不安。

透明であるということは、何も知らない子どものままであるということ。
二人はもう、子どものままではいられないことに気づきつつ、優しい少女時代を奪いに来た、プロデューサー=大人に反抗するのだ。

そんな二人の反抗の言葉、喪失の言葉は、とても痛切で、悲しく、乱暴で、やるせない。
「彼女たちは海へ出るつもりじゃなかった」
それでもプロデューサーは、海へ送り出した者としての、大人としての「責任」を負う。
自由に生きれるように、溺れないように。

押しつけられたものではない「責任」
納得した訳ではないし、言いくるめられた訳でもない。
だけどそれが、プロデューサーのせいでもないということ。私のせいでも、誰のせいでもないということ。
「命を食べて生きていくという」責任を二人は自ら、プロデューサーと一緒に、負う決断をした。
優しい少女時代に手を振って、けれど抱きしめるように、その衝動で、光の中を走って行く。
怒ってるみたいな、悲しんでるみたいな、
挑んでるみたいな、
そんなような、微笑みを湛えながら。

そして、それは小糸ちゃんと雛菜が描いてくれた前提、生きるということはそれ自体が何よりも素晴らしいこと、私たちはしあわせを目指しているんだということがあってこそ成り立つ、輝かしい物語。

雛菜の「いただきます」にはそんな意味が込められているのではないかなと思う。



Better drowned than Noctchill 
As you may know… 
They didn’t mean to go to sea. 
If not Noctchill won’t drown

chillout noctchill
__さよなら、透明だった僕たち





ここまで読んでくれてありがとう!
言葉足らずだったらごめん……でも本当に感動したんだ……そのことだけが伝わってくれれば、感無量です。
そしてライターさん、関係者の皆様にここで一Pとして感謝を申し上げます。
本当に、ありがとうございます……!!!
まさにlanding pointでした!!!
これから四人の関係性がどうなるのか、楽しみに待ってます……!!

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