ある日の姫村家(『ストロベリーとシガレット』こばなし)

※本編読了後推奨

「寝袋」
「それはさすがに」
「あぁ、アウトドア感ゼロだもんね」
「いや、そういう意味じゃなくて」
「それがいちばん場所取らないじゃん」
「いちいちちゃんと畳むと思う?」
「思わない」
「……。それに」
 と目の前のソファに転がる塊を見下ろす。
「……千年さんが入ると、死体袋に見える」
 礼が無言の肯定ののち、顔を上げてベランダに目を向けたので、蛍は先回りして「そこはなしで」と言った。

 目下、姫村家が抱えているのは千年の寝床問題だ。
 徐々にではあるが帰巣本能を取り戻しつつある千年は、以前よりもここで寝起きすることが増えた。以前は月に二回も顔を見れば驚きを通り越して不吉を覚えるほどだったのが、最近では週に一度は人間らしい時間に帰ってきて部活帰りの礼と夕食を食べるまでに進化を遂げた。
 その成長速度に礼はまだ戸惑っている様子だ。戸惑いの原因は千年が食事の最中に突然「……あ」と発したきりフリーズしたり、ブロッコリーに怯えを見せたり(多分ぶつぶつ感がだめだった)、尋常じゃない量の七味で赤く染まった豚汁を平然と飲んだりするせいかもしれないが。
 礼にとって千年は未だに「謎の生体以上父親未満」という位置づけにあるらしい。
 その千年が居間のソファを根城と定めたらしいことで、そろそろきちんとした寝床を与えるべきなのでは、と蛍と礼は思い始めた。曲がりなりにもこの家の主がいつまでも居候のようにソファで寝起きし続けているというのは落ち着かないし、朝食の最中にソファから転げ落ちてそのまま床で眠りこけるのを横目にパンを食べるのもいいかげん嫌だから。

 協議の結果、無難に蛍の部屋にもう一組布団を置いて当面はそれを使ってもらうことになった。
 毎日帰って来るということはないだろうし、そのうちまたぱたりと姿を見せなくなることもあり得るし、ひとまずそれで十分だろう。
 ちょっとだけ、蛍が眠りを妨げられたり悪夢にうなされたりするかもしれないだけで。
「二段ベッドっていう手もあるんじゃない」
 スポーツ選手に健やかな睡眠は必須という理由で部屋の提供を免除された礼が他人事だと思って言う。
 想像してみた。上に居られても下に居られても否応なく不穏な気配を放つのが千年という男である。
「なんかそれって」
「刑務所感」
 蛍の台詞を奪い、含み笑いを残して礼は登校していった。
 ひとり残された蛍は、なにも知らずに呑気に眠り続ける千年を見下ろす。
 とりあえず、その身体の下敷きになっている洗濯物たちを、出勤までにどう救出しようかと考えながら。

     *

 という話を後日明にしたら、「じゃあお前うちに住めば?」と軽く言われた。相変わらずそうやって大人の経験値を見せつけては蛍を誑かす。
 喜んで誑かされてしまいたかったけど、残される礼のことを思って涙を飲んだ。
 じゃあいつかのお楽しみに取っとくよ、と明は笑って、「そのかわり今日は帰るなよ」ととどめの一撃。

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