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「いつもそこに在る町の顔」が在り続ける理由

高田さやかさん / ゴリゴリカフェ店長・大黒屋商店 五代目若女将
昭和53年8月生まれ 群馬県太田市出身
寄居町内に明治15年から店を構え、こんにゃく・ところ天・氷の製造、販売を行う「大黒屋商店」の五代目若女将でありながら、併設するゴリゴリカフェの店長を務める。

運命的な出会いを機に、寄居町へ

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- はじめに、高田さんご自身のことについて少しお聞きできたらと思うのですが、ご出身は群馬県なんですね。

群馬の太田市出身なんですけど、中高生時代は栃木県足利市の学校に通ってたので、青春時代を過ごしていることもあってか、どちらかというと太田よりも足利の方が馴染みがあって、「足利市民です」という感じでしたね。

高校を卒業してからは、後楽園の近くにある短大まで、太田市から通っていたので、朝5時過ぎの始発に乗って、授業を受けて、部活をして、22時30分発の最終に乗って、太田に着くのが12時過ぎという生活を送ってました。

- 睡眠時間、ほとんどないですね。。

ねー。(笑)
でも昔から、体が強いというか、根性があるというか、とにかくタフなので、あまり苦ではなかったかな。
卒業後は、10年くらい東京に住んだけど、学生当時は通えちゃいましたね。

- ご主人との結婚をきっかけに、寄居に移住したと伺いましたが?

短大卒業後に、近所のスーパーでバイトをしていて。
そこに納品に来てたこんにゃく屋さんが、旦那のお母さんだったんですよ。
ちょうど「うちの息子に誰か良い人がいないかな」と探してた時に、私の話が上がったみたいで。

ある時、スーパーの新店舗立ち上げのお手伝いに行ったら、そこにイケメンがいて。
かっこいいなあと思って、その時はそれで終わったんです。
でも、後日話を聞いたら、その人が、こんにゃく屋さんの息子さんだったということが判明して。(笑)

- なんか運命的。ドラマみたいですね!

うちの旦那と初めて会った時に、「この人と結婚するかもしれない!」と思ったんですよね。

- これは、記事にしてもいいですかね? もう今、ネタ見つけた!という感じでワクワクしてるんですが…(笑)

(笑)

タワレコもHMVもコンビニもない、新天地で奮闘する日々

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- でも、「この人と結婚するかも!」と思った人が、寄居町に住んでいると聞いて、東京で働く中、再び田舎に移ることをどう思いました?

付き合い始めた当初から、彼は「こんにゃく屋を継ぐ」と言っていたので、私もいつかはこんにゃく屋を継がなくちゃいけないんだろうなあ、という覚悟はあったんですよね。

結婚する前から、ちょくちょく寄居には来ていたので、あんまり「田舎で嫌だな〜」という感覚はなかったんですけど、(音楽好きなので)タワレコとかHMVがないということに、「この先、私はどうやって生きていけばいいんだろう」と思ったのは、鮮明に覚えてます。(笑)

でも、あまり環境というものにこだわりがなかったというか、嫌悪感みたいなものはなかったですね。

- ご結婚される時は、自然な流れで寄居町に来たんですね。

そうですね、「来る時が来たな」っていう、それくらいの感じでした。

- 実際に住み始めて、寄居町の印象はどうでしたか?

いや、もうとにかくタワレコとHMVがない、コンビニもない。(笑)
本当にないんだ、何もないところだなという印象はあったと思います。

あとは、全く知らない土地で、住んだ途端に、嫁に入る、商売に関わる、町のセミナーとかにも担ぎ出されたりと、急激な変化があったので、環境云々ということを考えている余裕が、全くなかったですね。
何もかも、全てが初めてだったので、本当に目まぐるしい日々でした。

本業でできることをきちんとやって、町に貢献できたら

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- 大黒屋商店さんのお仕事も忙しい中、なぜ、現在のゴリゴリカフェを始めようと思われたのですか?

昔から、一般のお客様に対して、小売みたいなことはやってたんですよね。
今お店がある場所には、当時囲炉裏があって、そこに来たお客様から、「こんにゃくちょうだい」と言われれば、倉庫から持ってきて販売はしていたので、同じように「かき氷ちょうだい」と言われれば出す、くらいの感じで。

その後、工場の衛生面底上げのために改装をするタイミングで、ついでだから、囲炉裏部分もお客様を迎え入れられるような造りにしようということになったんです。

なので、お店をやろうと言ったというよりは、色々揃っていてできる環境があるのに、やらないのはもったいないんじゃないかと思って、メニューを用意しようとか、これがあったほうがいいとか、やっているうちに、それならきちんと店を構えたら?と話が進んでいったんだと思います。

もともと、食に対してすごく興味関心が高いというわけでもなかったので、たまたまそういう商材が揃っているところに出くわして、ビジネスチャンスとして活かせるんじゃないか、と思っただけだったんですけどね。

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- ゴリゴリカフェという名前は、どなたが命名したのですか?

うちの旦那です。
私は、敷居が高くなるので、正直「カフェ」という名前はつけたくなくて、甘味屋さんみたいに、「〜庵」とか「〜屋」とかが良かったんですけど、旦那が「ゴリゴリカフェだ!」って言うので、まあいいかな、と。

ゴリゴリっていうのは、うちの看板商品の「ゴリゴリこんにゃく」と、かき氷を削る音のゴリゴリと、私と旦那がゴリゴリなハードロックが好きなので、実はそのトリプルミーニングで、この名前にしました。
それが7年前で、寄居に来てから3~4年くらい経った時ですかね。

- そうすると、寄居に来てからは10年くらい経つのですね。

そうですね〜。
最初は、町の活動にも参加して、寄居を盛り上げていこう!みたいな輪の中にも加わってたんですけど、やっぱり自分の本業を疎かにしてまでやってはいけないな、と思って。

イベントとかではなく、ここにお店を構えて、こんにゃくやところ天できちんと自分の店を魅力ある場所としてもり立てて、引き入れたお客さんが少しでも町に流れることで貢献できたらいいなと思い始めたのが、確か嫁に来て3~4年目とか、ちょうどお店を始めた頃なんじゃないかな。

いつでも落ち着ける隠れ家的な存在でありたい

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- 実際にオープンしてから、周りの人や町の人の反応はどうでしたか?

今でこそお客さんが並んでくれるようになりましたけど、最初の1~2年は全然お客さんも来てなかったと思いますよ。
でも、極端に言えば、ここをメインの事業にしているわけではないので、その点、逆にガツガツしていないのが良かったのかな、とも思います。

そうしているうちに、お客さんがインスタとかブログとかで発信してくれるようになって、その口コミでまたお客さんが集まってくれるようになったという感じですかね。

- ここのお店のコンセプトはありますか?

隠れ家的な存在でありたいなと思うんです。
今は、いつも混んでて入れないみたいに言ってもらえますが、常連のお客さんには、いつ来ても座れて、落ち着ける場所であってほしいので、人にはあまり教えたくないと言っていただいたこともあるので、どちらかというと地域に密着した形の、「寄居のオアシス」みたいな場所になったらいいなあって思ってます。

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- そこには、高田さんの存在があるのも大きいですよね。

最近やっと気付いたんですけど、お店に行くのって、食べに行くのもそうですけど、多分人に会いに行ってるんですよね。

他にも色んな仕事を抱えながらお店をやっているので、正直、今忙しいんだけどな〜と思う時もあって、もちろんそういう葛藤はあるんです。
だから、きちんとお客様を迎え入れるためにも、いつかは製造部門とカフェ部門を独立させる必要があるんじゃないかと感じていて。

今、お店で働いてくれている子たちが、お客さんとのコミュニケーションも上手なので、彼らに長く続けてもらって、私がいなくてもいる時と同じような雰囲気やパフォーマンスが出せるといいなと思います。

季節の移ろいを感じられる、寄居町の新たな名物に

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- こんにゃくを、スイーツとして販売することになったきっかけは?

もともと、私自身ところ天はスイーツにして食べてたんですよ。
なので、ところ天スイーツは私がやり始めたんですけど、うちの主人が、こんにゃくをスイーツにしたら面白いんじゃないかということで、実際にやってみたら美味しくて、そこからです。
ようやく、町の中でも浸透してきたイメージがありますね。

- お店をやる中で大変だった時ってありましたか?

今年から、9月いっぱいで年間のカフェ業務を終わりにしてるんですけど、昨年までは通年でやっていて、春夏の繁忙期は問題なくても、秋冬はどうやったらお客さんが来てくれるかを考えながら、限定メニューを作るとか、スイーツブッフェをやってみるとか、色々と試行錯誤して…閑散期の営業については、結構苦労しましたね。

でも、今年からは潔く、10月から3月は営業自体をお休みする事にしまして。
春の訪れとともに、ゴリゴリカフェそろそろ始まるなと思ってもらえるのもいいかな、と気持ちを切り替えてみているところです。

次世代につなぐ、これからの20年

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- 今やっているゴリゴリカフェや大黒屋商店が、今後どうなっていくと良いと思いますか?

難しいですけど、ゴリゴリカフェは自分の手元から離そうと思っています。
今働いてくれている人たちの準備ができたら、店を任せるような形に、将来的にはしたいなと思ってます。

結局は、母体をしっかりと作り上げていかないといけないので、今後事業承継ということも考えると、企業として変えられる部分は変えていかないといけないタイミングになってくると思うんです。
母体となるこんにゃく・ところ天製造メーカーとしての地位をしっかり築いていきたいですし、次の世代に引き継いでいきたいと思ってます。

私、そんなに長く働くつもりはないので、60歳になったら孫の子守をする予定です。(笑)
あと20年の中で、カフェを軌道に乗せて、食品衛生の部分もきちんと底上げしないといけないですし(※2020/2/24、JFS/B規格の取得を目指しキックオフしました)営業でも新規のお客さんを見つけないといけないし、色々な面で動いていかないといけないので。

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- 「次につなぐ」というのは、お子さんが継ぐというイメージですか?

娘が2人いるので、どちらかが継いでくれるんじゃないかなという、親として漠然とした期待みたいなものはあるんですけど、実際は今、これまで代々社長が受け継いできたこんにゃくやところ天の伝統製法を、主人ではなく、若い従業員さんに引き継いでるんですよ。
主人は営業に専念したいということで、商売の基盤となる「製造」の部分を、2人の従業員さんに伝授しているんです。

なので、必ず娘や娘婿に継いでほしいという気持ちはなくて、もし本当にこの会社に惚れ込んでくれる人がいるのであれば、家族での経営から手放して、少し大きくすることもありなんじゃないかな、という気がしています。

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嫁に来た時は、家族4人が頑張って、あとは「従業員さん」みたいな状態だったんですけど、正規雇用を始めて、モチベーション高く、経営陣と同じように会社を想ってくれる人がいるということに気付いたので、家族だからとか、血がつながっているからとか、そういうことを抜きにして、信頼できるいい人たちと会社を盛り上げていけたらなと、私は思っています。

もしそれができるのであれば、企業としてもっと大きく成長するだろうし、そういうところまで見据えて、会社の土台づくりをきちっとしないといけないなというのが、多分、今後20年、生涯をかけてやっていくことなんじゃないかなと思います。