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二・二六事件の眞相――軍法會議の全貌

日本講演通信社 編『二・二六事件の真相 : 軍法会議の全貌』,日本講演通信社,昭和11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1094465 (参照 2024-01-07)

日本講演通信社編
二・二六事件の真相――軍法會議の全貌
東京 日本講演通信社發行


事件突發から斷罪まで

▶二月廿六日 事件勃発
▶同廿七日 帝都に戒厳令施行せられる
▶同廿九日 事件鑑定
▶三月二日 西園寺公上京
▶同四日  東京陸軍々法会議開設の緊急勅令発布◇近衛公大命拝辞
▶五日   廣田外相に大命降下
▶同六日  松平宮相、湯浅内府新任式◇林、眞崎、阿部、荒木四大将待命
▶同八日  廣田内閣新任式
▶同十三日 一木枢相辞任、平沼副議長昇格就任
▶同十六日 甲府佐倉各部除隊󠄁帰還◇殉職五警官合同葬
▶同一九日 反乱軍參加兵千三百名の留置解除◇天野少佐連隊葬
▶同廿日  戒厳令下集会一部許可◇宇都宮、高崎、水戸、松本各部隊󠄁帰還
▶同廿二日 齋藤前内府葬儀
▶同廿三日 高橋前蔵相葬儀
▶同廿八日 事件関係部隊長等処分発表
▶丗日   事件関係中隊長以下の異動発表
▶四月二日 岩越恒一中将戒厳司令官親補
▶同五日  甲府、佐倉残置部隊衛戎地帰還
▶同六日  鈴木侍従長事件後初参内
▶十四日  事件七七忌

元將校等十七名死刑

現役軍人が徒党を組んで反乱を起し、帝都を一大混乱に陥らしめ、全日本を衝撃した未曾有の不祥事たる二・二六事件については去る三月廿一日事件の一部解禁により概略が伝えられたが、その後反乱参加者全部を軍法会議に回付し、峻厳しゅんげんなる取り調べを行った結果、七月五日の公判󠄁で反乱将校下士兵の判決あり、六日深更陸軍省より事件の全貌彼らの行動動機目的並に判決の内容が発表された。この発表によると反乱事件の首魁として死刑の宣告を受けにるものは元将校十三名その他四名計十七名で、無期禁錮は元将校五名現役将校一名は禁錮四年に処せられた。次に元準士官下士官、四十四名が十五年乃至一年六ヶ月の禁固刑に處せられたがうち廿七名は執行猶予、兵のうち三名は二年乃至一年六ヶ月の刑を受けたが何れも三年間の執行猶予、常人参加者十人中死刑四名、禁錮一五年五名、同十年一名である。(昭和十一年七月七日午前二時陸軍省発表)

計畫及び準備

(イ)
 昭和十年十二月第一師団が近く満州に派遣せらるべき旨の報伝わるや村中孝次むらなかたかじ磯部淺一いそべあさいち栗原安秀くりはらやすひで等は第一師団將士の渡満とまん前、主として在京同志に依り速󠄁に事を擧ぐるの要ありと為し、香田淸貞こうだきよさだ澁川善助しぶかわぜんすけと共に其の準備に着手し、相澤事件の公判を利用して或は特権階級腐敗の事情󠄁、或は相澤中佐決起の精神を宣伝し以て社会の注目を集め、且同志の意を促しつゝありしが、今や諸情勢は正に維新断行の機熟せるものと観取りし、爾來じらい各所に於て同志の会合を重ね、近く決行することを定め、且之が実行に関する計画及準備を画策し、又歩兵大尉山口一太郎、北輝次郎きたてるじろう西田税にしだみつぎ龜川哲也かめかわてつや等と所要の連絡を為せり。

(ロ)
 之が具体案を確定する為昭和十一年二月十八日頃夜村中孝次、磯部淺一、栗原安秀、安藤輝三あんどうてるぞう及亡元航空兵大尉河野壽こうのひさしは、栗原安秀方に会合し、襲撃の目標、方法及時期に関し謀議の上、近衛歩兵第三連隊、歩兵第一連隊及歩兵第三連隊の各一部の兵力を出動せしめて在京一部の重臣を襲撃殺害し、別に河野壽の指揮する一隊を以て伯爵巻の牧野伸顕まきののぶあきを襲撃殺害し、又豊橋市在住の同志をして興津別邸の公爵西園寺公望さいおんじきんもちを襲撃殺害せしむること及び決行の時期を来週中とすること等を決定し、同月十九日磯部淺一は豊橋市に赴き、對馬勝雄つしまかつおに東京方面の情勢を告げ、相謀りて公爵西園寺公望襲撃殺害を確定せり。

(ハ)
 同月廿二日夜村中孝次、磯部淺一、栗原安秀、元航空兵大尉河野壽は再び栗原安秀方に會合し、蹶起することに決し、且つそれ/゛\部署を定めて、総理大臣岡田啓介おかだけいすけ、大蔵大臣高橋是清たかはしこれきよ、内大臣子爵齋藤實さいとうまこと、侍従長鈴木貫太郎、伯爵牧野伸顕、公爵西園寺公望を殺害すること、為し得れば宮城坂下門において奸臣と目する重臣の参内を阻止すること、及び警視庁を占拠してその機能の発動を阻止すること、並に陸軍省、参謀本部、陸軍大臣官邸を占拠し、村中孝次、磯部淺一、香田淸貞等より陸軍大臣に対し自体収集に付善処方を要望すること等を謀議決定せり。

(ニ)
 同月廿三日栗原安秀は豊橋市に赴き、對馬勝雄、竹島繼夫たけしまつぎお等に右決定事項を傳達し、襲撃に関する打合せを為せり、同日頃澁川善助は前記計画を知り、村中孝次、磯部淺一等と東京小石川區水道端こいしかわくすいどうばた二丁目中心道場その他において連絡の結果、自らは神奈川県湯河原町ゆがわらまちにおける伯爵牧野伸顕の所在を偵察すること及び同人は直接行動部隊に加はらず、專ら外部に在りて被告人等の企図達成の為策動すること等を謀議決定し、又同日夜村中孝次、磯部淺一、香田淸貞、安藤輝三及び亡元歩兵大尉野中四郎のなかしろう等は歩兵第三連隊に会合し、内大臣子爵齋藤實私邸を襲撃したる後更に教育総監渡邊錠太郎わたなべじょうたろう私邸を襲撃し、同人を殺害すること等を謀議決定せり。

(ホ)
 同日廿四日夜、村中孝次、磯部淺一、栗原安秀、香田淸貞、亡野中四郎は歩兵第一連隊に会合し、決起後企図達成の為陸軍上層部に対する折衝は村中孝次、磯部淺一、香田淸貞等に於て之を担当すること及び部外参加者は廿五日午後七時迄に歩兵第一連隊に集合すること等を謀議決定せり。

(ヘ)
 以上謀議決定したる事項は極力之が祕密を保持しつゝ同月廿五日夕方迄に其の全部又は所要の部分を他の同志に通達せしが、同志は何れも之を快諾、若は之に同意せり、但し麥屋淸済むぎやきよずみ、鈴木金次郎、淸原康平きよはらやすひらは未だ兵力を使用し直接行動に出づるの意思を有せざりしも、前記計画の示達じたつを受くるや遂に小節の情義に従い、或は強制的勧誘を排するの氣力を欠き、麥屋は中隊附として又鈴木及淸原は各所属中隊下士官兵を率ゐて之に参加を決意するに到れるものなり。

(ト)
 同月廿五日夕村中孝次は龜川哲也方に於て西田税及龜川哲也と相会し、㥐々明廿六日拂曉ふつぎょうを期し決行すべきことを告げて所要の連絡を遂げ、且龜川哲也より蹶起資金若干を受領せり。同日夜村中孝次、磯部淺一、香田淸貞等は歩兵第一連隊に会合し、前記襲撃及占拠後陸軍大臣に対し要望すべき事項として

  1. 陸軍大臣の斷乎たる決意に依り速かに事態を収拾し維新に邁進すること

  2. 皇軍相撃の不祥事を絶対に惹起せしめざること

  3. 軍の統帥破壊の元兇を速かに逮捕すること

  4. 軍閥的行動を為し来りたる中心人物を除くこと

  5. 主要なる地方同志を即時東京に招致して意見を聴き事態収拾に善処すること

  6. 前各項実行せられ事態の安定を見るまで決起部隊を現占拠位置より絶対に移動せしめざること

等を謀議決定し、且つ村中孝次の起草したる決起趣意書なるものを印刷交付せり。

(チ)
 是より先き對馬勝雄は同月一九日豊橋の自宅に於て磯部淺一の来訪を受け、東京方面の情勢を承知し、相謀りて同時に豊橋市在住の同志を以て公爵西園寺公望を襲撃殺害すべきことを決定し、同日廿日医以降竹島繼夫と共に同志歩兵中尉井上辰雄、同鹽田淑夫、同板垣徹及一等主計鈴木五郎に対し之が参加を求めたるに、板垣徹はその賛否を保留し、他の三名は孰も之を承諾し、同月廿三日對島勝雄、竹島繼夫及鈴木五郎は連絡の為来れる栗原安秀より東京に於る襲撃計画及び決行日時等に関する決定事項の通達を受け、静岡県興津町西園寺公望別邸の襲撃も豊橋陸軍教導学校の下士官兵約百廿名を以て同月廿六日午前五時を期して決行し、同人を殺害すること並にその実行計画の概要を謀議決定し、その後對島勝雄、竹島繼夫等は之が細部に関し準備するところありしが同日廿五日に至り板垣徹が兵力使用の点に付敢然反対したる為遂に公爵西園寺公望襲撃を中止し、對島勝雄、竹島繼夫は急遽上京して同志の行動に参加するに至れり。

原因と動機

(イ)
 村中孝次、磯部淺一、香田淸貞、安藤輝三、栗原安秀、對島勝雄、中橋基明なかはしもとあきは夙に世相の頽廃、人心の輕佻を慨し、国家の前途に憂心を覚えありしが、就中なかんずく昭和五年の倫敦條約問題、昭和六年の満州事変等を契機とする一部識者の警世的意見、軍内に起れる満州事変の根本的解決要望の機運等に刺戟しげきせられ、逐次内外の情勢緊迫し、我国の現状は今や黙視し得ざるものあり、当に国民精神の作興、国防軍備の充実、国民生活の安定等方に国連の一大飛躍的進展を策せざるべからざるの秋に当面しあるものと為し、時艱じかんの克服打開に多大の熱意を抱持するに至れり、尚ほ此間軍隊教育に従事し、兵の身上を通じ農村漁村の窮乏、小商工業者等の疲弊を知得して、深く此等に同情し、就中一死報国共に国防の第一線に立つべき兵の身上に後顧の憂い多きものと思惟せり。澁川善助亦一時陸軍士官学校に学びたる関係により同校退校後も在学当時の知己たる右の者の大部と相交わるに及び、此等と意気投合するに至れり。斯くて前記の者は此の非常時局に処し当局の措置徹底を欠き、内治外交共に萎靡いびして振るわず、政党は党利に堕して国家の危急を顧みず、財政亦私欲に汲々として国民の窮状を思わず、特に倫敦條約成立の経緯において統帥縣干犯とうせういけんかんぱんの所為ありと断じ、斯くの如きは畢竟ひっきょう元老、重臣、官僚、軍閥、政党、財閥等所謂特権階級が国体の本義にもとり、大権の尊厳を軽んずるの致せる所なりと為し、一君万民いっくんばんみんたるべき皇国本然の真姿を顕現せむが為、速かに此等所謂特権階級を打倒して急激に国家を革新するの必要あることを痛感するに至れり。
 しかして其の急進矯激性が国軍一般将士の健実中正なる思想と相容れざりしに由り、思想傾向相通ずる歩兵大尉大藏榮一おおくらえいいち、同菅波三郎、同大岸頼好おおぎしよりよし等の同志と気脈を通じ、天皇親率の下挙軍一体たるべき皇軍内に所謂同志観念を以て横断的団結を敢てし、又此の前より前記の者の大部は北輝次郎及西田税との関係交渉を深め、其の思想に共鳴するに至りしが、特に北輝次郎著「日本改造法案大網」たるや其の思想根底に於て絶対に我が国体と相容れざるものあるに関わらず拘わらず、其の雄勁なる文章等に眩惑せられ、為めに素と純忠に発せる研究思索も漸次独断偏狭となり、不知不識の間正邪の辨別を誤り国法を蔑視するに至れり。而して此間生起したる昭和七年血盟団事件及び五・一五事件において深く同憂慮者等の決起に刺戟せられ益す国家革新の決意を固め、右目的達成の為には非合法手段も又敢て辞すべきに非ずと為し、終に統帥の根本を紊り兵力の一部を借用するの已むなしと為す危険思想を包蔵するに至れり。
 斯くて昭和八年頃より一般同志間の連絡を計り、又は相互会合を重ね、種々意見の交換を為すと共に不穏文書の頒布等各種の措置を講じ、同志の獲得に努むるの外一部の者に在りては軍隊教育に当り其の独断的思想信念の下に下士官兵に革新的思想を注入して、其の指導に努めたり。次で昭和十年村中孝次、磯部淺一等が不穏なる文書を頒布せるに原由して昭和十年官を免ぜらるゝや著しく感情を刺戟され、且上司より此種運動を抑圧せらるゝに及びて愈々いよいよ反発の念を生じ、其運動頓に尖鋭を加え、更に天皇機関説めぐりて起れる国体明徴問題の進展と共に其の運動益々熾烈となり、時あたかも教育総監の更迭あるや之に関する一部の言を耳にし軽々なる推断の下に一途に統帥権干犯の事実ありと為し大に憤激せるが、會々たまたま相澤中佐の永田中将殺害事件に會し深く此の擧に感動激発せらるゝ所あり、遂に該統帥権干犯の背後には一部の重臣、財閥の陰謀策動ありと為すに至り、就中此等重臣は倫敦條約以来再度兵馬大権の干犯を敢てせる元兇なるも、而も此等は国法を超越する存在なりと憶断し、合法的に之が打倒を企図すとも到底其の目的を達し得ざるに由り、宜しく国法を超越し軍の一部を借用し直接行動を以て此等に天誅を加えざるべからず。而も此の行動は現下非常時に処する独断的義挙なりと断じ、更に之を契機として国体の明徴、国防の充実、国民生活の安定を庶幾し、軍上層部を推進して所謂昭和維新の実現を齎らさしめむことを企図せるものなり。

(ロ)
 竹島繼夫、丹生誠忠にうよしただ酒井直さかいなおし田中勝たなかまさる中島莞爾なかじまかんじ安田優やすだゆたか、高橋太郎、常磐稔、林八郎、池田俊彦及び山本又やまもとまたも予てより我国現時の状態を以て国体の本義に反するものありと為し特権階級を排除して所謂昭和維新を促進するの必要を痛感しつゝありしが、昭和八年前後より逐次村中孝次等の思想信念に共鳴し、同志としてこれ等に接触し遂に直接行動をも是認するに至れり。

行動の槪要

首相官邸・高橋邸襲撃

斯くて以上同志は相団結の上前記各決定事項に基づき左の如く行動せり。

(1)
 栗原安秀、林八郎、池田俊彦、對馬勝雄は内閣総理大臣官邸を襲撃し、総理大臣岡田啓介を殺害する任務を担当せるが、二月廿六日未明所属歩兵第一連隊機関銃隊下士官等に所要の権を伝達し、次で非常呼集を行い、機関銃隊全員を舎前に整列せしめ決起の趣意を告げ、その一部を丹生部隊に配属し、自ら銃隊下士官兵約三百名を指揮し同四時丗分頃兵営を出発し、同五時頃内閣総理大臣官邸を襲撃し、同邸を護衛せる警官村上嘉茂左衛門かもざえもん、土井淸松、淸水興四郎及小館喜代松の四名並に総理大臣秘書官事務嘱託松尾傳藏まつおでんぞうを殺害したるも。松尾傳藏を以て岡田首相と誤信し、為に同人を殺害するに至らず。

(2)
 中橋基明、中島莞爾は大蔵大臣高橋是淸私邸を襲撃して同人を殺害する任務を担当し二月廿五日夜近衛歩兵第三連隊第七中隊下士官兵約百廿名を守衛隊控兵と突入隊とに二分し、前者はホh亭少尉今泉義道をして之を率ゐしめ、後者を以て同邸内に親友して高橋蔵相を殺害すること等を決定し、翌廿六日午前三時頃中橋基明、中島莞爾は同中隊営内居住室に在りし今泉義道の許に至り昭和維新断行の為目高橋蔵相の殺害に赴く旨を告げ、且行動を共にすべく勧告したるも諾否を明にせざるを以て、中橋基明は我々と行動を共にすると否とは自由に委す、但し決起後は当然守衛隊控兵の派遣あるべきを予想せらるゝが故に、控兵副司令たる貴官は唯控兵を引率せよと申渡し同室を立去れリ。今泉義道は事茲ことここに至る既に已むを得ずと為し中橋基明の意に従い行動せむと決意するに至れり。
 次で同四時頃中橋基明は非常呼集を行い、明治神宮参拝と稱し下士官兵約百廿名を指揮し、同四時丗分頃兵営を出発し、自ら突入隊を率い同五時頃大蔵大臣高橋是清私邸を襲撃し同人を殺害し、次で一同同邸を退去し、中島莞爾は中橋基明の指示に依り。突入隊を指揮して内閣総理大臣官邸に至れり。一方今泉義道は暹羅シャム公使館附近に位置し、中橋基明等の高橋蔵相私邸襲撃間待機の姿勢に在りしが、中橋基明と共に襲撃後守衛隊控兵を率ゐて守衛隊司令官の許に至り、次で命令に依り坂下門の警戒に任じたる後、同十一時頃勤務の交代を命ぜられ所属連隊に帰営せり。

齋藤實・鈴木貫太郎襲撃

(3)
 坂井直、高橋太郎、麥屋淸済、安田優は内大臣子爵齋藤實私邸を襲撃して同人を殺害し、更に高橋太郎、安田優は教育総監渡邊錠太郎私邸を襲撃し同人を殺害する任務を担当し、下士官兵約二百兵を指揮し、同四時廿分頃兵営を出発し同五時頃子爵齋藤實私邸を襲撃して同人を殺害し、其際身を以て内府の危害を防がんとしたる夫人春子に対し過って銃創をを負わしめたる上、同五時十五分頃一同同邸を退去し、坂井直、麥屋淸済は主力部隊を率ゐて陸軍省附近に到り、尚高橋太郎、安田優は下士官以下約丗名を指揮し予ての計画に基づき、赤坂離宮前に於て田中勝の交付せる軍用自動貨車に搭乗し教育総監渡邊錠太郎私邸に向かい、同六時頃同邸を襲撃し、妻すず子の制止を排し同人を殺害し、同六時丗分頃一同同邸を退去し、陸軍省附近に到り坂井部隊の主力に合せり。

(4)
 安藤輝三は侍従長官邸を襲撃し、侍従長鈴木貫太郎を殺害する任務を担当せるが、二月廿六日午前三時頃非常呼集を行い全員を舎前に整列せしめ、同三時丗分頃兵営出発同四時五十分頃侍従長官邸を襲撃し、侍従長に数個の銃創を負わしめ、次で安藤輝三は侍従長に止めを刺さんとせしが、夫人孝子の懇請に依り之を止め遂に殺害するに至らず同五時丗分頃一同同邸を退去し麹町区三宅坂附近に到れり。

(5)
 常盤稔、淸原康平、鈴木金次郎は亡野中四郎の指揮の下に警視庁を占拠するの任務を担当し、二月廿六日午前二時頃各所属中隊の非常呼集を行い、准士官以下約五百名を指揮し、同四時丗分頃兵営出発同五時頃警視庁前に到着し、同庁司法省側及び桜田門側道路上数箇所に機関銃、軽機関銃、小銃若干分隊を配置して同庁の各出入口を扼し、又同庁屋上に軽機関銃、小銃若干分隊を配置し、更に電話交換室に一部を各配置して一時外部との通信を妨害せり。

(6)
 丹生誠忠は陸軍大臣官邸を占拠し、陸軍省、参謀本部周囲の交通を遮断し、香田淸定、村中孝次、磯部淺一等の陸軍上層部に対する折衝を容易ならしむる任務を担当したるが、二月廿六日午前四時頃非常呼集を行い下士官兵約百七十名を指揮し、村中孝次、磯部淺一、香田淸定、竹島繼夫、山本等と共に同四時丗分頃兵営出発、同五時頃陸軍大臣官邸に到着し、主力部隊を以て同官邸の表門に位置せしめ、以て特定人以外の出入を禁止せり。

(7)
 田中勝は所属野戦重砲兵第七連隊の自動車を以てする輸送の任務を担当したるが、二月廿六日午前二時丗分頃下士官兵十三名に対し夜間自動三輪車一両に夫々分乗せしめ之を指揮して午前三時十五分兵営出発、途中靖国神社に参拝し次で宮城を拝し、同五時頃陸軍大臣官邸に到着し、磯部淺一の指揮に依り直ちに乗用自動車に搭乗し、且つ兵二名をして自動貨車一輌を運転せしめ共に赤坂離宮前附近に到り、折柄齋藤内大臣私邸の襲撃を終え更に渡邊教育総監私邸襲撃のため待合せ居たる高橋太郎、安田優の指揮する部隊に右自動貨車を交付し、次で同九時頃栗原安秀、池田俊彦、中橋基明、中島莞爾等が東京朝日新聞社を襲撃するに当り、乗用自動車一輌、自動車ニ輌を之に交付してその部隊の輸送に充て、其他所属自動車或は首相官邸備附の乗用自動車を使用し以て連絡輸送に任じたり。

東京朝日新聞社を襲ふ

(8)
 栗原安秀、池田俊彦、中橋基明、中島莞爾等は同月廿六日午前九時頃下士官兵約五十名を指揮し、軍用自動車三輌に分乗して東京朝日新聞社を襲い、同社をして一時新聞発行を不能ならしめ、次で東京日々新聞社、時事新報社、国民新聞社、報知新聞社及び電報通信社等の各社を廻り蹶起趣意書を配布し之が掲載を要求して首相官邸に帰還せり。

(9)
 澁川善助は二月廿三日神奈川県湯河原町に赴き牧野伸顕の所在を偵察したる上帰京し事件勃発後は外部に在りて同志等の企図を達成せしめむが為め、同月廿七日夜麹町区九段一丁目中橋照夫と相謀り、予て気脈を通じ居たる山形県農民青年同盟長谷部淸十郎等をして相呼応して事を挙げしむる事に決し、之が実行のため前記中橋に拳銃及び同実包を与え、更に栗原安秀に依頼し棒銃砲店より右拳銃用実包三百発を入手せむとしたるも事発覚して目的を遂げず、同月廿六日以後歩兵大尉松平紹光まつだいらつぎみつ等と連絡し外部情報の蒐集に努め、之を同志等の部隊に通報し居たるが、廿八日安藤輝三の部隊に投じて士官を鼓舞激励し、同日夕陸相官邸に到り諸般の助力を為し又坂井直と同官邸附近警戒線を巡視して区処を与えたり。

湯河原襲撃

(10)
 亡河野壽は神奈川県湯河原町伊藤屋旅館貸別荘に滞在中の牧野伸顕殺害の任務を担当し、二月廿五日夜予て栗原安秀の招致に依り歩兵第一連隊に集合せる歩兵軍曹宇治野時參外兵名並に民間の同志宮田晃、宇島淸治、黒田昶。水上源一及綿引正三を指揮し、軽機関銃二銃其他を携行し、翌廿六日午前零時四十分頃自動車二輌に分乗出発し同五時頃湯河原町に到着、伊東屋旅館貸別荘を襲撃して牧野伸顕を創作したるも之を発見し得ざるに依り、同人を焼殺せむとして同別荘に放火して之を焼毀しょうきし、又右襲撃に当り護衛巡査皆川義孝みながわよしたかを射殺したる外附添看護婦森すゞ江に銃創を、折柄消火の為駈付けたる岩本龜三いわもとかめぞうに銃創を負わしめたるも遂に牧野伸顕殺害の目的をぐるに至らず。
 此間水上源一は亡河野壽の重傷を負い再起し難きを知るや、爾餘じよの者を指揮督励し率先抜刀して屋内に闖入し、或は牧野伸顕を焼殺せむとして家屋に火を放ち、或は消火の為駈付けたる者に対し刀を振翳して威嚇制止に勉むる等の行為を敢てせり、亡河野壽等は右襲撃の際負傷したるに因り一同東京第一衛戍えいじゅ病院熱海分院に到りしが同書において各縛に就きたり。

(11)
 二月廿六日東京方面の襲撃を終えたる部隊は予め計画せる所に基き首相官邸、陸相官邸、陸軍省及び警視庁を占位し、麹町区西南部地区一帯の交通を制限し、以て香田淸定、村中孝次、磯部淺一等は丹生誠忠の指揮する部隊と共に二月廿六日午前五時頃陸軍大臣官邸に到着、陸軍大臣川島大将に面接し香田淸定は一同を代表して蹶起趣意書を朗読すると共に各所襲撃の状況を説明したる後、維新断行の為善処を要望し、又眞崎大将、古莊ふるしょう陸軍次官、山下少将、満井みつい歩兵中佐を招致して事態収拾に善処せられたき旨要請せり。
 此の間同日午前十時頃磯部淺一は同邸表玄関前において折柄来合せ居たる。

片倉歩兵少佐に對し拳銃を以て射撃

し同人に銃創を負わしめたり、次で彼らは折柄来邸したる山下少将より軍首脳部において起案したる説得分を読聞け説示せられたるもこれに服せず。
 第一師管戦時警備の下令せらるゝや成るべく此等部隊は流血の惨を避け、説得に依り帰隊せしめむとする警備司令官の方針に基き、同廿六日夕より歩兵第一連隊長小藤こふじ大佐の指揮下に入らしめられ次で同廿七日早朝戒厳令中の一部施行ありし後も前日と同一方針の下に右状態を持続せしめられたるが幹部は之を以て一般の情勢好転せりと判断し益々その所信を深め、その企図を断行推進せむと志すに至れり。

(12)
 同月廿七日朝村中孝次は満井中佐等の勧告に依り陸軍省参謀本部の執務の便宜を顧慮し、同地を開放し寧ろ此際各所属部隊に引揚ぐべき旨に提議せるが一同の容るゝ所とならず、結局首相官邸及び新議事堂附近に部隊を集結することに一決したると以て、村中孝次、香田淸定は、戒厳司令部に到り司令官香椎中将、参謀長安井少将等に対し決起の趣意並に軍上層部に対する要望を述べ、部隊の配備を縮小せる件を力説し、次で村中孝次、磯部淺一等は北輝次郎より事態収拾に関する電話の示教に基き香田淸定、栗原安秀、亡野中四郎等と協議し、同日午後四時頃陸相官邸に於て一部軍事参議官と会見し事態収拾に関し要請する所ありしが、却て先づ小藤大佐の命に従い現位置を撤去するの必要を説示せられ、一応は之を諒解せるも撤去意思を確定するに至らず、而してこれ等部隊は小藤大佐の指揮に基き同夜より首相、蔵相、鐵相てっしょう、農相、文相ぶんしょう、各官邸、料理店幸樂及び山王ホテル等に宿営せり。

北輝次郎、西田稅の電話激勵

(13)
 二月廿八日朝村中孝次、香田淸定等は歩兵第三連隊長より中橋基明に対する連隊命令として「戒厳司令官は勅命を奉じ占拠部隊をして速に歩兵第一連隊兵営附近に集結せしめらるるに依り同中尉は其の指揮しる部隊を率ゐる小藤大佐の指揮に入り行動すべき」旨の電話通達ありたると承知し、小藤大佐に対し其の措置の不当を難ぜるが會々小藤大佐は戒厳司令官に対し下されたる占拠部隊を速に原所属に復帰せしむるべき旨の勅命に基く第一師団命令を受領し之が伝達を企図せる時なりしも、同人等の感情の激化甚だしきに由りしばらく之を保留せり。
 之と前後して村中孝次、香田淸定、對馬勝雄等は午前十時頃第一師団司令部に到り師団長及び参謀長に対し勅命の下令なき様斡旋方を陳情し、陸相官邸に帰来せる山下少将来邸し是等首脳部に対し勅命に基く行動の実施近きこと確実なるを以て善処すべき旨通達する所あり、依って首脳部一同会議の結果自決の決心を為し、偶々説得に来れる師団長及び小藤大佐に対しても陛下のご命令に服従すべき旨誓いたるも、北輝次郎、西田稅等の電話激励と一部幹部中同朝来四圍の情勢の急変と各種情報の混乱錯綜とに稽え、復帰命令は眞の大御心おおみこころに非ざるべしと主張するものあり、又第一線を指揮しありたる者も情況の不明に基因し或は流言に惑わされ、心境一変し包囲部隊が弾圧の措置に出づるに於ては飽くまで現位置を固守し抗戦せむと決意し、同月廿八日夕より首相官邸、新議事堂、陸軍省、山王ホテル等に位置して戦闘準備を為すに至れり。

(14)
 斯くて戒厳司令官香椎中将は小藤大佐に対し之等部隊の指揮権を解除し一般包囲部隊に対し廿九日朝を期し一斉に占拠地区の掃蕩そうとうを下命するに至りしが、反乱幹部の大部は廿九日早朝「ラヂオ」放送並に撒布せられたる「ビラ」等に依り勅命に基く行動の既に開始せられたるを確知し、且包囲団隊逐次近迫せるを目撃し抵抗を断念して下士官兵に対し屯営に帰還を命じ、先に被告人等の手裡を自ら脱して帰営せる数十名を併せて同日午後ニ時頃までに下士官兵の全部帰順するに至れり。爾後山本又を除き幹部全員陸相官邸に集合し其の多くは自決を決意したるも、一部の者は其の時期に非ざるを主張し、遂に亡野中四郎を除く外一同自決を断念し、同日夕何れも東京衛戍刑務所に強制収容せられ、山本又は其の宗教心より同日正午頃逃れて身延山に向かいしが三月四日東京憲兵隊に首出せり。

(15)
 大江照雄及び齋藤一郎は二月二十五日夜中橋基明より明朝他部隊と共に決起すべき旨申聞かされたる處、大江は予てより舊上司たる同人より昭和維新断行の要に付啓蒙を受け、同人等の企図の一部を知悉し居たるより本局の指導系統を離れてこれに参加せんことを決意し、齋藤一郎も又予てより中隊長代理たる同人が国家革新思想を抱懐しあることを知り居たるを以て、同人が命令に仮託して犯罪を強要するものなるを諒知したるも平素の情誼上之を拒み得ずして参加を決意し、廿六西非常呼集に依り中隊兵員と共に中橋基明指揮の下に屯営を出発し同五時頃高橋邸に到り、齋藤一郎は同邸屋内に闖入し蔵相の所在を捜索したる上同邸を退去し、次で中橋基明と共に守衛第二小隊長として宮城内の警戒に任じたり。
 大江照雄は軽機ニ箇分隊を率ゐ前記高橋邸前方路上において憲兵警察官に対し警戒したる後部下を率ゐて首相官邸に赴き、栗原部隊に合流し之と共に行動し居たり。

(16)
 前田伸吉は二月廿五日夜丹生誠忠より明二十六日早朝を期し昭和維新断行のため決起する旨を告げられ、次で廿六日午前二時丗分頃同人より蹶起趣意書と題する檄文を読聞けられ、且つ之が配布を受け更に当中隊の任務等を告げらるゝや直に参加を決意し、非常呼集に依り中隊兵員と共に丹生誠忠の式の下に屯営出発、午前五時頃陸軍大臣官邸に到着する兵五名を率ゐて陸軍省通信所に至り、電話等に依る通信機関の使用を禁止したり。

(17)
 屋島健次郎は二月廿六日午前三時頃舊上官たる栗原安秀より昭和維新断行の旨告げらるるや、予て同人より国家革新の思想を注入せられ之に共鳴し居たるところより本局系統を離れて直ちに之に参加を承諾し、同人の指揮の下に屯営出発、機関銃小隊長として兵約六十名を率ゐ総理大臣官邸裏門に到り各分隊を部署して同邸外部の警戒を為さしめ、且自ら其警戒線を巡視し爾後引続き部下を率ゐて同官邸に位置せるものなり。

(18)
 林武及新正雄は二月廿五日夜所属中外週番士官たる坂井直より決起の趣意を告げらるゝや自ら進んで本行動に参加する意思なきも上官の言辞に魅惑せられ、且平素の命令服従関係に拘束せられ其の違法なることを推知しつゝも已むなく齋藤内大臣邸襲撃に参加せり。
 尚新正雄は出発前坂井直の指示に依り連隊薬庫を開扉し実包を取出し、之を各中隊弾薬受領者に交付したる後、指示に基き分隊長として齋藤内大臣私邸襲撃に参加し同邸内に侵入して同家裏側の警戒に任じたり。
 又林武は齋藤内大臣襲撃に当り軽機関銃分隊長として兵十四名を率ゐ同邸内に侵入し、坂井直の命に依り軽機関銃を以て女中部屋門戸を破壊せしめ同所より屋内に入り齋藤實の所在を捜索して、階上寝室に闖入し、坂井直等が齋藤實を射撃したる際拳銃六発を発射せり、尚林武は右襲撃後渡邊教育総監私邸襲撃に分隊長として参加せり。

(19)
 永田露及堂込喜市は二月廿五日夜中隊長安藤輝三より明朝決起して鈴木侍従長を襲撃すべき旨を告げられるゝや、同人が命令の強制下に参加せしめんとするものなるを諒知したるも平素の情誼上拒み得ずして出動を決意し、小隊長の任を帯び安藤輝三指揮の下に屯営を出発し、廿六日午前四時五十分頃前記侍従長官邸附近に到り、永田露は第一小隊長として下士官兵約八十名を率ゐ同官邸裏門より邸内に侵入し、鈴木侍従長に対し拳銃を発射し、又堂込喜市は第二小隊長として兵約八十名を率ゐ同官邸裏門より邸内に侵入し、鈴木侍従長に対し拳銃を発射し、次で安藤輝三に随い部下を率ゐて陸軍省、新議事堂、幸樂及山王ホテル等に位置したり。

(20)
 立石利三郎は第七中隊長たりし亡野中四郎より本行動に参加を求めらるゝや所属隊週番士官に何等報告する事なく統帥を紊ることを承知しつゝ之に同意し、同機関銃隊下士官四名兵約七十名を指揮し、機関銃及び同実包を携行し野中部隊の警視庁襲撃に参加せり。

(21)
 伊高花吉は安藤輝三の思想に稍々やや共鳴しありしが、二月二五日夜所属中隊鈴木金次郎に伴われ第七中隊長亡野中四郎の許に到り参加の決意を促さるゝや之に同意し、且つ統帥の紊ることを察知しつゝ第十一中隊附軍曹に参加を勧誘せり、出動後は警視庁占拠部隊に加わり軽機関銃分隊長として兵廿名を率ゐ同庁前の警戒等に任ぜり。

(22)
 北島弘、渡邊清作。青木銀次、長瀬一は二月廿五日夜所属中隊にあらざる第一中隊週番士官坂井直より決起の趣旨を告げらるゝや、直に之に次で長瀬は蛭田正夫に、青木は小原竹次郎にその旨を伝え且何れも所属中隊週番士官に何等報告することなく、窃かにニ年兵の一部を率ゐて坂井部隊に加わり内大臣齋藤實私邸の襲撃に参加せり。
 右襲撃後更に蛭田及長瀬は共に軽機関銃分隊長として渡邊教育総監私邸の襲撃に参加せしが特に長瀬一は同邸外扉を射撃破壊し、或は自ら進んで屋内に侵入し、安田優に続いて寝室に殺到し既に斃れたる総監の背後に対し拳銃を発射せり。
 尚長瀬一は入営前より国体の研究に志し且居常明治維新烈士の言行を敬愛しありしが、入営後安藤輝三の指導と相俟て国体顕現の為には一身を犠牲とし直接行動を為すも敢て辞せざるの新年を有するに至れるなり。

(23)
 宇治野時彦、宮田晃、中島淸治、黒田昶、黒澤鶴一、水上源一及綿引正三等は夙に栗原安秀の思想信念に共鳴感激し、特に水上は軍隊を利用するに非ざれば革命は成功し得ずとの信念に基き、青年将校中多数の同志に進んで接近し、又その自宅その他各所において栗原と会合を重ね、直接行動の目標、実行方策並その時期等に関し屢々しばしば意見を交換し、且つ同人より多額の資金を受け只管決起の時期を待望し居たるものなる所前記の者は二月廿五日栗原安秀の招致に依り同夜宇治野時參、黒澤鶴一は擅にその本局部隊を離れ、同隊機関銃隊栗原安秀の許に参集し、其他の者は隊外より来り会し栗原より実行計画の概要を説示せられ、且つ亡河野壽指揮の下に在湯河原伊東屋旅館貸別荘牧野伸顕暗殺の任務を授けらるゝや、孰も勇躍参加したるものにして其の襲撃に方りては宮田晃は黒田昶と共に亡河野壽に従い屋内に闖入し、巡査皆川義孝をたおしたるも河野及び宮田と共に重傷を負いたり、黒田昶は最初同別荘裏口より闖入し拳銃を乱射し、次で同別荘裏側道路に廻り牧野伸顕の脱出を警戒中、火焔に追われ裏庭湯場附近の空き地に避難せる婦女子数名中に同人らしき姿を認め、直に「天誅」と叫び拳銃ニ、三発乱射せり。宇治野時參は日本等を携え最初水上源一に従い同別荘玄関に向かいたるが同人の放火後は同別荘西南側高地附近に於て牧野伸顕の脱出及び警戒隊の来襲を警戒し、次で焔上中の屋内に軽機関銃を乱射せり。綿引正三は刑事巡査らしき寝巻姿の男三名を発見するや拳銃を擬して威嚇撃退し、次で水上源一の放火後は同別荘東側石垣上に数名の婦女子が避難蹲踞そんきょしあるのを認め、その中に牧野伸顕も潜伏しあるべしと直感し之に拳銃を発射せり。中島淸治、黒澤鶴一は最初外部の警戒に任じありしが水上源一の区処に依り軽機関銃又は拳銃を以て附近に乱射し威嚇せり。水上源一の行動に付ては行動概要の(10)に述べたるが如し。

〔七日午前二時陸軍省発表〕
去る二月廿六日東京に勃発したる叛乱事件に付ては其後特設せられたる東京陸軍軍法会議に於て慎重審判中の處直接事件に参加したる将校一名、元将校廿名(内ニ名は事件後自決死亡す)見習醫官三名、下士官二名、准士官下士官八十九名、兵千三百五十八名、常人十名中起訴せられたるものは将校一名、元将校十八名、下士官二名、准士官下士官七十三名、兵十九名、常人十名にして七月五日其の判決言渡を終了せり。
 右軍法会議の審判の結果に基く処刑左の如し。

處刑

一、将校

禁錮四年
 陸軍歩兵少尉 今泉義道

ニ、元将校

死刑
 首魁
  
元陸軍歩兵大尉 香田淸貞
  元陸軍歩兵大尉 安藤輝三
  元陸軍歩兵中尉 栗原安秀
 謀議參與又は群衆指揮
  元陸軍歩兵中尉 竹島繼夫
  元陸軍歩兵中尉 對馬勝雄
  元陸軍歩兵中尉 中橋基明
  元陸軍歩兵中尉 丹生誠忠
  元陸軍歩兵中尉 坂井直
  元陸軍砲兵中尉 田中勝
  元陸軍工兵少尉 中島莞爾
  元陸軍砲兵少尉 安田優
  元陸軍歩兵少尉 高橋太郎
  元陸軍歩兵少尉 林八郎

無期禁錮
 謀議參與又は群衆指揮
  元陸軍歩兵少尉 麥屋淸済
  元陸軍歩兵少尉 常盤稔
  元陸軍歩兵少尉 鈴木金次郎
  元陸軍歩兵少尉 淸原康平
  元陸軍歩兵少尉 池田俊彦

三、元准士官、元下士官

禁錮十五年
  元陸軍歩兵軍曹 宇治野時參
禁錮十三年
  元陸軍歩兵伍長 長瀬一
禁錮八年
  元陸軍歩兵曹長 渡邊淸作
  元陸軍歩兵曹長 大江昭雄
禁錮七年
  元陸軍歩兵曹長 尾島健次郎
  元陸軍歩兵軍曹 蛭田正夫
  元陸軍歩兵軍曹 靑木銀次
禁錮五年
  元陸軍歩兵軍曹 小原竹次郎
  元陸軍歩兵伍長 北島弘
禁錮四年
  元陸軍歩兵曹長 立石利三郎
禁錮三年
  元陸軍歩兵特務曹長 齋藤一郎
  元陸軍歩兵軍曹 前田仲吉
  元陸軍歩兵伍長 林武
禁錮二年
  元陸軍歩兵曹長 永田露
  元陸軍歩兵曹長 堂込喜市
  元陸軍歩兵軍曹 新正雄
  元陸軍歩兵軍曹 伊高花吉
禁錮二年(三年間刑執行猶豫)
  元陸軍歩兵特務曹長 桑原雄三郎
  元陸軍歩兵曹長 福原若男
  元陸軍歩兵曹長 神谷光
  元陸軍歩兵軍曹 井澤正治
  元陸軍歩兵軍曹 豊岡久男
  元陸軍歩兵軍曹 新井長三郎
  元陸軍歩兵軍曹 渡邊春吉
  元陸軍歩兵軍曹 門脇信夫
  元陸軍歩兵軍曹 中村靖
  元陸軍歩兵軍曹 奥山条治
  元陸軍歩兵軍曹 小河正義
  元陸軍歩兵伍長 梶間增治
  元陸軍歩兵伍長 木部正義
  元陸軍歩兵伍長 大木作藏
  元陸軍歩兵伍長 山田政男
禁錮一年六月(三年間刑執行猶豫)
  元陸軍歩兵曹長 堀宗一
  元陸軍歩兵曹長 田島条次
  元陸軍歩兵軍曹 窪川保雄
  元陸軍歩兵軍曹 藤倉勘市
  元陸軍歩兵軍曹 山本淸安
  元陸軍歩兵軍曹 神田稔
  元陸軍歩兵軍曹 新井維平
  元陸軍歩兵軍曹 大森丑藏
  元陸軍歩兵軍曹 井戸川富治
  元陸軍歩兵伍長 内田一郎
  元陸軍歩兵伍長 丸岩雄
  元陸軍歩兵伍長 福島理本

四、兵

禁錮二年(三年間刑執行猶豫)
  陸軍歩兵上等兵 中島與兵衛
  陸軍歩兵一等兵 坪井敬治
禁錮一年六月(二年間刑執行猶豫)
  陸軍歩兵上等兵 倉友音吉

五、常人

死刑
 首魁
  
村中孝次
  磯部淺一
  澁川善助
 謀議參與又は群衆指揮
  水上源一
禁錮十五年
  宮田晃
  中島淸治
  黒田昶
  綿引正三
  黒澤鶴一
禁錮十年
  山本又

罪状

 被告人中将校、元将校及重要なる常人等が時局に当面して激発せる概世憂国至情󠄁と一部被告人等がその進退を決するに至れる諸般の事情󠄁とに就ては之を諒とすべきものなきにあらざるも其の行為たるや聖論に悖り、理非順逆の道を誤り、国憲、国法を無視し、而も建軍の本義を紊り、苟も大命なくして断じて動かすべからざる皇軍を借用し、下士官兵を率ゐて叛乱行為に出でたるが如きは其の罪寔に重且大なりと謂うべし、仍て前記の如く処断せり、又下士官、兵中有罪者一部の者に在りては黨を結び兵器を執り叛乱を為すに当り進んで諸般の職務に従事したるものと認め得べしと雖も、その他に在りては自ら進んで本行動に参加するの意思なく、平素より上官の命令に絶対に服従するの観念を馴致せられあり、尚ほ同僚始め大部隊の出動する等四囲の情況上之を拒否し難き事情等のため止むなく参加し、その後に於ても唯命令に基き行動したるものにして、今や深く其の非を悔い改悛の情顕著なるものあるを以て之等の者に対しては刑の執行を猶豫し、爾餘の下士官は上官の命令に服従するものなりとの確信を以て其の行動に出でたるものと認め罪を犯す意なき行為として之を無罪とせり。

断罪された被告の略歴

第一補充兵 水上源一(三九)

水上源一は神田区西神田ニノ二一の生れ、函館商船学校を経て日本大学法科を卒業して辨理士べんりしを営んでいた。昨年六月十日からニヶ月第一補充兵として中野電信隊に入営した。かねて右翼思想を抱き埼玉挺身隊事件にも関係、澁川善助等と知合い、栗原安秀元中尉とも侵攻を結び、昨年九月麻布区霞町一に移り住んで以来は栗原元中尉等の青年将校が頻繁に出入りしていた。初音夫人(二六)との間に長女宣子さん(三つ)があるが、家族は事件後渋谷区円山町四佐藤ハウスに引越し世を忍んでいる。

陸士中途退学 澁川善助(三一)

澁川善助は福島県若松市七日町魚問屋利吉の長男で、別名を光助を稱し、会津中学二年修業して東京幼年学校に首席で入学、更に陸士予科は二番で卒業して恩賜の銀時計を拝受したが本科に進まず中退明大専門部政経部に入った。昭和九年秋郷里若松市で妻きぬ(二七)を迎えると間もなく上京して右翼運動に走り、一昨年は若松市の同志と相はかって愛国団体皇道維新会を組織し、次いで昨年以来東京市小石川区水道端二の六四に直心道場の幹部として活動していた。

元歩兵少尉 今泉義道(二三)

今泉義道は原籍佐賀市松原町一八二、大正三年五月一五日生、神奈川県鎌倉町大町一一〇八、海洋少年団長予備海軍大佐原道太氏の三男。同町材木座上河原一四一予備海軍少将今泉利義氏の養子となる、東京府立五中二年から東京幼年学校に入学、昨年四月士官学校卒業、見習士官として近歩三付を命ぜられ、同年九月廿七日歩兵少尉に任官したばかりである。

元歩兵大尉 村中孝次(三四)

村中孝次は北海道生れ、陸軍幼年学校を経て士官学校は第丗六期生として卒業、旭川歩兵廿七連隊付少尉、中尉の時士官学校区隊長に任ぜられ区隊長より陸軍大学校に入学、三年生の時某事件に関係して退校と同時に停職「粛軍に関する意見書」を発表して磯部とゝもに昭和十年剥官処分になる。中野区鷺宮四ノ一〇二一に止宿、妻信子さんとの間に男の子一人がある。

元一等主計 磯部淺一(三二)

磯部は山口県の出身、広島幼年学校を卒業、士官学校は丗六期、挑戦の歩兵第七十四連隊で少尉に任官、中尉の時経済的知識の必要を痛感して主計に転科、近衛歩兵四連隊の主計となる、昨年村中と同様剥官処分となった。

元歩兵大尉 野中四郎(三四)

岡山市石井町一七三野中勝明少将四男、大正十三年七月陸士卒、同十月歩少尉歩一六付、大正十四年五月歩三付、昭和八年八月歩三中隊長、岡山市石井四七二元鉄道技師の中頼三郎氏の養子となり、妻美保子(二五)さんと結婚、一粒種保子(二つ)さんがある。(自決)

元歩兵大尉 安藤輝三(三二)

岐阜県揖斐郡揖斐町字三輪五一安藤栄次郎(六九)氏三男、大正十五年七月陸士卒、同十月歩少尉三付、昭和九年八月歩大尉歩三大隊副官、同十一年一月歩三中隊長、歩三生えぬきの将校、厳父栄次郎氏は現慶応大学の舎監、世田谷区上馬一八六四の自宅には妻ふさ子さんとの間に長男輝雄(二つ)次男日出夫(一つ)の二児がある。

元航空兵大尉 河野壽(三〇)

熊本県飽託郡花園村六八六河野旭氏の実弟、昭和三年七月陸士卒、同十月砲少尉横須賀重砲兵連隊付、同十年八月航空兵大尉に進級、所沢飛行学校第五十七期操縦学生として再び入校、在学中は所沢町有楽町下宿業北條ふく(四五)さんの世話で一戸を借りて独身生活をしていた。(死亡)

元歩兵大尉 香田淸貞(三四)

東京市世田谷区上馬町一ノ四九〇、佐賀県山城郡三日月村大字久米三一七生れ、大正十四年七月陸士卒、同十月歩少尉一付、昭和九年三月歩一中隊長(天津軍歩兵隊中隊長)同十年十二月歩兵第一旅団副官、厳父卯七氏は退役特務曹長で現在は某保険会社員である。府下武蔵野町吉祥寺六一八の自宅には富美子夫人(二六)との間に一男一女がある。

元歩兵中尉 栗原安秀(二九)

東京市目黒区駒場町八〇四予備歩兵大佐勇氏の息、昭和四年七月陸士卒、同十年歩兵少尉歩一付、同七年十月歩中尉、同八年五月戦車ニ付昨年歩一付、今は閑居している厳父勇(五七)氏と母かつ(五四)との間の四男二女の長男、一昨年五月玉枝(二三)さんと結婚した。

元歩兵中尉 丹生誠忠(二九)

鹿児島市草牟田町三七四二予備海軍少尉息、昭和六年七月陸士卒、同十年歩少尉歩一付、同九年三月歩中尉、翌十年九月妻女寸美奈子(二三)さんと結婚、父を亡くしてからは郷里より実母の廣子(五一)さんを招き孝養に努めていた。

元歩兵中尉 中橋基明(三十)

佐賀市水ヶ江町五八、昭和四年七陸士卒、同十年歩少尉近歩三付、同七年十月歩中尉、同九年三月歩一八付、同十年十二月再び近歩三付、世田谷区太子堂(現在)退役陸軍少将垂井明平氏の次男に生れたが幼年時祖母に当る佐賀市の中橋米千代さんの養子となり中橋姓を名乗った。

元歩兵中尉 竹島繼夫(三〇)

滋賀県甲賀郡土山町字南土山甲二三二、昭和三年七月陸士卒恩賜組、同十月歩少尉歩二九付、同六年十月歩中尉、同九年八月豊橋教導学校学生隊付。

元歩兵中尉 坂井直(二七)

三重県三重郡櫻村字櫻一三三退役陸軍少将兵吉息、昭和七年七月陸士卒、同十月歩少尉歩三付、同九年十月中尉、麻布区龍土町五六の自宅には本年二月結婚した新妻孝子(二〇)さんがある。

元歩兵中尉 對馬勝雄(二九)

青森市造道波打五八ノ三出身、昭和四年七月陸士卒、同十月歩兵少尉歩三一付、同七年十月歩中尉、同九年三月豊橋教導学校歩兵隊付、歩三一当時満州事変に出征、動功により功五級を授けられた、家庭は千代子夫人との間に長男好彦(一つ)がある。

元砲兵中尉 田中勝(二九)

山口県豊浦郡長府町大字才川六二出身、昭和八年七月陸士卒、同十月砲少尉野砲七付、同十年十月中尉、山口県長府町の実家には実父富作氏母親信子さんがをり、同中尉は昨年十二月下関市富田町平山幸一氏妹久子(二四)さんと結婚した。

元歩兵少尉 林八郎(二三)

豊島区目白町三ノ二五七〇、上海事変江湾鎮で戦士した林大八少将の息、昭和十年六月陸士卒、同九月歩少尉歩一付。

元歩兵少尉 高橋太郎(二四)

埼玉県浦和市二二三二出身、昭和九年六月陸士卒、同十月歩少尉歩三付、浦和市岸町二二三二故重吾氏の長男、粕壁中学、牛込区成城中学を経て士官学校に入った。実姉原このさんの家の牛込区市ヶ谷町五六に寄寓していた。


昭和十一年七月十五日発行/日本講演通信社
「二・二十六事件の眞相」


とりあえず入力はしたものの、これ読めるか……?
昭和11年の7月に発行してるって、判決でてから速攻で出版したのかしら。
送り仮名も統一されていないし、数字の表記もまちまちだったりするし、同じような意味合いの言葉をたまに違う言葉にしていたりするのは意図的なのか……

動画用に直そうかな。
その前に名前の読み方がわからないかも。
もうちょっと調べましょうかね。

今月中にできるかな?
というか、これより電報の記録のほうが興味深かったんだけど、そっちはもっと大変そうなんだよな……


※ほとんどは原文のままですが、一部の漢字は新字に置き換えていたり、「ひ」を「い」にしてたりします
(文言自体は変えていません/2024年1月8日現在)

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