寄居若者会議メンバーインタビュー:石田健祐さん
「寄居をもっと盛り上げたい」「寄居のために何かやりたい」
そんな思いを持つ若い世代が集まり、意見やアイディアを出しあって寄居の魅力発信やイベント等の活動を行う寄居若者会議。
そのメンバーの素顔や寄居町への想いなどについてインタビューさせていただきました。
今回のインタビューは美術に関するお仕事をしながら、長野県伊那市地域おこし協力隊としても活躍している石田健祐さんです。
- 石田さんは寄居町出身で、現在は長野県に住われていますよね。寄居町はどのエリアに住んでいらっしゃったのですか
もともとは玉淀駅の近くに家族で住んでいて、幼稚園の年長に上がるタイミングで男衾に引っ越しました。その後大学卒業まで寄居にいましたね。
- 寄居町の思い出として印象に残っていることはありますか?
鉢形に叔父が住んでいたので、子供の頃は従兄弟と一緒に水天宮祭の花火を見に行ったり、おばあちゃんと一緒にライフのゲームセンターで遊んだりしていましたね。
そういった商店街が元気だった頃の思い出が残っています。
- 石田さんは美術系のお仕事もされていますが、美術に目覚めたのはいつからですか?
小学校5年生の時の担任が五十嵐先生という方で、その先生が僕の絵や版画を褒めてくれたのがきっかけです。
ギターを1本持ってバイクで日本中を旅したり、学校で歌を歌ったり、校庭でバーベキューをしたりと自由な先生でした(笑)
- 個性的な先生ですね(笑)
そうなんです(笑)
当時僕は引っ込み思案だったのですが、先生に作品を褒めてもらえたことで自信がついて。
「美術が好きだと言ってもいいんだ」と思えるきっかけになりましたね。
自分が好きなことが学校やクラスのみんなに認められて、そのきっかけを作ってくれた五十嵐先生のおかげで美術の道に進むことになったと思います。
- 早いタイミングで今の道が見えていたのですね
でも中学校の時はサッカークラブに入っていたんですよ。
当時の美術部は男子も少なくて入部に踏み切れなくて。
ただ続けていくうちに成長痛で足が痛くなってしまって、サッカーが少し嫌いになってしまったんですよね。
その時にこれから何を心の糧にして生きていけばいいのかと考えて、やっぱり何かつくることを仕事にしたいなと思って。
そこで高校入学を機に美術部に入りました。
高校は男子校だったので周りの目を気にする必要もなくて(笑)
- 高校から本格的に美術の世界に足を踏み入れたということですね。美術部ではどんな創作活動をしていたのですか
油絵で風景画を描いたりしていました。
当時は風景画家にもなりたかったので、夏休みなどは家の窓から見える男衾の風景などを描いていたりしましたね。
- 卒業後は多摩美術大学に進学されていますが、親御さんは美術の道に進むことを応援してくれましたか
心配はしていましたが、応援はしてくれていたと思います。
1年浪人して美術の予備校にも通わせてくれましたし、環境を与えてくれた親には感謝しています。
- 子どもを信じていたのでしょうね。素晴らしいご両親です
そうですね。
ただ、弟は音大に入りたいと言っていたのですが、兄貴が美大に行ってお金がかかるからということで通わせてもらえていませんでした(笑)
- 弟さんに恨まれていませんか?(笑)
多分大丈夫だと思います。
長男で良かったなと(笑)
- 大学卒業後はそのまま美術系の仕事に就かれたのですか
就職についてはなかなか決めきれなくて悩みました。
五十嵐先生の思い出もあるので学校の先生になろうかとも思ったのですが、美術大学という狭い場所で育って、社会に出ないで先生になることは自分にはできないと思いました。
とは言ってもアーティストになる自信もなかったので、最終的には自分でものづくりの想いを広く伝えられるテレビというメディアに就職しました。
ただやはり憧れと現実のギャップだったり、不規則な生活に限界が来てしまって……辞めて寄居に戻ってきたんです。
- その時期は精神的にも厳しかったでしょうね
厳しかったですね。
いきなり田舎者が東京の、目の前にモノレールが走る高いマンションに大人数で住んで。仕事では芸能人に会ったりして。
そういった生活に疲れてしまったので、自分が生まれ育った場所の空気を吸って生きることは癒されました。
- 不安定な時期だったと思いますが、そこから今のお仕事に就くまでにはどんな経緯があったのでしょうか
寄居で過ごしている時に、一緒に仕事していたAD仲間が美術関係の仕事を紹介してくれました。
映像編集ができて美術が好きな人を探していたみたいで。
その繋がりで今もお仕事をさせてもらっています。
- 石田さんは今、複数のお仕事をされていますよね。具体的にどんなことをされているのでしょうか
ベースとなる仕事は地域おこし協力隊ですが、他に兼業で美術関係の仕事もしています。
美術系テレビ番組が主催するコンサートや展示会でのお手伝いなどですね。
フリーランスで働いていた時にバルーンロボットを作る会社のサポートもしていて、それを展示会に置いてもらいたいと提案したら採用いただけて。
今はそのバルーンロボットが良いフォトスポットになっているようで嬉しいです。
アートへの強い想いが叶えた、寄居町での芸術祭
- そんな石田さんが、若者会議のメンバーになったきっかけは
先ほど話した仕事をしていた頃、地方芸術祭を色々と回っていたのですが、可能性をすごく感じて。
田舎でも、そこに芸術作品があるだけで全国から観光客が訪れて、アートを介して地元の人と観光客とが繋がる。
アートはこういうことができるんだと思って、寄居でも開催できないかと考えました。
それを2018年の正月に帰省した時に親に話してみたら、商工会議所を紹介してくれて。そこから若者会議の存在を教えてもらい、メンバーとなりました。
- 若者会議では芸術祭を実現することはできましたか
はい。
2018年の1月にメンバーになって、3月25日には開催することができたんです。
町が借りていた元時計店の空き家を、当時若者会議を担当されていた役場の課長が「石田くん、アートしたいなら使っていいよ」と言ってくれて。
そこにライブペインティングのアーティストを呼んだり、陶芸作品を置いたり、クイズコーナーを作ったりして。
僕自身もバルーンロボットで参加させていただきました。
- これまでの石田さんの経験を結集させて作ったイベントですね
そうなんです。
これを加入わずか3ヶ月で叶えてもらったので、こんなに早くできるのかと感心しました。
- スピード感がありますね
やっぱり「これをやりたい」という気持ちが大切ですね。
僕としてはアートキュレーターとしての経験にもなるし、立ち止まらずにどんどんやってしまったという感じです。
- 若者がやりたいことを実現する、という若者会議の意義が表れていますね
そうですね。
しかもその年の11月にも「よりい超民アート展」というイベントを開催させていただいたんです。
これは町民の趣味や遊びをアートとして捉えるイベントで、高校生が写真展をしたり、町民の方が所有している甲冑や浮世絵の展示させて頂いたりしました。
- こういったイベントの時には、他のメンバーも一緒に活動されるのですか
メンバーそれぞれで役割があったのですが、僕のやりたいことも手伝ってくれました。
展示用の台を作成したり、運営に協力してくれたり。そこが若者会議の良いところ。
町の人も前向きに捉えてくれて嬉しかったです。
地域おこし協力隊を通して「教育への恩返し」を
- 今は長野で地域おこし協力隊として活動されていますが、どのような経緯だったのでしょうか
これからのことを考えた時に、フリーのディレクターでやっていく選択肢もあったのですが、ふと五十嵐先生のことを思い出したんです。
こうやって今、好きなことを自由にやらせてもらっているのは先生がきっかけだと思って。
先生はもちろんのこと、教育そのものに恩返しがしたいと思うようになりました。
そんな思いを抱えて地域と教育の仕事を探していたところ、長野県伊那市の地域おこし協力隊を見つけました。
- 伊那市ではどんなことをされているのでしょうか
すごく簡単にいうと、伊那西小学校の児童数を増やす活動をしています。
伊那西小学校は全校生徒50人前後の小さな学校ですが、1haの森を持っていて、その森の中でコンサートをしたりしています。
あとは蕎麦粉でガレットを作ったり、地域と一緒に運動会をしたりと、地域に密着した学校なんです。
加えてICT、タブレットの活用も盛んだったりと、とても可能性を感じる小学校です。
そしてその小学校を支えているのが、地域の婦人会や青年部、有志団体の大人たちです。
そこが土壌となり、「伊那西地区を考える会」という有志のメンバーが幹として加わることで小学校を支えていくというグランドデザインを一緒に考えました。
- 石田さんにとって小さい頃から関心の高かったことが結びついていますね
そうですね。
森は昭和26年に地域の方が植えたものが育ってできたのですが、僕たちも木を植えれば同じように森の学校が作れるという希望になりますし、これから全国にこういった活動が広がれば良いなと思っています。
若者会議は「学校ではできないことができる入り口」
- 現在は長野で精力的に活動されていますが、それでも石田さんがまだ寄居町の若者会議に残っている理由はなぜですか
若者会議を潰したくないという思いが強いからですね。
いま進行中のコンポストのプロジェクトがあるのですが、その発案は同じ若者会議のメンバーの西田さんです。
私はそのアイデアに乗っかっている形ですが、西田さんにも若者会議で夢が叶った喜びを味わって欲しくて。
やりたいことができた喜びを、ちゃんと他の人にも与えたいというか。
- 夢を叶えてもらった立場から、今度はメンバーの夢を叶えたいという気持ちに変わったということですね
願いとしては今よりももっと若い、高校生や中学生、小学生たちが、とりあえず何かやりたいことをやってみたりとか、学校ではできないことができる入り口となる場所にしたいんです。
でも今は実際に寄居町内で動いているプレイヤーが少ないですからね。
そもそも若者会議に参加するための入り口が少ないような気がします。
活動に動きがあれば話題になりますが、今はコロナもあって動いていないので、どんどんと過去に流されてしまって皆さんの記憶から無くなってしまうのではないかと心配しています。
コロナが終息したら、若者会議説明会みたいなのをしてみたいですね。
学校と連携しても良いかもしれません。
僕もあと2年で35歳になって、そうなるとOBになってしまいます。
それまでに若い人を育てないといけないなと思います。
- 想いが伝わってたくさんの若者が動いてくれるといいですね。最後に、現在の若者会議のメンバーにメッセージをいただけますか
コロナで会えないけれど、タイミングが来たら一緒にワイワイやりたいですね!
【編集後記】
小学生の頃の「五十嵐先生」など石田さんはとても「人」に恵まれていたのだと思いました。そしてそこで巡り合った人たちの言葉を大切にしてきたからこそ石田さんにはしっかりとした芯が通っていて、きっとこの先も真っ直ぐに己の信じる道を邁進していくのだと感じました。
これからはそんな石田さん自身が次の世代への道標たる存在になっていくのだと思うと楽しみです。