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『idiorrythmie』セルフライナーノーツ by Shuma Ando




私の家の窓から(1976年12月1日)、子供の手を引いて空っぽのベビーカーを押しながら歩く母親が目に入る。彼女は平然とした様子で歩いていくが、子供は引っ張られ、ぎくしゃくとした足取りで、たえず駆け足にならざるをえないのだった。まるで家畜か、鞭に打たれるサドの小説の犠牲者のように。彼女は自身のリズムで歩いており、子供のリズムが異なるものであることを理解していないのだ。(拙訳)

Roland Barthes, Comment vivre ensemble : simulations romanesques de quelques espaces quotidiens : note de cours et de séminaires au Collège de France, 1976-1977, Seuil : IMEC, 2002, p.40.



今日においてリズムという言葉は、他者を抑圧する権力性と切り離せないものであるとバルトは考えた。ある年のコレージュ・ド・フランスでの講義を「いかにしてともに生きるか」と題したバルトにとって、かようなものとしてのリズムがなんとしてでも避けられるべきものであったことは言うまでもない。そこで彼は講義を始めるにあたって、語源をたどりつつ、他者を抑圧しないもう一つの、あるいはむしろ本来の「リズム」を示す概念をもち出す。「イディオリトミー(idiorrythmie)」—それは端的に言えば、それぞれの主体が自分の固有のリズムを保ちつつ、それを相手に強いることなく共生するということである。

 バルトが追い求めたものは、たしかにひとつのユートピアであったかもしれない。しかし、音楽はユートピアを垣間見させてくれるものに他ならない。針尾電波塔という奇妙な場所に赴き、なんの取り決めもなく楽器を鳴らしはじめた私たちは、相手の出す音に耳を傾けることもあれば、塔の反響や外の音とともにそれを聞き流すこともあった。あるいは、自分の音を聞く相手の存在を意識することもあればしないこともあった。当日の朝に初めて会ったばかりの私たちにとって、相手の存在は透明なものではもちろんなかった。それはつねに、やんわりとした異物として頭の片隅に存在していたはずである。しかるに他方で私たちは、相手の存在に気づまりを覚えるようなこともなかった。「作品」としてリリースすることなど念頭になかった私たちは、気ままに自分の音を鳴らし、気ままに相手の音に反応した。私たちはそれぞれ、自分のリズムを崩さぬままに相手のリズムと戯れたのである。

 私と異なる主体が、しかも私を抑圧せずに—それどころか私にとって悦ばしいものとして—私とともにある。私たちは本作の実践にイディオリトミーというユートピアを見たわけである。しかし本作のイディオリトミーは、演奏者の二人ともまた異なる、聞き手であるあなたが、あなた自身のリズムで接したときに、よりいっそう豊かなものとなるだろう。したがって私たちはこの言葉を、自由にその意味をずらしていくことができるものとして開いておくこととしよう。



本作の曲名はすべて文学作品を参照したものである。以下にその引用元を記しておく。

1. bifurcation(分岐)
このアルバムは「bifurcation」にはじまり、「biffure」におわる。この、意味はまったく異なるが見た目はよく似た単語を用いた言葉遊びは、ミシェル・レリス『ゲームの規則I 抹消』を参考にしたものである。2人の演奏者がそれぞれに分かれていくことの予言としてこの単語を借用した。

2. en avançant dans la prose je rencontre(散文を書きすすめながら、私は出会う)
ジャック・ルーボー『ロンドン大火』のある断章の章題からの引用。この章では、言葉を書き連ねていく上での逡巡や、一つの事柄について書こうとするときに出てくる膨大な選択肢への戸惑いが率直に語られる。それは、即興演奏の際に直面する事柄と響き合う上に、一つの線から複数の選択肢が生じてくるというもう一つの「分岐」でもあるという点で、1曲目のタイトルにも呼応するものである。

3. les cyprès ne bougeaient pas(糸杉は動いていなかった)
同じく『ロンドン大火』の断章の章題からの引用。病死した語り手の妻が撮影した写真について語られるこの断章は本書でもとりわけ有名な箇所である。ブレた糸杉が写されたその写真を見た語り手は、しかし撮影の瞬間に風など吹いていなかったことを思い出す。それは病身の妻の荒い呼吸によって生じたブレであり、つまり写真はここで、単に目の前の対象を固定するメディアであることをやめ、カメラのこちら側にいる人物の身体の動きや息遣いを喚起するものとなっているのである。この章題を引用したのには、一つにはこの曲が演奏者の平木氏の姿を浮かび上がらせるようなものだからである。しかしさらにもう一つ、今回の録音のあり方に関連する理由がある。つまり、一人の演奏者とその演奏を聴く一人の傍観者は、互いに相手の息遣いをかすかに感じ取っていたはずであり、録音にもそんな二人の人間の息遣いを喚起するものがあるのではないかと考えたのである。

4. les ombres errantes(さまよえる影たち)
パスカル・キニャールの同名作品からの引用。死に関する古今東西の題材をもとに断片形式で書かれた作品である。分岐していた二人の人間はこの曲で合流し、それぞれの声が重なり合う。それらは塔の深い残響のなかで、あてもなくさまよう影となる。

5. biffure(抹消)
—そして抹消線が引かれる。








photographier, collage by Shuta Hiraki (2022.09.02)


photographier, découpage by Shuta Hiraki (2022.09.02)


dessin by Shuta Hiraki (2022.09.02)


photographier, découpage by Shuta Hiraki (2022.09.02)


photographier by Shuta Hiraki (2022.09.02)



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