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自死遺族徒然


記憶と対話

新型コロナウイルスが流行する前年の6月、僕はアウシュビッツに行っていた。
友人の倉田哲也が障害当事者としてナチスの絶滅政策の現場を巡る2週間の旅。その姿を写真や映像に残すことが僕の役割だった。このことについては熊本日日新聞に寄稿している。今回、僕が書こうとしていることはもっと個人的なことだ。旅の仲間は、障害者、在日朝鮮人。日本でヘイトスピーチ、差別の対象になっている人たちだった。そして、それは僕自身に当てはまることだった。

 ナチスは、障害者をガスで大量に殺す「T4作戦」を実行した後、その方法でユダヤ人、ロマ、LGBTの人々を虐殺するため大規模な収容所を作った。兵士が人を殺す罪悪感の払拭と、効率性を求めた結果だ。
 僕たちはその関連施設を順に回った。T4作戦が実行された場所。ガスを使って大量虐殺を行うと決定する会議が開かれた施設。そして旅の最終地点アウシュビッツ。
 旅はレンタカーで移動した。その為に国際免許を熊本の免許センターで取得した。移動車はレンタカー、フォードの6段ミッションの大型バン。その車を3人で交代で運転しながらの旅だった。初めて運転するドイツ、ポーランドの道路、そしてアウトバーン。予想に反して街中の道よりも160kmオーバーのスピードで車がバンバン走っていくアウトバーンの方が運転しやすかった。信号もないし対向車もいないし、おおむね道はまっすぐだったからだ。
ベルリンからアウシュビッツに向かう途中のチェコのプラハで僕は40歳の誕生日を迎えた。カレル橋の近くのレストランで誕生日を祝ってもらった。

 僕は友人を撮るついでに、気になった風景やグッとくる場所を撮っていた。その中にチェコで撮ったものがある。車がくねくねと曲がる道を進む中、後部座席から外を眺めていた。アパートメントの壁に描かれていた「Antifa」というグラフィティが目にとまり写真を撮った。これから僕たちが向かうのは世界最恐のファシストが作った施設だった。

 アウシュビッツではPresspassを首から下げ、友人のことをカメラに収め、脳性麻痺の後遺症からうまく発音できない彼の言葉を通訳し、案内してくれるユダヤ系アメリカ人ガイドの説明を聴きながら歩いた。7月のはじめのアウシュビッツは暑かった。広大な平原に街を接収して造った第一サイト。そこに収容しきれずに、どこまでも平野と空が続く場所に建てられた第二サイト。二か所を半日かけて回った。頭も体も疲弊した。
 収容棟にも入った。銃殺が行われた場所にも立った。何日間も汗と糞尿にまみれながら移送されてきた人たちが列車を降りた後「シャワーを浴びていい」と言われ疲弊した頭と体を引きずりながら、半ば放心状態で入ったところに、天井からはお湯でも水でもなく降ってきたのはナチスが人を効率的に殺すために作ったチクロンB。そのガス室にも入った。
 展示室にはドイツの人たちの衣料用に刈られたユダヤの人たちの大量の髪の毛。赤十字を通してドイツの子どもたちに配られた服や靴。展示されていたのはアウシュビッツが解放されたときに残っていたものだ。ユダヤやロマの子たちが収容所についたときに接収されたもの。全てが現実で、虚構の末に行われた生々しい記憶。

 第一サイトの広い通りを歩いているとガイドが立ち止まり指さした方をみると、説明が始まった。ガイドの指の先は、絞首台だった。一度に複数を吊るすことの出来る集団絞首台。
 僕が見たものは、そこに吊るされている祖母と父だった。僕の祖母と父は首吊り自殺をしている。何人もを吊るすことが出来る大きな絞首台に首吊り自殺をした祖母と父が二人でさがっていた。幻影でもなんでもなく、そこにいた。ガイドと通訳の人の声は後方に遠のいていき周りが無音になり、僕は絞首台を凝視していた。
 どれくらいの時間だったかはわからない。周りの音が戻ってくると同時に気分が悪くなり、その僕の様子に気づいた在日朝鮮人の辛淑玉さんが「大丈夫か?」と声をかけてくれ、現実に戻ってきた。あれはフラッシュバックの一種だったと思うが、それにしても生々しい体験だった。
在日朝鮮人、障害者、自殺遺族。それぞれがそれぞれの記憶と体験を持ち、この旅に出た。
ナチスから虐殺された人々の記憶を辿ると同時に、それぞれの記憶を辿る旅だったのだと思う。

 旅から帰ってからしばらくして、イーユン・リーが書いた「理由のない場所」という本を手に取った。「16歳の息子が自殺した。もう存在しない子供との対話を続ける母 底なしの喪失感を実体験に基づいて描く衝撃作」と帯に書いてあった。僕は手に取ったけど未だに本文は読めずにいる。ただ訳者あとがきだけは読んだ。その一節、

「家族を自殺で失った人々にインタビューし、一冊の本にまとめたカーラ・ファインはこう書いている。『(全米精神医学協会によれば)愛する者を自殺によって失った場合にこうむるストレスは破滅的レヴェル―強制収容所暮らしを経験するのにほば匹敵する―に達するとされている』」

 アウシュビッツで見た祖母と父は、確かにそこにいた。僕たちが抱えていかなくてはいけない記憶は辛く苦しいものでもあるが、ときに死者と生者との対話を試みる。
アウシュビッツはそういう施設であることに改めて気づく。記憶と対話。それは歴史や国家や差別といったものから、今回の僕のようにごく個人的なことにまで。

平田洋介
引用 イーユン・リー著「理由のない場所」河出書房新社

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