「虎に翼」第54話について

 いままで本作について特定のエピソードの感想を書いたことはなかったけど、この第54話は全体を通してもキーになる或いは珠玉の一話になる気がして、どうしても現時点で文章に残しておきたいと思いました。ただし、本話は法律論が主軸ではないので、弁護士としての分析ではなく、あくまでいちドラマファンとしての感想です。

「ごめん。昨夜も香子のこと黙っていたことも」
 やはり汐見は謝ることのできる男。妻の頼みで寅子には隠していたにもかかわらず、それでもヒャンスクから話を聞いてヒャンスクと寅子が無二の親友であったことを知っているからこそ、寅子に対して謝罪すべきことだと判断する倫理観と判断力がある。そして謝罪すべきだと思ったら、翌朝にそれを行動に移すことができる。
 人としての倫理観があり、他者に対して常に誠実で、かつ行動力もある。キャラクターはかなり違うのに、人格の中核部分が優三と共通している。

「チェ・ヒャンスクでヒャンちゃんか」
 創氏改名の実施は1939〜1940年に開始。汐見とヒャンスクが出会った時期は特定できないが、創氏改名後であればヒャンスクは日本名を名乗っていたはず。創氏改名以前であっても女子部入学時にそうであったように、ヒャンスクは日本語に合わせて崔香淑と名乗ったはず。いずれにせよ汐見は宗主国日本のエリートでありながら妻の本名、その朝鮮語読みを知っていた。ここにも汐見の人柄とこの夫婦の関係が表れている。
 他方で、汐見は妻から寅子のこと、よねのことも聞いていたことからすると(後のエピソードで明らかになる)、ヒャンスクは汐見に女子部の仲間たちのことをかなり詳しく話していることがうかがえる。にもかかわらず、ヒャンスクは汐見に対してすら、かつて女子部の仲間たちが彼女に「ヒャンちゃん」という呼び名をつけたことは伝えていなかった。「ヒャンちゃん」という呼び名は、ヒャンスクにとって仲間たちと過ごしたのかけがえのない時間を象徴するものであるはず。最も信頼する夫にそこだけは話していなかったのは、いったいどういうことなのか?後のエピソードへの伏線に思えてならない。

「ヒャンちゃんのことは彼女自身から聞きたいので」
 「よねさんの話をよねさんがいないところで、よねさんじゃない人から聞くのは違うと思うんです」の再来。復活した寅子は、彼女の人格の本質的部分を再び発揮できている。寅子のことを寅子のいないところで穂高や雲野が勝手に決めることで寅子が潰されたエピソードも含め、本作では人間の尊厳と自己決定の関係、representの重要性不可欠性を一貫して描き、訴えてくる。その上で

「そう言わずに聞いてくれ。彼女から話して欲しいと言われてるんだ」
 うーん、深い。ヒャンスク自身が自己決定したことを明示すると共に、ヒャンスクが自ら寅子に直接話すのではなく、汐見を通じて間接的に事情を伝える方法を選んだこと、そこにヒャンスクなりの判断と苦悩があることが我々視聴者にダイレクトに届く。

「その事件の予審判事だったのが多岐川さん」
 多岐川は、ヒャンスクの兄を不起訴処分にしたとのこと。彼は文芸誌の編集者で自由にものを書けないことは憤っていたが、特高が嫌疑をかけていた労働争議との関係はそれほど深いようには描かれていなかった。そこを多岐川が正確に事実認定したということではないか。
 他方、多岐川は日本の裁判官であった以上、治安維持法違反の労働争議に関与したと判断するに足る証拠がある者は起訴しただろう。予審ではなく本審の裁判を担当した場合には有罪判決を下していただろう。この当時、労働争議のみならず、日本植民地からの独立運動も治安維持法違反。しかもその場合、量刑は死刑となることもあった。多岐川もそのような死刑判決を下していたかもしれない。

「朝鮮で法律を学ぶ学生たちの手伝いを彼女に頼んだんだ。多岐川さんは彼らに法律を教えていたからね」
 女子部を経て明律大学法学部を卒業し、高等試験を受験するところまで到達していたヒャンスクは、法律を学んでいる最中の学生たちよりは遙かに高い水準にあったと思われる。しかも彼女は朝鮮学生たちの同胞だ。多岐川の助手としては、これ以上の人材はいなかっただろう。
 多岐川が植民地朝鮮の若者たちに同情的で、彼ら彼女らに何らかの貢献をしようとしていたことがうかがわれる。植民地である朝鮮に適用されていたのは日本の法律。したがって彼ら彼女らが学んでいたのは日本の法律であり、用いられる言語も日本語。「帝国大学の朝鮮人」によると、日本に留学して或いは京城帝国大学で日本法を学ぶことは、植民地朝鮮において出世或いは栄達するための有力ルートであり、それが朝鮮の学生たちにとって良いことであると多岐川が考えていたとしてもおかしくない。
 しかしそこには、加害国・宗主国である日本人と被害国・植民地である朝鮮人との、どうしても越えられない一線とジレンマが存在する。

「僕は、彼女のお兄さんに酷いことをした国の人間なんだから」

 この台詞はこの第54話においても、おそらく第1話から最終話までの全話を通しても重要な台詞であるし、「虎に翼」という作品の特徴を幾つも表しているフレーズでもある。
 まず、植民地支配が「酷いこと」であったという価値判断を明確にしている。人間の尊厳を守ることを至上とする2024年現在の世界標準価値観に拠って立つことを本作は隠さず、各種バックラッシュや歴史修正に対して妥協しない姿勢が一貫している。何より寅子の同級生としてヒャンスクというキャラクターを登場させたこと自体が、この姿勢を物語っている。
 次に、1点目とも重なることだが、本作は日本の侵略戦争を何度も重ねて丁寧に描き、視聴者にそれが伝わるよう工夫を重ねている。対米開戦で戦争が始まったかのような誤解が現代の日本に横行しているからこそ、1937年の盧溝橋事件から日中戦争が始まっていたことをナレーションで明示し、それが徐々に拡大していく様子を丹念に描きながら、日米開戦に繋げた。なんなら帝人事件をモチーフにした共亜事件の最後に水沼ら権力者たちの思惑が日本の戦争を引き起こしたことも、それとなく描かれている。歴史歪曲に明確に対峙する姿勢、これも一貫している本作の特徴。
 そして、戦後間もないこの時点において、汐見という人間が植民地支配を「酷いこと」と認識していたことを示す台詞でもある。そういう人間だからこそ、ヒャンスクは彼に惹かれたのかもしれない。前述のように汐見はチェ・ヒャンスクという彼女の本名、民族名、朝鮮語読みを知っていた。とこのように、ひとつの台詞に複数の意味を持たせるマルチミーニングの手法も、ここに至るまで本作で多用されてきた特徴。

 京城から多岐川と汐見が日本に帰る場面、闇に紛れて逃げ帰るような様子。建物の影に隠れている多岐川らに合図して手引きしている2人は、おそらく朝鮮人。多岐川らと親しくしていた朝鮮の人たちが、彼らを無事に日本に帰らせようとしているのだろう。多岐川や汐見と個人的に親しいわけでもない朝鮮人にしてみれば、日本の裁判官は植民地支配を貫徹するために彼らを弾圧してきた張本人であり、その憎悪を向けられるのは当然のこと。植民地支配から解放されたばかりの京城は、多岐川と汐見にとって決して安全な場所ではなかったと思われる。

「彼女はいま汐見香子という日本人として生きていこうと思ってる。とやかく言う人もいるからね」
「香子からの伝言。崔香淑のことは忘れて。私のことは誰にも話さないで。トラちゃんはトラちゃんの仕事を頑張って」

 「とやかく言う」のひとことで、朝鮮人に向けられる悪意や差別を視聴者に悟らせる力強くもなだらかな台詞。女子部時代も今も肌身離さず写真を持っているほど大事な家族も、寅子ら明律大学の仲間たちとの思い出も捨て去り、汐見との暮らしを守ろうとしているヒャンスク。しかし法律家となった寅子を今でもリスペクトしていることを示す場面。

「私は戦前、彼女との約束を果たすことができませんでした。私にできることはないんでしょうか?」
 目を泳がせる汐見。SNSで多数見られた寅子の傲慢さを示す場面というのは、自分も同感。しかしこれどう考えても、後のエピソードへの伏線でしょう。

「んなもんあるか」
「盗み聞きとは趣味が悪いですよ」

 ここまで汐見が多岐川にどれだけ世話になっていたかを汐見自身に散々語らせておいて、汐見が多岐川をすかさず諫める様子をここでも繰り返すことで、この2人の特別な温情で結ばれたフラットな関係を描いている。こういう細かいところがまた本作の魅力。

「どうするか決める権利は、全て香子ちゃんにある」
 多岐川も自己決定尊重。

「でも助けて欲しくても、そう言えない人もいるんじゃないでしょうか」
 自己決定は尊重するけど、自己責任論には与しない。寅子も本作そのものもその姿勢を宣言したのだと自分は取りました。

「じゃあ、この国に染みついている香子ちゃんへの偏見を正す力が佐田くんにあるのか?」
 汐見と異なり、多岐川は「偏見」というワードをはっきりと口にしましたね。しかも日本における朝鮮の人々への偏見が長い年月をかけて形成され、それは容易には払拭できないものであることをわざわざ「この国に染みついている」という言い回しで表現している。

「正論は見栄や詭弁が混じっていては駄目だ。純度が高ければ高いほど威力を発揮する」
 これまた自分は、本作の制作陣が現在の日本社会に挑戦状を叩きつけた場面だと理解しました。日本社会が纏う空気は数年単位で変化しますが、今はまた正論を冷笑し、小賢しく立ち回ることや要領よくやることばかりがもてはやされる風潮が強くなっていると感じます。家事審判所と少年審判所の意見や立場が全く擦り合わず、対立したまま推移しているこの局面では登場人物の誰かが機転を利かせた妙案で解決する展開になっても良さそうなものですが、そうはさせないよとここで表明。
 結局「純度が高い正論」は直明だったわけですが、自分はこの台詞は55話で回収されて終わりではなく、いずれまたどこかで登場するのではないかと期待しています。

以上


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