多細胞生物なので僕たちは死にます。
「ラーメン食べて帰ろうよ」
君がいうから僕はうなずく。
型にはめられたようなありきたりの食べ物を頬張ると、湯気によって視界が曇らされた。
美味しいねとも言わない。君は麺で塞がれた口を、咀嚼のためにしか使わない。
なんのために、僕たちここにいるの?
「壮真はさ、私のこと抱ける?」
「物理的には」
「物理的にはとは」
「行為自体はできると思うよ」
「抱くって、行為以外になにがあるの?」
「心」
「は」
「心」
ヒールが地面を叩く。彼女なりの存在証明みたいだった。冷たい心音が繰り返される。綾は僕に対してだけ、嘘をつくのが下手だった。
「なに」
「最近ずっと、男と一緒にいるの。まさかとは思うけど、物理的には出来ちゃうわけでしょ」
「彼女?」
「そう」
「毎週のように僕と出歩いてるくせに。人のこと言えないよ」
「やっぱりそうだよねえ。見た目じゃわかんないし、分かってもできちゃうんだもんね」
「僕はやらないよ」
「当たり前でしょ。私だってできないわ」
赤く塗られた指先をひらひらさせる。彼女は自由な人間だと思う。
自由ってよく分からないけれど、縛られていないとか、好き勝手してるとか、そういうことじゃなくて、自分自身を諦められた人が、やっとそれを手にできるんじゃないかと思う。
彼女は自由だ。
「男と女が一緒にいるだけなのに」
「男と女が一緒にいるだけなのにねえ」
「この危うさは何なんだろうね」
「できちゃう危うさじゃない? 新しい生命を、作ることができる」
「それって本当は危ういことじゃ、ないのにね」
彼女は長い髪を手で梳いて言った。大振りの耳飾りが罠のように揺れる。
「なんで? 本当は、どういうこと?」
「嬉しいこと」
「そりゃ、人によって違う」
「そうだけど。私たち生き物じゃん。生き物って結局は、種を存続させることが嬉しいんだよきっと」
「全体で見たらね。でも僕、正直、僕の命が終わったら、その後なんてないんだから、存続なんか考えたことないよ」
「私たちはね」
「他の人だってきっとそうだよ。”ヒトを生もう”として、産んでるわけじゃないでしょ」
「そりゃ、人によって違う」
「やめよう」
綾は鼻で笑った。僕たちは笑うことしかできない。別に誰も、種の存続なんて望んでいないのだと思う。だからこそ、男と女が一緒にいると、嬉しさより危うさが勝ってしまうのではないだろうか。
「気にしない方がいい。男と女が、一緒にいるだけなんだから」
「そうだね」
「好きになる時は、好きになるし」
「なんで不安にさせるわけ?」
「いやいや、それは、ほら。絶対なんてないだろ。僕は99.9%、女性と恋愛はできないと思ってるけど、その可能性を否定することはできないし」
「ちょっと歯車が、狂うだけなんだろうね」
「狂っちゃうのかもね」
高い音が鳴り止んだ。僕は彼女を振り返った。
「……彼女の歯車が狂わないように、願っとくよ」
伏せられた睫毛の隙間から、寂しさを映した瞳が見える。彼女が彼だったら、僕は彼女に抱かれるのだろうか。
たった一つ、物事が違うだけで、そんなに簡単に、嵌ってしまうものなのだろうか。
「もう知らん。今日だけは、考えないようにする!」
「もう今日終わるけどね」
「日の出までは今日なの。日のぼったら、やっぱりあの子のこと、好きだって思うと思う」
切ない顔をする。彼女の心拍は、淡く塗られた頬を追い越した。
「うん。いいじゃんそれで」
僕は彼女のことが好きなんだと思う。どうしてこんなにも綺麗なのに、僕の全てでもって愛することができないのだろうか。残念でならない。いや、そもそも彼女がそれを欲してないのだから、残念ということはないか。
「帰ろう」
潰れたスニーカーで地面を踏んづけた。コンコースの下の方には、酒とタバコと老けた男の匂いが這いつくばっていた。
「壮真、ありがと、ばいばい」
「危うくもないし、嬉しくもないから」
「うるさい。私もだよ」
綾は右手の中指と薬指をくっつけて手を振る。そこに嵌められた細いシルバーリングは、彼女とお揃いのものかもしれなかった。
そうだなあ。綾、素敵な女の子だと思うよ。僕がもし女の子だったら。なんて考えるくらいには、僕はもう彼女に囚われてしまっているのかもしれない。
大丈夫、僕は彼女を、心の底から抱くことなんてできない。
僕たちはずっと、危うくなんてならないから
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先月のはじめ頃に勢いで書いて、なんか訳わかんなくなっちゃったなと思ったのでずっと放置していたお話です。
読み返してみると、案外本質をついている……というか、二人の人間性が見えてきて面白いなあと思ったので、供養することにしました。
きっときっと、危うくなんてならないんだろうな。うんうん。
←これ実は、猫じゃなくて、狼なんです。