見出し画像

ペドロ・コスタの初期三作を観た。

ポルトガルの映画監督ペドロ・コスタの作品は、随分と前から気になるものであったにも関わらず観る機会や手段がなかなかありませんでした。
ところが少し前に知人からDVDを貸していただくことができ(しかも貴重な初期作のボックス!)、やっと観ることができたので、X(旧ツイッター)に書いた感想をこちらにまとめておきます。


・ペドロ・コスタ『血』

上のツイートから続く一連のツイートを以下に書き出します。

ペドロ・コスタ『血』を観た。いろいろと印象的なところはあるけどまず光の撮り方凄い。この視点だけで印象に残るショットいくつ挙げられるだろう……。暗闇に人の顔を浮かばせるの何度かあるけどどれもいい。あとこれだけ画面真っ暗でも人の様相ってわかるもんなんだみたいな、画面が凄いのか人の目が凄いのか?って場面もいくつかあった。特に画面の中でかなり横に近いというか、低い角度で差す光の撮り方がいい。と同時にそれと対照的というべきか、明らかに必要以上に距離を持って上から撮っているショットがいくつかあってそれの物語上の意味は今のところ見出せていないものの惹かれるものがある。
白黒で夜景の場面が結構出てくるところと、あと物語として思いの外ロマンチックに感じたところなんかでゴダールの『アルファヴィル』を想起することも多かった。ラストのこれまたロマンチックなところなんかも。ただそれだけで終わらないことを宣言するかのようなカットがそれに続くので、この印象だけで語ってしまうのはおそらく勿体ない作品だろうな。
あらすじだけは予め把握して観たので、いわゆる「父殺し」的なテーマの作品か?と思ってたりしたのだが、実際そういう風に観ようとするにはヴィセンテの存在がとっつき難いというか、端的に何考えてるかよくわからなくて、ニーノの存在をメインに観たほうが寓話的で物語を捉えやすくなる気はした。
この映画の中で最も幻想的な場面は川と霧と死体と人影へと続く一連の場面だと思うけど、思い返すと初っ端のヴィセンテと父の対面ビンタの場面からして、背景と人物の間に妙なギャップがあって、ある種幻想的な感触はある。
あとその最も幻想的な場面に続くところで、何人かが走って追いかけあうシーンがあるんだけど、全員妙に走り方ダイナミックで結構足早そうなのがちょっとおかしかった。夜中に脱走するニーノが手すり滑り降りるのがマジで一瞬だけ挿入されるところとかもクスっとなる。
川と霧と死体と人影の場面見返したけどめちゃくちゃ凄えなこれ。『狩人の夜』のそれに匹敵するんじゃないか?
今知ったけどペドロ・コスタとレオス・カラックスって同年代なのか。『血』の薬局へ(薬を盗むために)向かうシーンのカメラ並行移動は『汚れた血』のあれみたいだなあと思ったところだった。
DVDに付いてる批評家フィリップ・アズーリによるコメンタリーで語られる「衝突」の視点は面白い。が同時に、これを軸に物語における権力からの逃避を語るのは一見飲み込みやすいけど、それを冒頭にあらゆるものの集約を見出すっていう批評としてはあまりにありきたりな手法で語るのはどうなんだろうとも思ったりする。
いくつかの場面見返したり、コメンタリーでも語られる場面の絵が流れたりでつくづく思うけど、モノクロで絵の美しさを感じさせる映画として現状自分が観たことあるものでは間違いなくトップクラスだな…。カーテンのとその向こうの人物ってショットの決まり具合はベルイマンのペルソナとか思い出す。
クララの顔が意味深な光に照らされるいくつかの場面にコクトーっぽさを感じるんだけど、コクトーの作品にそういうのがあったかうまく思い出せない。



・ペドロ・コスタ『溶岩の家』

ペドロ・コスタ『溶岩の家』を観たんだがやべー全然わかんねえ。何らかの感慨がないわけではないんだが、自分がこの映画から取り出した情報に何ら確信が持てないし、それを背骨とする収束ももちろん全く得られないまま終わった…。
この映画に興味を持つきっかけはアピチャッポンの『光りの墓』との関連について述べるポストを見つけたことだったので、最初のほうはそれとの(音、物語の設定、ロケーションなどでの)かなりストレートな類似がフックになったし、前作『血』を観た後だったので顔のクローズアップに初っ端かららしさをめっちゃ感じたり、更に前作との対比でカラーであることの旨みを感じられるシーンが次々出てきたりで非常にいい感じだったんだが、それらの鮮烈さ(自分の中で)が落ち着いた中盤以降が何とも掴み難い。なんか自分の映画の観方の傾向にめちゃくちゃ向かない作品を見てしまったような直感も少しある。

色に惹かれることはとても多い映画だったけど、特に海のシーンに顕著な、夜の月明かり?の青白さがとてもよくて、そこに浮かぶマリアーナの服の赤との対比が最も印象的だった。他にも暗闇に夜の月明かりを受けた体の線が浮かぶシーンが何度かあり、この辺はモノクロの映画以上に部屋を暗くして観る必要性がマジで強かった。ここまで部屋暗くしないと何もわからんと思った映画も珍しいかも。
ロケーションは間違いなくこの映画の強みというか、何なら全てなのかもしれないけど、その魅力が表れたショットは個人的には草全く生えてない肌剥き出しの山を歩くシーンでめちゃくちゃ遠くから撮ってるやつ。なんか黒沢清『蜘蛛の瞳』の無意味追いかけっこ長回しにおける距離感が過ぎったりもしたけど印象にあまりにギャップがあるので関連させるのは超不適切だろうな笑
あと最初は何度かオフで聴こえて、そこから物語をかなり牽引する役割にもなっていく楽士の男の奏でるバイオリンが、正直最初聴こえた時は単なる下手に聴こえてたのに、演奏する人物が映る→他の楽器と合わさって演奏されるといった段階を踏むにつけて、節回しとして聴こえるよう耳が変わっていくのが少しだけど感じられた。このおじさんは本当にこういう演奏を日常的に行なっている現地の人なのだろうか。あとこういう映画で音楽が情緒的に撮られること自体は珍しくはなさそうだけど、それが思いっきり疎まれるシーンまであるのは新鮮だった。



・ペドロ・コスタ『骨』

ペドロ・コスタ『骨』を観た。前作『溶岩の家』からの繋がりを強く感じるが、そちらが観た直後の感触が全然わからんだったのに対し、こちらはとても直接的にキツいし息苦しいなので何かしらを受け取れてはいるんだろう。
驚くべきは主要人物数人の中で、看護婦のエドゥアルダ以外のスラム街に住む人たちの口数の少なさ。「言葉を持たない」ことによる様々な苦難を想像させるに十分なものがあるように思うけど、これはどの程度演出でどの程度リアルなものなのか判断が難しい(というかできない)。
そしてその主要人物の口数の少なさの一方で、彼らが住むスラム街のショットでは常に周りの住居からの雑多な音が響いている。看護婦エドゥアルダの住居の静かさ(とても身に覚えのある静かさ)とは対照的で、「静かさ」の特権性だったり、そういったフィルタリングのうえで整然と紡がれる言葉にどうしたって疑問が出てくる。この映画の中で最も多くを語っているのは、カメラに映らないところから聴こえてくるこういった音のように思った。
あとこれもこの映画が何らかのエッジーさを持っている証なのかもしれないけど、正直これを自分が観る意味みたいなことを考えてしまう時間が多く、画面に集中できているとはあまりいえなかった。舞台やその背景を調べることはそれなりにできるだろうけど、それ以上のことは現実問題なかなか難しい。それ以上のことができる人に届く可能性は十分に秘めているのでこの映画が撮られること自体は意義深いんだろうけど、私は私がそれ以上のことができる距離感のものをもっと観るべきでは?という疑問が離れず……
『骨』に映るスラム街の音環境の大きな要因となっているであろう「開け放たれた」性質は『溶岩の家』にも非常に多く観られるはずだけど、そちらには私は今回『骨』に感じたようなことをあまり思わなかった。要因はいつか思い浮かぶけどどれもあまりよろしくない。
ペドロ・コスタの映画は、現状観たものはどれも何らかの不在を意識させる性質があるように思うけど、『骨』では宗教の不在が気になった。こういった貧困の問題がある時に宗教が出てこないのは日本に住む自分からしたらとてもリアルに感じたんだけど、例えば特定の宗教が深く根付いた人たちがこれを観たらどう感じるのだろう。あと考えてみると宗教の不在は『溶岩の家』からも見取ることのできるように思うんだけど、この映画で唯一の創作と監督が語っているマリアーナの存在があることで、直接的なそれではなく宗教的な「モチーフ」を見ることは可能になっている感じがする。一方『骨』は映るものを「モチーフ」として観ることを許してくれない。



三作を観た現状で強く惹かれるのは一作目の『血』。ただこの作品についてはインタビューなどで反省めいたトーンで語られることが多い印象。『あなたの微笑みはどこへ隠れたの?』も一緒にお借りしてるんだけど、こちらを観るのは諸事情で少し先になりそうなので、一旦この時点でまとめました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?