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お互いができることを一緒に、この土地で育む農業

井伊 誠さん / 新規就農者(有機栽培)、カンボジア語通訳者
書籍編集の仕事を経てカンボジアへ渡る。取材の過程で食料の生産者・農民が食っていけない本質的な矛盾に触れ農業に関心を持つ。 帰国後、有機農業の研修を受け寄居町で農業を始める。 地域資源(草、竹、落ち葉、わらなど)を活用した生産にこだわり、本来の地場作物とは何かを考えながら、年間約60種類の野菜、米、麦、大豆を有機農法で栽培。

「面白そう」からスタートしたカンボジアでの生活

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- 農業を始める前に、何年かカンボジアで過ごされたと伺いましたが、どういうきっかけだったんですか?

編集の仕事をしてた時に、東南アジア5カ国の料理の作り方を現地の人に教わって、レシピを紀行風の文と一緒にまとめる本を出す企画の担当で。
国を選ぶ際に、カンボジア料理は、意外と日本で知られてなくて、でも調べたら多様で面白そうだなと思って、そこで初めてカンボジアを訪れました。

- 現在、カンボジア語通訳者のお仕事もされていますが、カンボジア語はその時に習得されたんですか?

取材の時に、路上で屋台をやってる人がいて、その人に身振り手振りで料理を教わったんですけど、最後に、撮っていた写真を送ってくれと言われて、できたら送るからと住所を尋ねたら、「家はない、ここだ」と。

会話蝶を使いながらよくよく聞くと、路上で寝泊まりしていることがわかって、それなら届けるしかないと、企画が終わってから遅めの夏休みを取って、再びカンボジアに行ったんです。

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その時、ゲストハウスのお兄さんに、村の祭りがあるから一緒に行こうと誘われて行ったのが一番楽しかったんですけど、その人の英語を通じないと、楽しそうにしてる現地の人が何を言ってるかがわからなくて。
彼らと会話ができたら面白いなと、趣味の一環で、日本に帰って勉強を始めて、現地との行き来を繰り返しながら少しずつ話せるようになりました。

- 面白い、というところからのスタートだったんですね。

あとは、当時の仕事的に、よく言えばオールマイティ、悪く言えば強みがないというか、専門分野がなかったので。
このままだと将来食いっぱぐれるから、何か突っ込んだ分野を学びたいと思って。

周りには、カンボジア語を学んだところで、役に立つのかと言われましたが、当時はまだ若かったんで、それでもやってみようかな、と。
教わっていたカンボジア人留学生には、「君なら半年くらいカンボジアで勉強すればペラペラになるよ」みたいなことを言われて、調子に乗って渡っちゃったんです。(笑)

「農業ってなんなんだろう」という疑問。やってみたら…

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- 現地には、何年間くらいいたんですか?

5年半いました。
最初は、1年で帰るつもりだったんですけど、行き始めたら面白くなっちゃって、気づいたら5年半経ってましたね。

- 向こうでは、どんなお仕事を?

カンボジアつながりで、インターネット草創期からネットワーク関係の仕事をしていた人と知り合って、当時日本にも入ってきたばかりだったブログを書いてみることになったんです。

カンボジアの暮らしに興味があったので、普段の生活の些細なことを書き始めたら、月1本、暮らしのことを書いてくれないかというお誘いがあって、それが最初の仕事でした。

その後は、旅行会社の旅情報を執筆する仕事や、テレビ取材・ジャーナリスト等の通訳の仕事が入ってきたので、なんとか暮らしていけるようになって、もっといたいと感じるようになりました。
結局お金がないといられないので、そこは大きかったですね。

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- カンボジアで、暮らしそのものに興味が湧いたことから、徐々に農業や食に関心を寄せていったのですか?

直接的にはそうですね。
カンボジアは、当時、国民の7~8割が農民と言われる農業国だったので、貧困問題や売買春問題を扱っているジャーナリストの通訳で付いていくと、行き着く先が農村だったんです。

で、村に行くと田畑があって、みんな農業やってるんですよ。
でも、ほとんどの人が経済的にとても貧しく、中には身売りせざるをえない人がいる現状に、食べ物を生産する人たちが食っていけない、という本質的な矛盾みたいなものを強く感じたことが大きくて、「農業ってなんなんだろう」と。
それが、農業に対する直接的な興味関心というか、始まりですね。

- 農業に対する、問題意識みたいなものを感じられたのですね。

当時は「金はなくても、心は豊か」みたいな、頭でっかちな考え方をしているところがあったんです。
でも、目の前には、絶対的にお金のない大変な暮らしをする人がいて、彼らがどういう文化や習慣のもとで暮らしているのかとか、暮らしの基盤になってる農業がどういうものかも知らずに、そんなことを言っている自分に違和感を抱いて。

「まずは何か育ててみようかな」と思い、プランターを買って、種まいた程度なんですけど、始めてみたら、それが本質的な矛盾とか、どうでも良くなるくらい面白かったんです。
種をまいたら、芽が出て、実がなってみたいなのが、とにかく楽しくて。

ごく当たり前のように、自然と向かっていた

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- 帰国後、農業を始めるタイミングで、有機農業をやろうと思ったのはなぜですか?

母親が、食品添加物や農薬に対する関心が高かった記憶があって、そういうところがベースになっていると思います。

あとは、農業で一儲けしようと始めたというよりは、自分が食べるものを育ててみて面白かったというか、就農の直接的な入り口は家庭菜園だったので、自分で食べるものに農薬撒く必要もないし、美味しいのが採れればそれでいいと思っていて、特に有機栽培か農薬を使う慣行栽培かを比べた訳ではなく、自分にとってはごく当たり前のように、自然にそっちに向かっていった感じでしたね。

- 60品目を、一人で、有機で、かつ堆肥などもご自身で作られているというのは大変なことだと思うのですが、なぜ多品目でやろうと思ったのですか?

自分で食べるものは、自分で作りたいということが根底にあったので、種を買うタイミングで、あれもやりたい、これもやりたいといった感じで(笑)始めから50~60品目くらいになってました。

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- 寄居町に住もうと思ったきっかけは、何だったのですか?

有機農業の研修先を探していた時に、小川町を見つけて、そこの農場で農業研修をすることになって。
家も探さないといけなかったのですが、飼ってたネコと一緒に住める動物OKの物件が見つからなくて、範囲を広げて探していた時に、今の寄居町男衾の家を見つけたのが、寄居に来たきっかけですね。

いざ、農業始めるとなった時も、小川町の畑が借りられなかったこともあり、積極的に選んだ訳ではないけど、住んでいるうちに、寄居に親しみを持ち始めていて。

あとは、研修でお世話になった農業委員さんが、この畑を紹介してくださって今ここにいるというか、ご縁というんですかね、一言で言うと。
そこから5年目になります。

人との出会いを通じて見えた、新たな町の顔

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- この5年間で、寄居町の印象が変わったところはありますか?

はじめて来たとき、男衾駅はまだ改装前で小さい駅舎だったので、遠くに来たなあという感じはありましたね。
一方で、自分の家の周りは、意外と家が集まっているというか、もっと畑があって家がちらほらみたいなイメージをしていたので、典型的な農村、田舎というよりは、町らしい雰囲気もあるんだなというのが第一印象ですね。

そういう意味で、初めの印象が男衾という地域だったので、市街地を通った時は、その賑わいに、町の違う側面を見た感じはしました。

- 町の人とのつながりは、どうでしょう?

人との交流は、「寄居町耕す人の会」への参加がきっかけですかね。
近所の山が荒れて、イノシシがすごい出た時期があって、家の前まで来ると危ないということで、農業や家庭菜園をやっている人たちが集まって、山の下草刈りをやり始めたんです。
そこに混ぜてもらって、初めて地元の人とのつながりができました。

その後、農林課が紹介してくれた「寄居町の生産者を巡る会」で、市街地の人が畑を見学に来てくれて、初めて商工会やまちづくりに関わる人の存在を知りました。
町に、中心市街地活性化計画があることや、まちづくりに対して積極的に動いている人たちを見て、一言「すげぇ」と。(笑)

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- その時に出会った町内の飲食店の方とは、その後展開が?

町内の飲食店に興味持っていただいて、日本料理屋の板前さんから、「お試しセットみたいなものをいただけますか?」という連絡をいただいたのがきっかけで、そこから今も週1くらいでお届けしています。

「来月はどんなの採れますか?」「こんなの採れますよ」「じゃあ来月の献立はこういうメニューにしましょう」という感じで、お付き合いをさせてもらってます。

お付き合いが始まった頃は、そのお店に出す前提で野菜を育てていなかったので、今後は、お店の都合やニーズに合わせて、種類や生産量を調整していけたらと思ってます。

- 生産者さんと飲食店の方が、直接つながれる場が生まれているのですね。

ありがたいですね。本当に貴重な出会いをいただきました。

お互いがやれることを、一緒にやれたら

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- 井伊さんは、これからどうなっていきたいですか?

中心市街地活性化を市街地の人だけでやるのではなく、農村振興も農村の人だけでやるのではなく、もっとお互いに行き来があったらいいな、と思いますね。
町の活性化を考えた時に、その町ならでは、その町らしさが欲しいと思うんですよ。

その中で、自分がやれることは何かと考えたら、ここで栽培した野菜を、寄居の在来資源を使って、寄居の土で、寄居で採った種で、まさに「寄居産」だと言える作物を生産して、町内で長く商売をやっているお店の技術や歴史と合わせて、商品として町で提供してもらうことができたら、飲食がもっと寄居町らしく、この町ならではになるのではと思っています。

- この町で生まれたものが、この町で育まれていくって素敵ですね。

在来の資源も、里地里山で採れるものだけでなく、市街地から出るものも「資源」として使えたらと思い、例えば町内のコーヒー屋さんからコーヒーかすをもらって、堆肥を作ってみたいと考えてます。

この畑を営んでいくうえで、ここだけうまくいっていればいいというのではなく、周辺全体の農地が活用されていかないと、土地が荒れてしまう。
獣がすぐそこまで迫っているので、この辺一体に活力がないと、自分の畑も駄目になってしまう。

その延長線上で、農村部だけでも、市街地だけでも駄目で、地域の活力という意味では、両方・町全体に元気があったほうがいい。
お互いがやれることを、一緒にやれたらいいなと思うんです。

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- 農業の文脈が加わることで、町に新たな流れができそうですね。

就農という形ではなく、農家資格を持っていない人が、小さくてもいいから農地を借りて耕作できて、空き家を借りて、自分で食べるものを育てて、平日は都内とかに働きに行くという「田畑のある暮らし」みたいな感じで、農地や住宅が空かないようになるといいな、と思います。

そういう意味で、この畑も"閉ざされた畑"でなく、"開かれた畑"にしたいというのはありますね。
農業という現場に、普段農業と関わりのない人が出会えるというか、触れられる空間にできたらと思っています。