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ささきしおり展「描奏をきく」に行ってきた

6/2~6/4にかけて久しぶりに東京に旅行に行きまして、ライブ行ったり建築や絵画見たり友人に会ったりといろいろやってたんですが、そんな中で正に友人に教えてもらって知った個展「描奏をきく」に会期最終日(6/4)に滑り込んでみたところめちゃくちゃ面白かったので、いろいろと感じ取ったことの覚え書きです。

https://ss-poison.tumblr.com/

「描奏をきく」はアーティストのささきしおりさんが考案した独自の楽器「ユポドラム」を用いた個展です。ユポドラムはドラムから通常のドラムヘッド(打面となる皮)を取り外し、代わりにユポという丈夫な紙を張ることで、音を出すための打面にキャンバスとしての機能も加えたものといった感じで、個展ではそこに絵の具を垂らしたりそのうえで様々な動作を加えた「描奏」の後=跡としてのユポ紙がいくつも展示され、「描奏」の様子の録画映像(音声あり)も常に流されていました。加えて会期中にはささきさんによるライヴや、入場者自身が「描奏」を体験できるトライアルも実施されていました。私はタイミングよくトライアルとライヴどちらも体験することができたので、以下にその感想を記していきますが、(あくまで私個人のものではあるものの)それは個展なり「描奏」の核心に触れるものとなる可能性もあるので、これから見たり体験されたする予定や意志のある方はその後に読んでいただいたほうがいいかもしれません。




・「描奏」トライアル前

会場に入ってトライアルが始まるまでに10分ほど時間があったので、まずは簡単な解説など聞きながら展示作品をいろいろと眺めていたんですが、この段階では(会場内で常に流されている「描奏」中の映像によってそれが描かれる過程やその際に起こるサウンドを補足することは一応できるものの)円形に切り抜かれたペインティング作品として見えていた面が強かったかなという印象です。



・「描奏」トライアル中

ささきさん本人による簡単な手順説明など受けたうえで「描奏」トライアル。「描奏」はユポの打面に絵の具を垂らすところから始まるんですが、この絵の具がかなり粘度が高いもので、故に重みもあるのか、ある程度の高さから打面にそれを落とすだけでちょっとした打音が生まれます。垂らした後は用意された様々な道具、ブラシや櫛、針金の取っ手のついたおもちゃ、スライムっぽい感触の吸着力のあるおもちゃなどなどを使って、絵の具を引き伸ばしてみるもよし、絵の具のこと気にせずテキトーに面を叩いてみるもよしで、とにかく好きにいろいろやってみるんですが、この「いろいろやってみる」中で自分の中に生まれる情動が我ながら驚くほど豊かでマジで楽しい。事前にささきさんの説明でも少し仰られていたのですが、描くことを優先した動作(例えば垂らされた絵の具をブラシで意図的に丸く引き伸ばす)を行えばその時に発される音はこちらの作為から逃れていく感覚がありますし、逆に音を出すことを優先した動作(例えばしばらく一定のリズムで叩いてみる)を行うとその時の絵柄(絵の具)の変化は作為から逃れていくということになり、この表裏一体となったような「描くこと」と「奏でること」への意識、意図が目まぐるしく入れ替わる感覚はなかなか得難いものだなと思います。
最初は本当に無邪気に遊んでるだけなんですが、時間が進みある程度打面にいろいろな絵の具が垂らされ堆積してくると、それを絵柄として自分の気に入るバランスへ仕向けたくなったり、しかしその最中に手にした器具からちょっと変わった音の出し方が喚起された瞬間、意識が思いっきり音のほうに振れてしまったり。私は普段音楽作ったり演奏したりもしていることが災いしてか、なんとかして風変りな音出ないかなと変な色気出てしまう時間も結構あって、そんなことしてたら気に入ってここは最後まで残しておこうと考えていた部分の絵柄を思いっきり崩して未練がましくなったりもして、なんというか自分の俗物っぽさに度々笑いそうになりました。
実際問題ユポの打面はドラム本来の打面に比べると音のバリエーションはかなり制限される感触はあったので、おそらくこういったトライアルも10~20分も経過すればだんだん「描く」ほうに意識がフォーカスされていく(音の方に急激に意識が振れることが起こりにくくなっていく)のが常ではないかとも思ったんですが、私は友人と2名で入って同時に別々のユポドラムでトライアルを行っていたため、隣で発される様々な動作(絵柄はあまり見えてなかったので主にその音)に反応してこちらも音を発したくなり勝手に体が動いてしまうということが何度も起こり、結果として「奏でる」ほうへの興味もかなり長い時間持続していたような気がします。
そのような「奏でる」ことへの興味の持続もあったからか気付いたら40~50分ほどぶっ続けでいろいろやっていたんですが、そこで思ったのが「これってどうやって終わらせるの?」ということでして、おそらく一人でやっていれば前述したように自然に意識が「描く」ことに収束していくことで「描奏」を終える地点が見えてくるんじゃないかと想像するんですが、私の場合友人の音への反応などもあっておそらくそういった収束が起こりにくくなっていたのか、本当に終わりが見えなくて、最終的にはあれこれやる中で黒の絵の具を垂らしすぎてしまい、打面がかなりの部分黒に覆われたことで「これ以上どうしようもないな」と思えたこと、そして単純に体がそろそろ疲れてきたことでやっと終了とすることができました。

このトライアルの核心といっていいであろう「描くこと」と「奏でること」への意識の入れ替わり、グラデーションはそれを行う人の背景含めた個人の性質にも大きく左右されるでしょうし(例えば打楽器奏者の方がこれを行う場合と画家の方がこれを行う場合では随分違うんじゃないかと想像します)、また「奏でる」ほうへの意識の振れ方に関しては複数人で行ったり、周りにどの程度、どのような音があるかにも左右されそうで、機会があれば全然違う環境でまた体験してみたいところです。
あとトライアルを振り返った時に一際強く印象に残ってるのは、やはり気に入った絵柄を意図せず崩してしまった時の取り返せなさ、儚さですね。例えば普通に絵を描いている(文字通り「描く」ことだけをしている)場合には気に入っている部分にわざわざ手を加える、それも決定的に崩してしまうなんてことはなるだけ避けるのが当然ですし、事故的なものでないとなかなか起こらないと思いますが、「描奏」ではこれが避けがたく起きてしまう、少なくと普通に絵を描くよりは何倍も起きやすくなっているように思います。Eric Dolphyの有名な言葉 “When you hear music, after it’s over, it’s gone in the air. You can never capture it again. ” は、自分自身がいわゆる音楽の演奏を行っている時には、(おそらくあまりに当然のことだからか)それこそ儚さなどなんらかの感慨を持って響くことはなかったんですが、「描奏」中に起こったこの経験を指し示すにはとても適したものに感じられますし、そういった意味では、「描奏」中における「描くこと」は、ある瞬間にはとても音楽的な行為となっているのかもしれません。ユポドラムを用いた「描奏」の最大の特性は奏でたものが跡として残ることであるはずですが、そんな中で消えていってしまった絵柄(=跡)もあること、その存在が最も印象に残ったというのはちょっと屈折しているようでもあり、なんか面白いですね。



・「描奏」トライアル後

トライアル中に起こった様々な心の動きは、先にあれこれ書いたように本当に得難いものだったんですが、それを経たうえで再度展示作品(ささきさんが個展のために事前に用意したものに加え、今回の会期中のライブで描かれたもの、そしてトライアルに参加した方々のものも展示されていました)を見た時の変化もまた非常に印象深いものでした。トライアル前にはいわゆる普通の絵画やペインティング作品と同列に見ることができていたそれらの作品を、トライアルを経験したことで、そこに残されている絵の具の動き(例えば掠れ具合)からここではあのおもちゃを使ったんじゃないかとか、ここではこういう動作をしたんじゃないかなど、その過程を自分の身体に残る感触を頼りにかなり具体的に(しかもそれによって起こるサウンドも同時に)想像しながら、まるで絵の具の模様がそのまま表す時間的な厚みに潜り込んでいくように見ることができるようになっていて、自分が絵画やペインティングといった類の作品をここまでフィジカルなものとして受け取れることに驚きました。私は絵画などを時間や身体性を感じ取りながら観ることがまだ上手くできない人間なのではないか(?)と最近ちょうど考えていたのですが、今回の体験と照らし合わせてみると、自分にはまだ平面的に見えている様々な絵も、例えば日常的にそれと近しい道具や動作で絵を描いている人には時間や身体性を受け取れるものに見えてたりもするんだろうな、それを確かめるためには私は絵を描いたほうがいいんだろうな、などと考えさせられたりも。
また、この「描奏」によって作られた作品は他の音楽にまつわる様々な事物と紐付けたり対比させて捉えてみると、その何とも言えない不思議な立ち位置が実感できるようにも思いました。例えば楽譜を音を発する前段にあるものと捉えてみるなら、今回の「描奏」作品は音の後に正にその跡としてあるものであり、楽譜の向かい合わせのような位置関係にあるものに思えてきたり、でも楽譜もそもそもは鳴っていた音の跡を(主に再現するためにではあるものの)残そうという意思から始まっていそうなので原始的な部分では通じているようにも思えたり。更に想像を加速させてみるなら、「描奏」の跡としてのこれらの作品は、楽譜が持ち得る再現性以外の機能を指し示すもの(つまり楽譜に対しての批評として機能するもの)にもなるんじゃないか?とか。
他にも、通常なら発されたそばから空気中に消えていってしまうはずの音というものをどうにかして定着させることで生まれる表現という視点に立てば、例えば「出した音をルーパーで定着させ、そこに更に別のループを上塗りしたりエフェクトを加えることで一旦定着したループを後から様々に変形したりすることで成り立つ演奏(今だとアンビエントにそういった演奏をされる方は多いです)」はそれ自体が「描奏」後に表れるあの絵柄たちと近しい位置にあるものといえるのではないか?と思えてきたり(ただルーパーを用いた演奏には流石に「描奏」における「描くこと」と「奏でること」の交わりのようなものはないかとも思ったり)。


・「描奏」ライヴ

トライアルの後にはささきさんによる「描奏」のライヴも観ることができました。ささきさんも絵の具や打面に動作を加える道具(おもちゃなど)はトライアルで用意されていたものと同様のものを使用されていたんですが、さっきまであれこれやっていた自分が思い付かなかった使い方も多々あって「これは自分もやってみたかった…」と興味を引かれたり、またそういったトリッキーな面だけでなく単純におもちゃを押し付けて離すだけの繰り返しのサウンドや、その跡が最終的に描かれた柄の中でとてもいい感じに散らばっているところに初めて触れた自分には全くなかった構成の妙を感じ取れたり。例えばこのライヴを見た後にトライアルだったら自分は間違いなくあの動作を真似ていただろうと思うところも結構あったので、トライアルの内容(その最中で感じ取れることというよりは作品の仕上がり)も結構変わってただろうなとかも。

6/4「描奏」ライヴ後の打面
ライヴ後の打面2。1枚目はドラムの下からライトを当ててるんですが、こちらは上からライトを当てていて、これによって絵柄の見え方がかなり変わります。


以上だいぶダラダラと書きましたが、とにかくとても面白かったので機会があれば是非鑑賞や体験などしに行ってみてください。ささきしおりさんのHPのBiographyにこれからのスケジュールなども載っているので、チェックはそちらで。



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