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〈hirvi Acousmonium live 2024〉を終えて ~アクースモニウムについての走り書き~

5月12日に京都のFRAME in Voxにて開催された『hirvi Acousmonium live 2024』において、招待作品というかたちで私の楽曲をアクースモニウムで上映していただきました。おかげさまで盛況の中終えることができ、またいろいろと嬉しいお声がけもあり、本当に感謝しております。ありがとうございました。

私は当日は出品者としてコンサートを全編鑑賞させていただいたほか、その前日に行われたアクースモニウム体験会にも参加させていただき、非常に学びの多い2日間となりました。私はアクースモニウムのための作品(アクースマティック・ミュージック)は門外漢にしてはそれなりにあれこれ聴いてはいましたし、自分なりにその傾向や特徴を見出したりもしていたのですが、アクースモニウムを実際に体験するのは(鑑賞者としても演奏者としても)今回が初めてでした。つまりコンサートへの出品の依頼を受けた段階では未体験だったため、制作もアクースモニウムの特徴などを「こうであろう」と想像して作るようなかたちになったのですが、結果からいうとそれは当たっていたところは多いものの、実際に体験して最も惹かれた部分は完全に想定外でした。

ということで以下に備忘録として体験会とコンサートで感じたことを記しておきます。




・アクースモニウム基礎情報

体験会やコンサートの振り返りにいく前に、まずアクースモニウムに関して全くの未知の方のために最低限の基礎情報を。アクースモニウムはフランスの電子音楽の作曲家であるFrançois Bayle(フランソワ・ベイル)によって提唱された、多数のスピーカーとそれらに接続されたミキシングコンソールからなる電子音楽を上演/演奏するための音響システムです。スピーカーの種類や数、配置に明確な決まりはなく、会場(環境)の広さや響きなどの特徴に合わせて設置者がそれらの要素を調整するため、一言にアクースモニウムといってもそのシステムの構成はそれぞれ異なるといっていいでしょう。ただし、配置については一応セオリーのようなものがあるようです(後述します)。

アクースモニウムについてはhirviの代表でもある檜垣智成さんによる以下のページ(およびそこにリンクされているPDF資料)が素晴らしいので是非お読みください。PDF資料のほうには代表的なアクースモニウム作品のリストもあるので、ディスクガイド的に見るだけでも面白いと思います。



《アクースモニウム体験会》

体験会はhirviの代表である檜垣智成さんが講師となり、アクースモニウムの成り立ちや背景、思想、特徴などを軽くおさらいしながら、実際にミキシングコンソールを触って演奏をしてみるという手順で進められました。

成り立ちや思想についてのおさらいは、先に掲載した檜垣さんのPDF資料の内容をより圧縮して説明いただいたようなものだったのですが、その中で何点か印象的だところをピックアップしてみます。

・クラシック音楽との連続性

アクースモニウムはその誕生においてオーケストラからヒントを得ていたり、また最初のアクースモニウムが教会で組み上げられたことからも、クラシック音楽との連続性がいたるところに見受けられます。アクースモニウムを用いた電子音楽の上演についても、クラシック音楽における作曲家と演奏家の関係を思い浮かべてもらうのが最もスムーズに理解できるかと思います。例えばバッハの作品をピアノでリヒテルが弾くように、リュック・フェラーリの作品をアクースモニウムで檜垣智成が演奏する、といった具合です*¹。

*¹ただし実際のところ、アクースモニウムにおける演奏は、作品を最も理解している作曲家自身によって行われることが多いようです。これにはアクースモニウムが生まれて以降、それのための作品を発表してきた著名な作曲家の多くが存命なことも関係しているでしょう。つまり作曲家と演奏家の関係性におけるクラシックとの近似が表面化したり、または新たな関係性が見出されるのは、まだ先の話といえそうです。


・音響スクリーン

アクースモニウムは多数のスピーカーを用いることからいわゆるマルチチャンネルと非常に似たものにも見えるかと思うのですが、スピーカーのセッティングの面でも、それを用いた演奏や表現の面でも、両者には興味深い対比が見られます。アクースモニウムのセッティングや演奏において重要となるのが「音響スクリーン」という考え方で、これは簡単に言ってしまえば多数のスピーカーの中に存在するステレオのペア(それが構成する疑似的な「面」)のことです。例えば縦長の空間にスピーカーが12個設置されていたとします。アクースモニウムではこれらの配置の中にステレオのペアを作って、そのペア一つ一つを「音響スクリーン」として捉えます。
以下の図でいえば赤のペアが形成する赤線や、青のペアが形成する青線、一つずつが音響スクリーンということになります。この場合は空間に6つの音響スクリーンが設置されていることとなり、それらのスクリーンは赤~青~緑~オレンジのようにある程度規則的に並置されることもあれば、紫や水色のように大きく異なる幅で他のスクリーンを横切るように設置されることもあります。また、アクースモニウムではスピーカーの機種やサイズなどによる音質の差異も「音色」として演奏に利用するため、音響スクリーンによって機種やタイプの異なるスピーカーがよく用いられます。

アクースモニウムにおける「音響スクリーン」のイメージ図。実際には例えば低域のみが再生されるものなど、LRの配置に還元できないスピーカーが足されたりもするようですが(今回のFRAME in Voxでも低音域のみ/中音域のみ/高音域のみが再生されるスピーカーが用いられていました)、設置のメソッドの根本にはこの音響スクリーンという考え方がまずあるといっていいかと思います。

そしてアクースモニウムを用いた演奏においても、この音響スクリーンは常に意識されるポイントとなります。アクースモニウムでは演奏される楽曲(通常のステレオ音源であり、特別なフォーマットなどではありません)を立体化/空間化させるにあたり、例えば上掲の図において赤の音響スクリーンから青の音響スクリーンへといった具合に「音響スクリーン間を移動させる」という操作が基礎としてあるようです。このような操作をミキサー上で行う場合、赤のLとRのフェーダーを上げた状態で、青のLとRのフェーダーを徐々に上げていき、双方の音量がある程度拮抗する領域に入った段階で赤のLRを下げていく、といった操作を行います。つまり常にLとRのペアとなっている2つのフェーダーをセットとして動かすことになり、LとRをバラバラに動かすということは単純な音響スクリーン間の移動という操作では行われません。
体験会で最初にアクースモニウムの操作として実際に行われたのも、一定の音量で流れているピンクノイズを、赤→青→緑→オレンジといった感じで後方の音響スクリーンへ移動させていくというものでした。そしてこのような操作の注意点として挙げられたのが、原曲を尊重する思考です。例えばこの操作では単純なピンクノイズが常に同一音量で流れているわけですが、音響スクリーン間を移動させていく中で、その移動にムラができてしまうと、聴き手からすると音量が大きく上下しているように感じられたり、ひどい場合は音が途切れる瞬間が生まれたりしてしまいます。これはすなわち原曲の「同一音量で流れている」という性質を変容させてしまっているということになるでしょう。もちろんフェーダーが操作されている以上音量の変化は絶対に起こっているのですが、それを原曲の持つ性質を破綻させない程度に留めながら、スムーズに空間に広げていくというのが最初に示された初歩的な操作例でした。
このような原曲の持つ何らかの性質を(再現は不可能ですがある程度)保存するという態度は扱う音源がより複雑なものとなろうとも、アクースモニウムの演奏において根本にあるものといっていいでしょう(そういった意味で原曲にない価値を新たに付そうとしたり、何らかの性質を局所的に拡大縮小してみせることが珍しくないリミックスやダブとは異なるといえるかと思います)。そしてそれはもちろん、扱う音源の性質が変われば、操作の様相も様変わりすることを意味します。例えば先のピンクノイズとは異なり音量が激しく上下する音源を演奏する場合、その上下動をよりダイナミックに感じさせるため、音響スクリーン間の移動にあえてムラを持たせるといった解釈があるかもしれません。


・マルチチャンネルとの対比

アクースモニウムとマルチチャンネルの様々な面での対比を示すスライド。ちょっと見難いかもしれませんが拡大してご覧ください。

音響スクリーンという考え方(その配置や演奏における用い方)は、同じく多数のスピーカーを用いた表現であるマルチチャンネルやイマーシブオーディオと、ある種の対比を成すものとして捉えるとその特性が掴みやすいかもしれません。檜垣さんによる解説でも、上掲の写真に写っているスライドでその対比がいくつかの視点から示されています。この中でも個人的に特に印象的だったのが、「アクースモニウム=大局的:マルチチャンネル=局所的」と示されている部分です。アクースモニウムの演奏では先のように音響スクリーン間の移動を基礎としますが、もちろん実際の演奏ではそれは複数のスクリーンを同時に操作したり、付加的な位置にあるスピーカーをある種装飾的に鳴らしたりといったより複雑な操作が行われます。そして音響スクリーンはその面が至る所でクロスするような構造になっていることが多いため、結果的に音像は曖昧となり、それが故に「理想的なリスニングポイント」のようなものが特定し得ない音響空間が生まれます*²。一方マルチチャンネルでは(もちろん例外はあるでしょうが)基本的に多数のスピーカーから等距離にある中心点が「理想的なリスニングポイント」として定められていることが多いのではないでしょうか。そしてマルチチャンネルのそのような性質は、中心点以外のポイントで聴いた時に、どうしてもそこで聴こえたものが中心点に対して下位のものに思えてしまうような、ある種のヒエラルキーを生んでしまう側面があるように思います。アクースモニウムではその空間のどこで聴くのが正解といった判断が機能し難いため、こういったヒエラルキーも生まれ難いというのが個人的には非常に魅力的に感じました。

*²強いて言うなら、演奏者が操作するミキサーの置かれたポイントを「理想的なリスニングポイント」とみることはできるように思います。そしてアクースモニウムがクラシック、更に言えばオーケストラからその着想を得ていることを踏まえると、演奏者の位置や振る舞いはどうしてもオーケストラの指揮者を思わせます。アクースモニウムの設置においてミキサーを置くポイントがどのようにして決定されるのかについては、先に掲載している檜垣さんによるPDF資料内に簡単な説明があるものの、その自由度については私は現状よくわからないため(現場で尋ねればよかった……)断定的なことは言えませんが、リスニングポイントのヒエラルキーの有無に関して、疑義を挟む余地はアクースモニウムにも一応あるとはいえそうです。

また、そういったヒエラルキーの生まれ難さ、中心点の判断し難さは、「全てを聴くこと」の不可能性をそのまま受け入れる態度へも繋がるもののように思います。そしてそのような態度は、時代としてはアクースモニウムの後に生まれたアンビエントとも、どこか通じるものではないでしょうか。ブライアン・イーノをはじめ、アンビエントの作家が自作を多チャンネル環境で展示することは今や別段珍しいことではないですが、その一つの起点としてイーノの1982年の作品『Ambient 4 (On Land)』のジャケット裏面に掲載された独自のアンビエント・スピーカー・システムの存在を挙げることはできるかと思います。

『Ambient 4 (On Land)』ジャケット裏面テキストの翻訳

私はこのスピーカーシステムを正確に再現し体験したことはないですが、テキストを読む限り、その目的はリスニングポイントの拡張にあることはたしかでしょう。いささか恣意的な読みをするなら、ここにはステレオサウンドが「正確」に聴こえる一点を手放し、「正確」ではないがしかし良好な、ある種の妥協点を多く生むことを求める姿勢も読み取れるように思います。アクースモニウムの誕生は1974年、イーノがこれを体験し何らかの影響を受けていたかは気になるところです。


・リュック・フェラーリ『Archives génétiquement modifiées』

アクースモニウムの成り立ちや演奏における背景や思想をおさらいし、ピンクノイズを用いた試奏でフェーダーやスピーカーの挙動を把握した後には、実際の音楽作品を用いた演奏体験も行われました。そこでまず取り上げられたのがリュック・フェラーリの作品『Archives génétiquement modifiées』の2トラック目。
この作品(2~3分ほど)をまずは檜垣さんが演奏されたのですが、これが凄かった。この作品は終始非常に忙しなく音が動くのですが、おそらく檜垣さんもそこをより強調するような演奏をされていたと思われ、聴いていた印象としてもかなりダイナミックに音が空間を飛び交う印象でした(演奏後に檜垣さん自身もかなり複雑な操作をしていたと仰っていました)。
おそらくこの楽曲を選ばれた意図の一つは、そういったパフォーマティブな面でのアクースモニウムのポテンシャルを体感してもらうことにあったと思われます。クラシックの楽曲に演奏者の技巧を示すのに適したもの(例えばヴァイオリニストにとってのパガニーニの作品などでしょうか)が存在するように、フェラーリのこの作品は演奏者の腕の見せ所が多いものといえるのかもしれません。
そして檜垣さんの演奏を観た後は、参加者がこれを演奏してみるわけですが、それに際して檜垣さんのほうから「好き勝手動かしてみてください。結構テキトーにやってもうまくいきます」といった先ほどのピンクノイズの試奏とは対照的な助言がありました。で、実際やってみたのですが、これがマジで何もわからない……。まずフェーダーを好き勝手動かすというのが予想以上に難しい。ミキサーは普段制作で使ったりはするものの、フェーダーを複雑に動かすなんてことはまずやらないので、全然手が思うように動いてくれないという不自由さを強烈に感じました*³。
そして不器用ながらに音をあちこちに動かしてみるのですが、ここでもう一つ驚きがあって、自分で操作しているはずの音の動きがなんだか全然よくわからないんですよね。単純に手の操作でいっぱいいっぱいになってるからというのはあると思いますが、それにしても檜垣さんや他の参加者の演奏を聴いている時とのギャップが凄い……慣れの問題もあるはずなので簡単に結び付けていいものか迷いはありますが、アクースモニウムの特性として先に語られていた「音像の曖昧さ」を実感させられるような、かなり特殊な経験でした。

*³もちろん演奏家として活動されている方々も最初から手が思うように動いたわけではなく、地道な練習があるそうです。というか最初は本当に単純な音の移動を延々やるみたいな感じだそうで、こういうところは本当に楽器演奏の習得と同じですね。


・ドニ・デュフール『Messe À L'Usage Des Vieillards』より「Gloria」

そしてフェラーリに続いての実演体験、今度はドニ・デュフールの作品『Messe À L'Usage Des Vieillards』の一部である「Gloria」から抜粋された1~2分ほどのシーケンスが取り上げられました。先に演奏したフェラーリの『Archives génétiquement modifiées』から抜粋されたシーケンスは常に細かな変化が飛び交うような(つまり大局的な視点に立てば変化に乏しいともいえる)様相でしたが、こちらでは前半の数十秒がパーカッシブなサウンドが複層的に重なった騒がしい場面、そしてそれが急に途切れて弦楽器の弓弾きとプロペラ機の飛行音が混ざったような持続音がゆっくりと比較的弱音で表れる後半へ、といった明確な場面転換がありました。そして参加者にはこのコントラストのある前後半に何らかの「解釈」を施し、音の動きに表してみることが促されました。
私は自分で作品を作ったり、また電子音楽について自分なりに分析して文章書いたりもしているからか、この解釈自体はすぐにできました。具体的には前半を会場に斜めの位置関係で設置されている二種類の音響スクリーンで(さながら客席を囲むまたは横切るようなイメージで)鳴らして立体感を強調、後半は音の種類の少なさや音量の小ささを唯一客席から見えない位置に設置されていたステレオのスピーカーで鳴らすことで「遠くで鳴っている」というニュアンスに利用、といった具合です。
ただ問題なのはそういった解釈ができたうえで、実際その通りにフェーダーを動かせるかでして、私の場合はその解釈上必要な操作は本当に最小限(前後半の切れ目でフェーダーの設定変えるだけ)だったにも関わらずやはり少しあたふたしてしまいました。余裕があれば前半でちょっとバランスを動かしてみたり、即興的に他のフェーダーも上げてみようかと考えていたはずが、切れ目での動作を忘れないように意識しているとほんの少し上下させるだけでいっぱいいっぱいでした。
ここでの演奏経験で一つ興味深い発見がありまして、ここで用いられたドニ・デュフール作品からの抜粋は前述したように前後半ではっきりと切れ目があり、後半部分は少しの間をおいてからゆっくりと音が立ち上がってくるため、実質的に音が切れている時間がそれなりの秒数あるため、そこでフェーダーの設定をガラッと変えることが可能なんですよね。音が途切れない場合アクースモニウムの構造や美学上鳴らすスピーカーの切り替えは滑らかにせざるおえないため、AとBの音響スクリーンで鳴っていたものを急にCとDの音響スクリーンに切り替えるみたいなことは(原理上不可能ではないものの)かなり高度に思えます。ただ無音が挟まってしまえばその間はいくら豪快にフェーダー触ろうが問題ないわけなので、使用する音響スクリーンの組み合わせを一気に様変わりさせたりも全然できるわけです。これまであくまでリスナーとしてアクースモニウムのための作品を聴いてきた中で、自分がそれによくみられる特徴の一つだと考えていたのが、このような展開の中での「間」の存在の多さだったのですが、その要因にそれがあることで演奏の際に自由度が上がるという非常に実際的な事情があったことにここで初めて気付くことができました。アクースモニウムの演奏家というのは自身がそれで演奏される作品を作る作曲家でもあるというケースが非常に多い印象なので、そういった演奏上の都合というのは直接的に作風に取り込まれているのではないかと思います。
また、このような演奏のために必要となる解釈を実際に行ってみればすぐに気付くのですが、楽曲に対して展開の把握やパート毎の特性、前後とのコントラストの在り方などなど、様々な側面から要素を分解、把握していく必要が生じます。アクースモニウムのための音楽はそれに深く接していない方が聴くとおそらく非常に抽象的でとりとめのないものに感じられるのではないかと思いますが、演奏家にはそれが様々な機能が組み合わさった具体的な構造物のように聴こえているのではないかと思います。私の作品を演奏してくださった大塚さんによるコンサート数日前のポストにある「曲の覚え」という表現も、そういった演奏家からの風景を端的に示すものに思えます。

つまりアクースモニウムでは、実際に空間化された音響の立ち表れ方、それへの接し方については「全体」の把握の不可能性(更にはそれによるヒエラルキーの発生し難さ)がある一方で、演奏の前段にある解釈の時点では厳格といっていいほどに全体の把握を要請されるという面があるといえそうです。
アクースモニウムにある、空間化に際する「曖昧」な音響的特性が、どこかアンビエントと重なるものであるという指摘を先の音響スクリーンについてのパートで行いましたが、一方で空間化の前段にあるこのような厳格な把握の必要性は、アンビエントの価値観とは非常に対照的なものである気がします。
アンビエントの作品というのはその特性というか目指すべき方向として、聴く人にそれを覚えさせない、もっといえば覚えようという気を起させないというのが確実にあると思いますし、できることなら作曲家自身にすら覚えられない状態のものであることが一つの理想なのではないかと思います。イーノがアンビエント自動生成アプリBloomの開発に行き着くのは正にこの理想の体現といっていいでしょう。
アクースモニウムは作曲家と演奏家といった位置関係など様々な方面でクラシック音楽との連続性を持っており、「曲を覚え」ることも間違いなくその一つと捉えられます。そしてアンビエントを提唱した時期のイーノにとってそれは、それはアンビエントの提唱によって回避したい様々な価値観、関係性の一つであったことは、ライブ活動という「演奏家」的な活動から彼が距離を取ったことを鑑みれば明らかでしょう。
イーノにそのような意図があったかは定かではないですが、音響スクリーンのパートで述べた重なりも合わせて、アンビエントにはアクースモニウムに対する批評的な眼差しが、そしてアクースモニウムにもアンビエントに対する批評として機能し得る様々な特性が、埋め込まれているように感じます。



《アクースモニウム・コンサート》

体験会の翌日にはコンサートもあり、こちらには檜垣さんだけでなく、hirviのメンバーの方の多くが出演されました。

コンサートのプログラムはこのような感じ。

私は大塚勇樹さんが全ての作品を演奏される第二部にて、作品(通常のステレオ音源として制作されます)を提供させていただいたかたちで、どのように響くのか楽しみにしておりました。
先に書いた通りアクースモニウムではそれが設置された空間のどこで聴くかに優位性などが発生し難いと思いますが、今回は割合小さめのスペースで演奏される都合上演奏者の至近距離にも客席が設置されており、そこではミキサーを操作する様子がばっちり見えるため、響きというより視覚的な意味で優位性はあったかもしれません。そして会場入りした時点でミキサーの隣りに置かれた席は空いていたため、申し訳ないと思いつつ私はそこで操作の様子も含めてじっくり鑑賞することができました。しかしながらフェーダーの操作の様子が見えたからといってそれがはっきりと聴覚とリンクして体感できるかというと、実際のところそういった時間はかなり少なく、まだ私の中では視覚と聴覚双方から入って来る複雑な情報をうまく処理できていない感覚でした。なんならそこから目を外して聴いた時のほうが音の変化には敏感でいられた気がします。前日の体験会で今回のアクースモニウムの仕組み(個々のフェーダーがどのスピーカーに割り当てられているか)を掴んでいてもこの有様なのですから、アクースモニウムの演奏/鑑賞において耳と手、もしくは耳と目をしっかりとリンクさせるのはやはり相当な修練が必要なのだろうと、前日のフェラーリ作品の試奏に続き、実感した次第です。

今回のコンサートに私は3つの楽曲(合わせて15分程度)を提供させていただいたのですが、それらにはこれまで私がアクースモニウムのための作品を(あくまでステレオ環境で)聴いてきて感じていた特徴を取り入れたり、もしくはあえてそれに反するようなことを試したりといった箇所がいくつかありまして、そこについて簡単に記しておきたいと思います。各楽曲はサウンドクラウドの試聴リンクを貼っていますが、実際にアクースモニウムを体験した今、いろいろとやり直したい点も多いので一週間ほどで削除すると思います。


・「Ember」

まずコンサートで1曲目に演奏された「Ember」から。この作品は環境音や既存音源のサンプリングなどを用いず全て生成された電子音で制作されているのですが、そこでの音色の作成においてオルガンの構造を参考にしています。もの凄くざっくりいうとシンセに入ってきたノート1つ1つに対して異なる倍音に設定されたオシレーターが毎回異なるバランスで鳴る感じになっていて、オルガンの「鍵盤ごとに音色を作る」構造をシンプルに真似しています。これをアクースモニウムのための作品でやった意図は、アクースモニウムが毎回設置される場所に応じて、(大雑把な指針はありつつ)規格化されずにその都度その空間のための「おあつらえ」として構成されるという特性が、主に教会などにオーダーメイドで設置されるパイプオルガンの成り立ちに重なるように感じたから、というとてもシンプルなものです。 そして実際演奏していただいた印象は非常に興味深く、これまで何度も書いてきたアクースモニウム特有の音像の曖昧さがとてもうまい具合に作用して、どこかのポイントに(擬似的なオルガンという)楽器が立ち現れる感じではなく、実体はあまり感じられないものの空間全体が鳴っている、空間ごと楽器になっている感覚がありました。


・「Graveyard」

続いて2曲目に演奏された「Graveyard」。この曲はアクースモニウムどうこうというのをあまり考えず今自分が聴きたい電子音楽を作った感じなのですが、中盤でグリッサンドするストリングス系の音色に合わせて補強的に低音をやや強めに入れているところがポイントです。アクースモニウムのための作品では低域は割合としてあまり多く(または大きく)鳴らないものが多い印象があったので、このパートがどのように響くかは個人的に興味がありました。結果としては大塚さんの腕もありこのパートはとても自然に重厚感/存在感が出ていたのですが、低域を鳴らすことによる特別な効果を目論むならもっとはっきり大き目に入れる必要があるなとも感じました。アクースモニウムのための作品であまり低域が多く鳴らない理由としては、低音というのは人間の耳には定位が掴み難いため空間化という操作をするうえでの旨みが発生し難かったり、また低域の量が多くなるとその音像が空間を埋めてしまい他の帯域の動きの表現が耳に入り難くなったり、といった事情があるのかなと推測しますが、そこは体験会とコンサート通してもまだ確かめられた感覚はないので、また体験する機会があれば注目したいです。


・「Lapse」

そして3曲目に演奏された「Lapse」。この曲は基本的に、ちょっと特殊な方法で作った海鳴りのような音がずっと左右に動きながら鳴り続け、そこに断片的な音響素材が絡んでいくというスタイルです。アクースモニウムのための作品では音が非常にフレキシブルに左右に動く印象があり、この作品ではそれを一応意識はしているのですが、左右への動きがゆったりしていることや、そもそもメインのサウンドとなっている海鳴りのような音が結構ボワボワしたもので定位がエッジーに表れるタイプのものではないことから、作者の意図としては動いてるんだか動いてないんだかよくわからない感じがでたら面白いかなと思っていました。実際の演奏ではそういう風に感じられる瞬間もあり、目論見自体は一応達成できたかなというところですが、この曲のその状態が音楽的に面白かったかというと微妙なところでした。自分の作品だけでなく、他の方の作品や前日の体験会含め、アクースモニウムではやっぱりエッジーに左右の動きが作品に埋め込まれていたほうが少なくともその環境を初めて味わう場合には面白いなというのが、今回の印象です。
あとアクースモニウムのための作品において、演奏されるステレオ音源の時点で非常に複雑かつ雄弁な左右の動きが書き込まれているのは、(そういった左右の動きって演奏の段階で演奏者がフェーダーの操作によって生むものではないのか?という意味で)ずっと疑問だったのですが、体験会でアクースモニウムの演奏における音響スクリーンという存在やその扱い方の基本(ステレオのペアを同時に動かす)を知るとその疑問がクリアになりました。もちろん実際の演奏においては基本に縛られず演奏者が左右のフェーダーを個別に動かして表現を行うこともあるかとは思いますが、作品の次元と演奏の次元で行われる表現の境界が少なからず見えるようになったのは大きな収穫。



《おわりに》

以上、だいぶ長々と書いてしまいましたが最後までお読みいただきありがとうございました。そしてコンサートと体験会に関わっていただいた方々、改めてありがとうございました。
アクースモニウムは現状では認知の面でも様々な活動においても、まだアカデミックな領域に留まっている印象はありますが、今後より広い領域と関わりを持つことにhirviのみなさんも前向きなようでしたし、今回私をお誘いいただいたのもそうような動きの一環であったかと思います。アクースモニウムはそのシステム上音源に特別なフォーマットは用いないため、それで演奏される作品は基本的な音楽制作環境があれば作れるってことになりますし、演奏者の解釈と腕次第でそもそもアクースモニウムでの演奏など想定していない作品でもそれで活きるものとして上演が可能だったりするのも面白い点ですね。
今回のコンサートでは自作自演が多かったため演奏家と作曲家が役割として分かれている構図はやや見えにくかったかもしれませんが、少なくとも演奏は行わない作曲家としてであれば、アクースモニウムに関わるハードルは意外と低いのではないかと思いますし、これからも様々な門外漢がこれに興味を持つことになれば面白いなと思う次第です。
また作曲家や演奏家だけでなく、リスナーとしても、アクースモニウムに触れることは非常に大きな収穫も生むかと思います。特に、例えばビートがなかったり確固としたフレーズが掴み難かったりするタイプの「抽象的な」電子音楽について、印象論だけでなくより踏み込んだ理解をしたかったり、それを言葉にしたかったりする場合、アクースモニウムの経験はかなり役に立つと思うのでおすすめです。

アクースモニウムを体験する機会は手近なところですと来月7/14に大阪のステージ空にてhirviによる次なるコンサートが早速予定されています。

ここでもアクースモニウム体験会があるそうなのですが、既に定員が埋まっています…。hirviがイベントを開催する際には体験会も合わせて催されることが多いのですが、都合上毎回定員が少なくすぐに埋まってしまうそうなので、気になる方はhirviのXアカウントなどで情報をこまめに拾えるようにしておくといいかと思います。

https://twitter.com/hirvi_acousma


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