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ブリュノ・デュモン『アウトサイド・サタン』を観た。

前々から映画めっちゃ詳しそうだと思ってた方におすすめいただき、観るの難しそうだったのでDVDも貸していただいたのでブルーノ・デュモン『アウトサイド・サタン』(Bruno Dumont「HORS SATAN」)を観ました。監督名も作品名も初耳で、調べても出てくる情報は多くないみたいなのでほぼ何も知らない状態で観ることになったんですが、めちゃくちゃ抽象度の高い映画で痺れた……。以下感想書いていきます。
*もともとX(旧ツイッター)で書くはずが長くなったためこちらに載せた感じなので、文体がツイートっぽくなってます。



救いと罰、そして祈りなどが投げ出されたように提示されて面食らう場面も何度かあるけど、特にこの映画で意味深に感じたのは繰り返される祈りのショットかな。 事あるごとにどこかしらの開けた場所に歩いていって跪き祈る場面があるんだけど、その眼前にあるのは緑だったり大地だったり海だったり太陽だったりと、何もないとも全てがあるとも言えそうな感じ……特定の方角に向けてとか何らかの確信があっての祈りなのかもよくわからない。自然賛美にも思えないし、この祈りが集団的なものへと波及していく雰囲気(カルト的な臭い)もない。

ただそれらのシーンに共通するカメラの動き(歩いていく人物の背中とその眼前の開けた大地を捉える遠めのショット、そこからカメラが人物の前面に飛んでの顔のクローズアップ)は少なくとも映画において撮られる祈りの場面への目くばせを感じさせはする。なんかとてもメソッド化された動きというか。けどその意図まではやはり現状わからない。ちょっとこじつけてみるなら、祈りってもの自体が(手段として)同じ動作を行うという側面を確実に持っているし、その(当初は手段であった)動作がそれ自体で固有の意味や効果、歴史を獲得していくことのおかしさを暗示する、それによって祈りを解体している?とかかな。
あと祈りの場面というわけではないけど、顔のクローズアップの感じは最近観たペドロ・コスタ作品のそれ(特に『血』)を想起させたし、「父」的な存在がテーマとしてあるのは設定であったり劇中での人物の行動から読み取れる気はする。


あとオマージュなのかはわからないけれどタルコフスキーの映画が過ぎるシーンが随所にあったのも気になった。やたらフィールドを「歩いてる」シーンがあるのはストーカーを、緑の中でめっちゃ燃えてるの遠めで撮るのはサクリファイスを、水田(?)をよろめきながら渡る「試練」はノスタルジアのあれを思わせる。ただ映画全体の印象となるとこちらには長回しがなくむしろかなりぶっきらぼうにカットが変わるし、語り口としては色んな意味でタルコフスキーとは対照的なほどにドライだと感じた。 テーマとしてもタルコフスキー作品と重なる部分はありそうだけど、同じ方向を見ているというよりむしろタルコフスキー作品に対する批評的な視線をより感じさせる。


劇中ではとても素っ気ないかたちで救いや制裁が訪れるので、起こる問題はどれも何かしらの解決をみているということはできそうなのにそこに希望みたいなものはあまり感じないし、祈りのシーンにしても歩いていくという行動やその先にある場に一定量の空虚さが常に漂っている。先にも挙げたけど、この点で目的地を持って進んでいくタルコフスキー『ストーカー』とは歩みの力感が全然違うし、道程にもギャップを感じる。とここまで書いて、今作の登場人物は(見知った土地をうろうろしているという構成であるにも関わらず)ずっと「迷っている」のかもしれないと思った。


登場人物やセリフの少なさ、匿名性、限られたロケーションと、映画を構成するあらゆる面で資本を感じさせない。唯一ロケーションだけは特に「開けた場所」のシーンで景観としての豊かさを感じさせはするけど、ここでなければならないというような必然性よりむしろ、どこにでもあるものを広い画角で録ったらそうなるといった冷めた手触りを感じる。そしてそれは「どのような場所であっても私はこの映画を撮れた」とでもいうような監督の確信にも感じられる。そしてその「どこでもよさ」こそがこの映画の抽象性をビビッドにしているように思う。とてもドライだし、間違いなく人を選ぶ映画だと思う一方で、そのビビッドさ故にある種の伝わりやすさ、普遍性が獲得されているような……。宗教的なバックボーンなり見識がこれといってない自分が、全然得意でない英語字幕(DVDに日本語字幕付いてなかった…)で観てこれだけ思ったこと書き出せるんだから多分言語やバックボーンを超えてくる何かは映っているんだと思う。


音についても興味深い点が多かった。映像の扱いにおいて度々感じられるぶっきらぼうさが音にもあって、特にそれを感じさせるのが風の音。開けた場所に向かうシーンはだいたい風が強いんだけどそれがかなりプリミティブに録られていて(単純に綺麗とか見事に録るというのとはちょっと違う)、映画の語り口を予感させるものとして非常に効果的だと思う。風の音が印象的な映画といえば何といってもタル・ベーラ『ニーチェの馬』だけど、荒涼とした語り口はちょっと通じるような気もする(でも今作にはタル・ベーラが絶対にやらなそうなこともいくつかある)。今作がモノクロで撮られていたらどうだったろうと想像するのも面白い。
あと祈りのシーンで跪いた時に、結構な音量で人物の鼻息が聴こえてくるのも印象的。全く祈りとかではないけど、例えば山道を歩いていてちょっと開けたところで立ち止まった時に、自分の少し荒れた息遣いがそこで初めて新鮮に耳に入るという経験がこれまで何度もあった気がする。人物の鼻息は他のシーンでも聴こえることがあるんだけど、それが奇妙さを生んでいる箇所もあった。この音は人物の主観に合わせて没入感を演出するのがオーソドックスな用い方かと思うんだけど、例えば主観に近しい視点からカメラが(例えばその人物の対面に)写っても鼻息が聴こえたままという箇所があったりして、非常に謎。他にも音声と映像の位置関係なり距離感がなんだかおかしいというところがいくつかあったような。あと音楽は全く流れないんだけど、そういう映画の中でも特に音楽が近寄れないものを感じた。音楽がない映画はそれなりに観たことはあるけど、今作には例えば自分が音楽を付けてみようと想像した時に「劇中の音が既に十分に豊かだ」とかでは片付けられないレベルの強い拒絶感を感じる。ここまでのものは記憶にないかも。



・特典映像を見て
DVDには特典映像として1分ほどのトレイラー映像と、音声のミキシング時の作業映像が含まれていて、これがなかなか面白かった。
まずトレイラー映像はそんなに風変りなものではないんだけど、先述のようにこの映画には音楽がないのだがトレイラーでは音楽が付いている!そしてその状態で(たとえ断片的にでも)この映像を見せられると、やはりだいぶ見え方が違っていて、あまりいいようには作用してないと思った。
そして音声ミキシングの作業風景ではエンジニアと監督がかなり事細かに言葉でやり取りをする様が収められていて、ストーリーテリングとしての機能やある種の生々しさを重視する監督と、エンジニアの考える「いい音」との衝突が度々垣間見えるように思った(フランス語でのやり取りを英語字幕で見たわけなんですが私の英語力はあれなのでニュアンス汲み取れてる自信はないです)。
カメラのノイズや背景ノイズについてのやり取りも度々あり、私がこの映画の音に感じた距離感や鼻息の聴こえ方の奇妙さも、おそらく何らかの意図があってのものなのだろうといくつかのやり取りから窺うことはできた。




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